第2話 感情の檻
イラハに短時間で二度目となる目覚めが訪れる。
半眼に映った見知らぬ天井――、蜘蛛の糸のかかった、まったく清掃のされていない薄汚れた天井が意識の覚醒を急がせた。
「……どこだ、ここ? 格子……? 牢屋ってことか? ……さっきに続いて確認するまでもなく、絶対に俺の部屋じゃないよなぁ」
空気も埃っぽくて、カビ臭い。
申し訳程度に壁掛けの明かりが牢の中のみを照らしている。
格子に近付こうとし、けれど、それは四肢を繋ぐ鎖の戒めによって阻まれてしまった。金属が擦れ合う音が牢に響く。
「牢だし当然と言えば当然だけど、俺、捕まってるじゃないか……」
手首足首に金属製の枷が嵌められており、そこから鎖が繋がっていて壁にまで伸びている。
その時に右腕の痣みたいなものに目が止まるが、気を失う前にこんなのあったなぁとイラハは思い出した。幸い痛みがまるで無くなっていたので、現状でイラハが知り得たいこととしては優先度が低い。
日常離れしたことが次々と起き、理解がまだ追い付いていない。
けれど、鎖に繋がれている今という現実が、決して楽観視できるものであろうはずがないことは、イラハにだってわかった。
――だが、力尽くでというのは、イラハの痩せ細った筋肉では厳しそうだ。
まったく自慢にならないが、ダテに八年間も『ラグマギ』に没頭してたわけではない。
平日のプレイ時間は最低でも七時間。中学生なので、もちろん学校には通ってのことだ。
休日はこの比ではなく、平日の倍のプレイ時間で一日をゲームに費やす。
ちょっとした廃ゲーマー――
それが桐崎伊良波の八年間変わらない過ごし方だった。
「どうしてこんなことに……、ああ、思い出した……。短い時間で二度も気を失ったんだっけ……。おかげで頭の中がすっきりしねぇ……。ついでにグチャグチャだ。……何でこうなった?」
大きく息を吐き出し、気を失う前の最寄りの記憶を辿る。
「シーン・ファム・エルブライト」
真っ先に辿り着いた記憶は、眠らされる前のこと。
『ラグマギ』で日課のように追い掛けプレイしていた姫に、彼女を見た時、イラハはすぐに似てると思った。
だからこそ、イラハの頭の中は混乱に混乱を生んでいる。
お気に入りの姫の名前もシーン・ファム・エルブライト……同一の名前であったからだ。
「名前は一緒。姿も似てる……というか似過ぎ」
ゲームの中ではCGだったりポリゴンだったりしたが、ベッドで見たシーン姫は現実の生身の肌感――つまりは三次元のそれだ。だから外見はまったく同一ということはない。
――にしてもよく似ている、とイラハは思った。
特徴どころか、全てに於いて見事に再現していると言えた。
「おまけにここはVRゲームの中だと踏んでたのに、この壁や鎖がゲームの画質や質感にまるで見えないんだよなぁ……。思い出せば、ベッドのシーツの皺なんかリアル過ぎて現実そのものだし。……あ、でもその割には……」
と言って、視界左上に見える簡易ステータスに目をやると、ここがゲームであると訴えてきてるようで現実味が薄れてしまう。
「結論からして、ここはゲームの中だけど、現実と大して変わらないほどの超高度な仮想現実世界といったところか? それでゲームをやってたはずの俺がどういうわけか仮想現実世界に入ってしまったと……ありえねぇ~……」
大雑把に話を纏めたが、否定しつつも現状ではこの考えが一番しっくりくる。
「なら、この場合、俺が現実の世界でゲーム中に追い掛けてた姫と、仮想現実世界で俺を眠らせた姫は同じ姫だってことになる……のか? 思い返せば、ディスプレイの中から姫が出て来たって時点で、既に異常事態だったわけだし、無関係ってことないよな?」
ならば、姫――シーン・ファム・エルブライトにもう一度会わなければならない。
「俺をこの世界に連れてきたのはシーン姫である可能性が高いってことか」
その為には牢から出る必要があるわけだが――
そこでイラハは、姫が言っていた魔獣の話を思い出した。
「魔獣と一緒に俺を牢に入れるとか、ぶっそうなことを姫さん言ってた気がしたけど…………どうやら、いない……よな?」
周囲を見回したが、手足を封じられた自分の四肢は気になるものの、先立っての危険はイラハには見当たらなかった。
「……どうしたものか」
早速躓いた――
と嘆くより早く、イラハは閃いた。
「この簡易ステータスが見えてなかったら気付きもしなかっただろうな。後ろ手に枷をされてなくて助かった」
上肢の動きを封じている手首より先に視線を滑らす。
視界の中心に指先を捉えると、イラハは視界左上の簡易ステータスに人差し指で触れてみた。
すると、『ラグマギ』のいつもの縦長のメニュー画面が現れる。
ここからより詳しいステータス画面にアイテム覧やスキル覧といった各種詳細メニューへと繋がる。
「最初は定番のステータス画面から見てみるか」
ちなみにイラハは、いつもなら新しいゲームをする場合は環境設定から確認する方だが、現実過ぎるこの世界に、今時のゲームには必ずあると言って良い環境設定があることに違和感を感じたので、今回は順序を変えることにした。
「…………簡易ステ通り、やっぱりレベル1か。能力値もごく普通の初期ステみたいだ。種族も人間だし、これといって得手不得手のない初期値……って、なんだか久々に見ると懐かしいのと同時に、やり直しを喰らった気分で億劫になる弱さな気がしてきた…………けど――」
状況を本当に理解しているのか疑わしいほどに、イラハは不敵に笑みを見せ、
「よわよわな主人公が冒険を重ねて強くなっていくのがゲームの醍醐味なんだよなぁ」
などと誰もいない牢の中で悦に浸る。
我ながら、つくづくゲーマーなんだとイラハは思った。
「まぁ、本音としては多少でもスタートダッシュを有利に運べるに越したことはないんだけども」
今さっき、レベル1からのスタートにやりがいがあると言いつつも、攻略に役立つものを早速強請る素早い手の平の返しように、自分の強欲さが可笑しくなりイラハは苦笑してしまう。
「目を覚ましたかと思ったら、いきなり笑ったり、いつまでも訳のわからないことをベラベラと……恐怖で頭でもイッてしまったかぁ?」
突然、野太い男の声がイラハの鼓膜を乱暴に叩いたような衝撃を襲った。
声を掛けられた途端、総身が震え出す。
体温が急激に下がっていくのを感じ、自身の変調にイラハは戸惑いを覚えてしまう。
『――エルブライト国が公女、シーン・ファム・エルブライトが――イラハ、あなたを断じます! 三日間、魔獣【白亜の嵐鳴】と共に牢に幽閉! その後、死刑に処します!』
姫に言われた死刑宣告がイラハの頭の中を過る。
「魔獣……」
「カッカッカ。儂様の殺気に充てられたかよ。弱いなぁ、人間! これだからお前らは何百年経っても餌にしか過ぎんのよ!」
「【白亜の嵐鳴】……」
声は格子を隔てた先からだ。
暗くて、ここからでは先がよく見えないのに、何者かの殺気だけが肌を射すように届いている。
「けっ。その名で呼ぶ人間がまだいたのかよ」
ここからだと姿が見えない声の主……人の言葉を発し、少ないやり取りながらもこちらの言葉を理解している――相手は人間と思ってなんら可笑しくない状況だというのに、けれどイラハはそうは思わずに驚いた。
イラハが想像していたのは――
姫が言っていた魔獣――
よもや人間の言葉を話せるとは思っていなかったのだ。
「誰だよ? こっちからはあんたのことが見えないんだ」
相手とコミュニケーションを取れると知ったイラハは、恐怖で竦む心を奮い立たせて、会話を試みることにした。イラハの心情は内緒にしてだ。知られれば、よくわからない相手に会話の主導権を握られかねない。それはあまり面白くないとイラハは判断した。
「餌に誰かと聞かれて応える馬鹿がどこにいる? 人間の子供。どうせお前は儂様に喰われるのを待つだけなんだからよぉ」
「喰う? 俺を? 人間を食べるって言っているのか、お前は……。お前は人間じゃないのか……?」
相手からはイラハが見えているらしいのに、こちらからは相手が全然見えない。そのことがイラハの精神により負荷を掛ける。
話す度に、相手が魔獣かもしれないという思いが確信へと変わっていったことも拍車をかけていた。
一方的な殺意を向けられ、立っているのも辛く、背中は冷たい汗でびっしょり。蛇に睨まれた蛙の、したくもない蛙の気持ちを共感してしまう羽目になるとは。
身体が恐怖を訴えてくるのも当然。
現代において殺意を向けられる経験なんて、そうそうあるものではない。
職業にもよるかもしれないが、人生の中で一度も殺意を向けられることなく、天寿を全うできる人の方が多い。
ましてイラハは中学生。
そんな経験、皆無と言って良かった。
「そのへんにしておきなさい、大いなる獣【白亜の嵐鳴】よ」
「……儂様を人間が付けた異名で呼ぶんじゃねぇ。しかし、こんな埃臭いところにわざわざお目見えとは珍しいこった」
第三者の凛とした声が突然、牢に響く。
途端、イラハに向けられていた殺気が闇に潜んだ。
カツカツと靴音が近付いてくる。
「変態には良い気味ね」
イラハのいる牢の前で歩みを止めたのは、格子越しにイラハを見下ろす、煌びやかなドレスと装飾品に身を包んだ金髪の美少女。手には灯りの点いたランタンを持っている。
「ちょうど会いたいと思っていたところで、まさかそっちから来てくれるとは思わなかったぜ、シーン姫」
「ちょうど会いたかった!?」
姫が自分の身体を両手で抱くようにして、嫌悪を態度で示した。
「なんだ、そのストーカーを前にしたような態度は!? ……すっげぇ、不本意なんだけど!」
本気で女の子に嫌がられるのは精神衛生上良くない。想像以上に堪える。なので、早々に会話を変えるべきだとイラハは踏むことに。
「姫様、あんたは何で俺を呼んだんだ?」
「……呼んだ?」
「――――」
さっきまで姫がイラハに向けていた軽蔑した眼差しが、急に冷淡なものへ変化した。突然、感情が抜け落ちたような暗い瞳にイラハは内心戸惑うものの、聞きたいことはたくさんあるので次の言葉を続けることにする。
「意識が無くなる前、確かに俺はあんたを見た。そして目が覚めたら、見知らぬベッドに俺と姫様はいた。俺がこの仮想現実……異世界と無関係とはどうしても思えないんだ」
「カソウゲンジツ? イセカイ? 何を言っているの? 私はあなたを呼んでなんていないし、あなたのことなんて知らないわ。知っているのは、初対面のあなたが私のベッドに入り込んでいたという事実。それだけよ」
人を騙そうとかそういう態度は感じられないものの、険があるように思える。
姫の寝室に潜り込んだ不届き者としてイラハを見ているという、事実ではない事実があるので初期好感度は最悪と言って良い。
一見会話が成立しているように見えて、実はそうではない現実にイラハはひどい悪寒を覚えていた。
そのことが拍車をかけて、淡々と話す姫の様子が不気味に思えてならない。
「それは誤解だ! さっきも言った通り、信じられないかもしれないけど、目が覚めたらいつの間にかベッドにいたんだ! 君をどうこうするつもりなんて俺には元よりない!」
「黙りなさい」
「――――」
他者に意思など不要とでも言うかのような一切の反論を許さない強い言葉。
ただし、言葉の内容の割に感情の起伏がそこからは感じられない。
声音は機械のように淡々としていた。
元々は碧だった瞳の色が、瞳孔が異常なほど小さくなるのと同時に赤へと変色する様がイラハの双眸に映る。
「三日後……言った通り、あなたの死刑を実行するわ」
ベッドの中で出会った時のような怒った表情も、ゲームをプレイ中によく見てきた優しい表情も、この牢に訪れてすぐに見せた侮蔑の表情も、何もない――。
話せば話すほど感情をどこかに置いてきたような、感情を宿していない目をした女の子が唯一、口許を釣り上げる瞬間が訪れた――
「久々だわ。公的に人を殺せるなんて。一人だけというのが物足りなくもあるけど……まぁそこは我慢しましょう。その分、質の良い殺し方をしてあげたら良いのだもの。ええ、そうしましょう」
イラハは自分が姫から感じた印象が間違いであったことを、ここに至ってようやく知る。知れば、絶句するしかない。
声音は相変わらずだが、言ってることは滅茶苦茶だ。
要は彼女は最初から感情を損なってはいなかったというだけの話なのである。それをイラハは姫がどこかに感情を置いてきたなどと知ったかぶって思い違いしていただけ。
本人の前で笑ってはいけないと我慢する余り、顔が不自然に無表情になってしまった――
そういう経験はイラハにもある。
イラハと姫とで違ったのは心の檻に閉じ込めた感情の質――
内に抱いていた悪意の質だ。
「俺のお決まりのヒロイン、どこ行ったよ……」
その証拠に今、彼女はとても愉快そうに残忍な笑みを浮かべていた。