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5話:缶詰人魚の話

「どうぞお一つ」と黄昏時の往来で声をかけられた。汚い格好の男が立っていて即座に物乞の一種だと判断する。

近頃こんな手合いがやたら増えていた。「お一つ二銭」こちらを見るぎらついた目に豆腐一丁分の面倒の避け賃を支払う。粗末なブリキ缶を渡され、男は大人しく去っていった。


止められた歩みを再開し、掌の物を胸の高さに持ち上げ検分する。天地ピタリと閉じた缶詰。ラベルも刻印も無い。底を返せば“賞味十日”の文字があった。十日で中身が悪くなるなら缶詰の用は成さない、開けて十日なのだろう。中身を見当づけようと振ればちゃぷんと微かに水音がした。


鮭の水煮か何かだろうと踏んだ缶詰をポケットに捻じ込みそれきり気に留めることはしなかった。それよりも服に染み付いた消毒液の匂いの方が余程気になる。匂いが抜けるまではあの女が纏わりついている気がする。本郷に療養する女を見舞い慰めてきた帰路は遠回りに歩くのが常だった。


下宿に帰った時にはもう日は落ちていたが、埃っぽい日向の匂いがまだ残っていた。西日が容赦なく入るのと畳が古過ぎるせいだった。褐色の荒れた畳に家主が投げ込んだらしき封筒が落ちている。確かめるまでもなく兄からに違いない。この年学校へ払う金の着服がそろそろ知れる頃だった。


身を投げ出すように寝転がれば、背と畳の間からひらりと舞い上がった封筒が横面を滑り着地する。穏健な筆跡は兄そのものだ。叱責を受けても最終的には穏便に許される。兄に家督を譲り三人目の妻と離れに暮らす父が兄の判決に口出しするなど考え難く、彼等は総じて自分に甘かった。


目を閉じた闇に面影を探す。白いレースの日傘が作る淡い影に生成の袖が揺れている。幼子の手を握る透ける様に白く細い手。心の片隅に持ち続ける面影は他の誰よりも美しいはずだった。日傘に半分隠れる顔を仰ぎ見る。微笑んでいる色の薄い口元は、毒々しい赤に塗りつぶされていった。


八重子は母の妹で、妾腹の子であった。母の家は山脇という士族出の旧家で、八重子は産まれてすぐ実の母親と引き離されて山脇の家に育った。おっとりした姉と違い、八重子は勝気で奔放で、高等女学卒業後、画の先生に師事すると家を出て恋愛事件を起こし戻ってくるような女だった。


ごろりと横臥になり茶封筒の角を見詰め、傍目には異母姉妹には見えないと言う母と顔立ちが似ているらしい八重子の姿を思い浮かべる。親族に見放された病身の女を閉じ込める隔離病室という名の檻。その寝台に四つ這いになり寝巻きの裾を捲くり上げ、肉が削げ落ちた尻や脚を震わせる女。


ハッ、と息を吐き、まだ消毒液臭い手を額に当てて、仰向けに戻る。違和感のある重みが畳と衝突して、何だと訝しみすぐ例の缶詰だと思い至った。途端に空腹を感じる。下女に言付けてもすぐに飯は届かない。何だろうが腹の足しになるならと文机に寄って抽斗から出した缶切で缶を開けた。


*****


ギザギザと鋭く切断した缶の蓋を、缶切の歯に引っ掛け押し上げる。中は墨汁の如く真っ黒な液体で一杯だった。蓋が跳ね上がった振動で鉛色に光る波紋が広がっている。異臭は無くそれどころか何の匂いもしない。一見して何か解らずとも食べられる中身ではないということは解った。


やはりそんなものかと、半ば予測していた落胆と共に自嘲した時、ふと黒い水面に変化が見えた。ゆらりと缶の真ん中で黒い塊が盛り上がって沈み、よくよく目を凝らせば透明な液体の中に黒い藻の様なものが缶一杯漂っている。中央付近の塊は藻が蓑虫のような形で固まったものだった。


暗さに目が慣れてくるに従って、黒い藻はもっと硬質な糸の様なものに見えた。艶々と照りのある質感に女の毛髪だと気が付いた時、いくら二銭でもあんまりだという怒りと、何か狂った猟奇じみたものに触れた嫌悪感と戦慄に、両の肩甲骨ごと背筋を揺らすよう反射的に身を捩った。


すでに空腹は忘れ、気味の悪さに口の中が乾いて粘ついている。机の上に置いた缶一杯に水と女の黒髪が詰まっている。ぞろりと水音も立てずまた中央の塊が動いて沈んだ。水の中でゆっくり回っているようだった。大人の人差し指程の長さと厚みで、真ん中だけ親指程ふくっり膨れている。


不意に黒い塊の中身に切った女の指を想像して、腰から弾かれたように文机から後ずさる。白く細い女の指に黒髪が厚く、木乃伊を包む布のように巻かれている。一度そう想像した目には、もはや塊はだた毛髪が絡んだものには見えず、慌てて下女と家主がいる階下へ逃げるように下りた。


瞼の裏側にぎらぎらと光る二つの眼があった。あの尋常な人とは違う気配を感じた浮浪者の眼。黄土色の手に棒の様な二本足が鶏を持つみたいに握られている。逆さに吊られた女の躰。めくれた着物から剥き出な病的に白い中身が次第に青褪めていく。狩った獣は血抜きをしなければならぬ。


まだ心臓が動いている。温い胸元を包む衿を腹まで肌蹴けるよう毟って膨らみにナイフを刺し、尾まで裂いた中に指を入れて傷付けぬよう繊細に何もかもを掻き出せば、血泡の紅を塗りたくった唇がああ、ああと咽び、すっかり空っぽな躰の肉は柔らかに甘く匂ってゆっくり腐り溶けていく。


もう一つの黄土色の手が黒髪を鷲掴めばずるりとだらしなく邪魔な首は落ちる。伸びた指も邪魔だ、だらりと結ばれた帯ごと着物を毟って、肉自体の重さを利用してぶら下がる腿を胴体から裂き、割った胸の肉を骨から外し、綺麗に分けた肉を見ながらぎらぎらした眼が満足そうに嗤う。


「どうぞお一つ」薄く瞼を開き、階下への薄暗い階段にざらざらした声を聞く。「お一つ二銭」切って捨てるだけの粗悪な中味。卑小な昂りを弄た指なぞとうに口に含み意地汚くしゃぶって噛んでいる。ただそれがずるずる這い回る髪に巻かれてあるだけで怯えるなんて可笑しな話だ。


馬鹿げた妄想だ。動転した神経は階下に着く前にすっかり冷静さを取り戻した。髪結の店先で拾ったものでも詰めた子供騙しなんて話の種にもならないと部屋に引き返す。暗闇に玉虫色がぬらリと光って弧を描き、ちゃぷんと缶に飛び込む。盛り上がる濡れた黒い塊が割れ白く光る躰を見た。


******


ひらひらしたエプロンの白がモスリンの紫色を垣間見せながら行き交っていた。週に二度足を運ぶカフェーのテーブルで出された酒を舐め、夕飯代わりのサンドをつまむ。作ったのは男だろうがどうにも白粉臭く感じて頼んだものの余り食は進まず、中身の薔薇色なカツレツ肉だけ齧り取る。


よく火が通った肉を一齧りしたきり、口の中に残る甘い脂身の余韻を虚ろに味わっていたら、すっと傍に赤紫と白い色が立った。テーブルにつこうかどうしようか迷う女給に掛ける言葉などない。どう相手されても飲んで食ったら一旦別れ、白々しくこことは違う場所で会うのだ。


「いらっしゃいまし……」おどおどと呟いて女給は正面に座った。手に葡萄酒の瓶をもっていて、まだあいていない細い高足のグラスへちらりと涼やかな目を動かした。まだ底より少し高く赤い酒がある。その一連の様子を眺めながら「やあ、こんばんは」と挨拶する。


先にチップを二円渡すと恐縮してこちらを伺った女給に「いつもより長く付き合ってもらいたいのでね」と囁けば俯く。田舎から出てきた割に田舎の陰が薄い容姿をしていた。ほっそりとした柳腰で色が白い。流行りの挿絵画家が描くような姿と、藤乃という名前だけが気に入っている。


「何かお嫌なことでも?」尋ねてきたのに、曖昧に笑うだけで応じた。明るい店でこうしている間も暗い部屋には鈍色に光るあの缶詰がある。中には豊かな黒髪に包まるあの白い人魚がいる。麻の実大の目を黒々と開け、真珠の肌と白蛇の鱗。禍々しいまでに赤い唇と米粒より小さな歯。


たったニ銭でよいのかと思える美しい小さき異形であった。しかし一方で、ニ銭に相応しい矮小な出来損ないの異形にも思えた。記憶に残る容姿が酷く曖昧なのだ。人魚の躯付きや顔立ちを見ていてもなにか判然としない。美しさと人ならざるモノが醸し出す獰猛さだけがそこにあった。


「あのう」黙り込んでいたからだろう。おずおずと声をかけられる。藤乃という女は薄情そうで薄幸そうな、それがやけに劣情をそそる顔立ちの女だった。切れ長の目の、黒々と濡れた瞳が此方を伺い凝視している。藤乃の視線に無関心なまま杯に残っていたぬるい酒を干した。


杯が空けば自動的にそう動く機械人形のように、赤葡萄酒の瓶を傾けようとする藤乃に悪戯を思いついたような笑みを向けて制する。鳥の様に首を傾げる藤乃は確かに無知な純朴さを持つ田舎女であった。もう出ると言い、なにか言いた気な様子の藤乃に何時店を出られるか尋ねた。


時間が遅くなり周囲の喧騒が高まっていた。ヤアヤアと殊更気勢を上げて聞くに耐えぬ論を声高に話す者、複数で囃子唄を合唱し出す者達、所詮は学生向けのカフェーであり親の脛を囓るおそらくは同じ大学に属す客。顔見知りも何人か見える。もう一度何時出られると藤乃に尋ねた。


「二時間もしたら」「そりゃ遅い、遅すぎる」即座に返事を撥ねつければ泣きそうに眉を寄せる。叱られるのだろう。田舎で地主の妾にでもなる向きな女は快活な色気と強かさを要する女給など勤まりはしない。腕を取って奧に連れて行きこれを渡すよう言い含めもう一円渡してやった。


こうして二時間と一夜を三円で買い上げた女と待合で落合い帯も解かず四つ這いに転がし、愉悦に満ちた獣の声を上げさせる。病の甘い香を纏う八重子を嬲り、翌晩は田舎の土の匂いが残る体を同じ様に嬲って清める。明け方に部屋に戻れば、力尽きた藤乃と同じ顔で人魚が眠っていた。


*****


「何を見てらっしゃるの?」半歩下がって隣りを歩く少女を振り返れば、先程迄こちらが目をやっていた先に向ける横顔をゆっくりと戻すところであった。直ぐに目が合う。長い睫毛が視線を遮るように下りる。人を見ていたのですよと余所向きの調子で答える。「人を?」「ええ」


「これ程、人が行き交っているのに知合いをちっとも見かけない」「お友達」「皆、近くにいるに違いないんだ。実に不思議じゃあありませんか」やや芝居がかって訴えれば、少女は口元に細い指を折り曲げたのを添えて可笑しそうにくすくすと笑い、まあと言ってまた笑った。


人魚の缶を物乞いの男に押し売られて以降、目は往来を観察し、なんとなしに男を探すようになっていた。ああいっ た手合いは大抵己の根城近くで活動するものだが姿を見かけることはなかった。缶を開けて五日。その間、八重子を見舞い、藤乃を買って、今は将来を囁く少女といる。


缶詰の中で人魚はひがな一日うとうととしていた。餌を欲しがる様子もない。黒々した長い髪を白い鱗がぬめって光る躯に巻き付け、缶の水を時折ちゃぷりと鳴らす。覗き込めばすうと笑みを見せる。媚びているような、嘲るような、ただ笑っただけのような、いずれにも見えた。


死病の翳りで粧う女を苛めた澱を田舎の憐憫で装う女を嬲ることで払い、天真な処女との逢瀬に慰められるも直ぐその邪気の無さに鬱屈した苛立が募り、病に虚ろな女体に投げ捨てたくなるのだった。ぐるぐる巡る女に安堵するのはわずかな瞬間だけで、後はただ憎しみ一方しかない。


あの缶、あの人魚、あれは一体何だろう。今日歩くのと同じ往来。沢山の人々の中どうしてあの男は自分に缶詰を売りつけたのだろうか。日銭が稼げるなら誰でもよかったのか。だがあんな中身を誰彼構わず売りつけるものだろうか。もしや男は中身を知らなかったのではあるまいか。


「どうぞお一つ」「お一つニ銭」ざらざらと卑しく濁る声が甦る。足先に薄く積もる乾いた往来の土埃を不快に感じながら、砂を食って吐き出す気分で少女の話相手をし、自室に戻って机に置いている缶詰を覗き込めば、むっちり丸い両肩を寄せ邪気の無い顔で人魚は昼寝をしていた。ちゃぷんと水音がした。


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