第16話 笑顔
瞼の裏から差す陽光が、瞳を閉じているにも関わらず網膜を刺激する。
急かされた覚醒に逆らい、イラハは掛け布団の中に頭を埋めることで、再び意識を深い眠りの底に落とそうとする。
しかし、イラハの二度寝を邪魔するように、外から鳥の囀りが眠気を飛ばそうとしてくるので、嫌々イラハは重い瞼を持ち上げようと半眼になり――
「もう少し、寝かせてくれよ…………んっ!?」
一気に眠気が覚醒へと急いた。
イラハの視界いっぱいに肌色が広がっている。
しかも、もっちりとしていて、鼻腔を甘い香りが漂う。
「……なんだ、最近もこんな慨視感なかったっけ……?」
もしかして、タイムリープでもしたのかと疑いたくなるほどの巻き戻し感。
イラハが思い出しているのは、異世界に飛ばされてばかりの時のベッドの中でのこと。
黒色の両瞳にアップで映っている女性特有の胸部の二つの膨らみがもたらした瑞々しい谷間。桃源郷があれば、こんなところかなとイラハに連想させる。一糸纏わぬ少女――という以上に目を見張る豊満な裸体がそこにはあった。
「おはよう、イラハ」
頭上から聞き覚えのある少女の声がした。
見上げると、シーン姫がイラハに優しい眼差しを向けている。イラハの頭の中は大混乱。戦闘をしてる時でもこんなことはなかった。
互いの視線が絡まると、途端、イラハの頬に紅が差したが、当の本人は気付いていない。
「え、え? 何、この状況!? もしかして、俺の寝てる間にいろんなものが終わったってことないよな!? ……って、これ前にも言ったっけ」
「何も終わってなんかいないわ。だって、私……まだ誰にも身体を許したことなんてありませんし。あっ、でも、貴方になら許しても良い……ですよ」
とんでもないことを口から発したのは、この国の姫であり、ヴェルカリナの七姫と称されるシーン・ファム・エルブライト公女、その人である。
自分で言ってて恥ずかしくなったのか、最後は声がか細く、真っ赤になった自分の顔をシーンが両手で覆う。
……が、問題なのはそこじゃない。
「……聞き間違いじゃなかったら、今、姫様、俺に許しても良いって……? しかもまだ処女で……いや、姫様なんだし処女なのは納得できるとして! ……え!? どうなってるんだ!? フラグどこで立てたよ、俺!?」
大いにテンパるイラハ。
そこに声を掛けたのは――
「エルブライト公国の公女は、自分を戦いで負かした相手と結ばれる風習ってのが代々あるのよ。勝ち方には些か問題はあったろうが、まぁ勝ちは勝ちってことなんだろ? そいつはそれで納得してるようだしよぉ」
「アルっ!?」
窓際で犬のようにお座りをしているアルがいた。
ただし、可愛いげは一切ない。
「あっ! まさか、お前、それで最初に俺を姫と戦わせようとしてたのか!?」
「ククッ……さぁて、どうだったかなぁ」
ニヒヒヒ――、という笑い声が今にも聞こえてきそうなほど、イヤらしく憎たらしいアルの顔。
イラハの今の心情を現すようにこめかみに血管が浮き出てくる。
「惚けやがって……」
「ふん……。その女に感謝するんだな。マナ欠で体温の冷えたおめぇの身体を、そりゃあ、大事に暖めてくれたんだからよぉ。惜しかったな。でなかったら、死んでるぜ、おめぇは」
鼻を鳴らして、アルが教えてくれたことは、イラハには予想外で聞き逃せるものではなかった。
ベッドのこの状況は、アルが言っていた風習云々のものとばかりてっきり思っていたのだ。無関係ではないだろうが、イラハを助けるための行為だと、アルが教えてくれる。
マナが尽きたら、気絶するところまでは把握していたが、その後、身体の体温が奪われることまでは、イラハは知らなかった。初耳だ。
考えてみれば、それも当然で『ラグマギ』だけじゃなく、大抵のゲームではキャラクターに体温なんてステータス項目はない。
国内産ゲームでは稀だ。
よってゲーム内では低体温症になることもないし、その逆の朝起きたら高熱にうなされる――なんて経験をゲームでしたことがない。
もちろんリアルでは高熱ぐらいであれば体験したことはあるが、それだって人生で片手で数えれる程度しか風邪をひいたことがないイラハにとって、有り難いことに経験豊富というわけではなかったが。
イラハは今もすぐ隣にいる彼女――、シーンに視線を流した。
視線に気付いた姫が、頬は赤く染めたまま……いや、いっそう濃く染め上げて、目を伏せる。自身の剥き出しの胸を、はみ出しながらも両腕で覆い込んだ。
剥き出しの時よりも、見る者を扇情的な気分にさせること間違いなしの破壊力だ。
それはイラハも例外ではなく――
「――ぁ」
掛け布団をシーンの肩からイラハが包み込むと、姫の小さな口から安堵の声が漏れた。
「ありがとう。助けてくれて」
礼を言うイラハ。
しかし、そうではないと、首を左右に振ってシーンが拒む。
その表情からは先ほどまでの良い雰囲気はどこへやら、恥じらいや、はにかんだ笑顔が影を潜めていくのがわかった。
怪訝に思ったイラハは、彼女の心の変化を見逃すまいと瞳の奥を探ろうとし、
「――――」
目には涙を浮かべていた。
「違うんです……助けてもらったのは私……。ありがとう、イラハ。……そして、ごめんなさい……あなたに酷いことをして……。謝って済むことではないのはわかっているつもりです……。それでも謝らせてください。本当にごめんなさい……」
「シーン姫、あんた鬼化してる時の記憶が?」
頭を下げて謝る姫の表情が、更に深く沈んだ気がした。
だが、これは大事なことだ。
可哀想だと思ったイラハだが、心を鬼にして聞かねばならない。
「まだ記憶が混乱している部分もありますが…………はい、あります」
予想はしていた。
都合良く全てを忘れていれば、どれほど楽だったことだろうか。
これからの人生に、常に付きまとうだろう枷を心に嵌められてしまったのだ。
それも本人に無関係なところで……。
さぞ、やりきれない気持ちだろう。
それでも彼女は何も言い訳をせずに、イラハに頭を下げた。
その行いが姫の純粋さを誰が言わずとも語っており、だからこそ、彼女は無実なのだとイラハは確信する。それが余計にイラハの胸を締め付けるとも知らずに。
皆が皆、イラハのように思えれば、問題は最小限に解決するかもしれない。だが楽観的な思考を、そうはならないはずだと冷静な思考が否定してしまう。
今、イラハの双眸に映るのは、自分と同じぐらいの歳の少女が、肩を小刻みに震えさせている姿。
まるで怯えている小動物みたいだ。
胸元に手を置いて、掛けてもらった掛け布団が擦れ落ちないようにしているが、決してそれだけでないことにイラハは勘づいている。
不安で、不安で、今にも押し潰されそうな気持ちを、華奢な身で必死に耐えている様――そんなふうにイラハの瞳には映っていた。
シーンの姿を見てイラハが感じ取ったものは、きっと間違いではないだろう。
見ていてとても痛々しくて、苦しくて、彼女が今、抱えている心境をイラハがどれだけ理解してあげられるだろうか?
いや、全部は無理だ。
シーンの沈んだ心地に触れれるのは、同じ思いをした者だけ。
全部を理解できる者など、自分以外には不可能なのだから。
ただでさえ、自分自身のことを完璧に理解できる者などそうはいまい。
なのに、他人のイラハが全てを理解しようなどとなんておこがましい。イラハはシーンと同じ経験だってしたことがない。
だから、全部を理解できるはずがない。
――したくても、できない。
「シーン」
「はい」
「過去を変えられないわけだし、やったことをなかったことにすることはできない」
「……はい」
容赦なく、傷を抉るだろうイラハの一言。
シーンがいっそう声を小さくして頷く。
肩から身体全体に伝染したらしく、震え方が大きくなったように見え――
姫の目から溜まっていた涙が溢れた。
イラハはシーンが傷付くとわかっていて、敢えて厳しい言い方をした。
それは彼女を傷付けるのが目的なのでは決してなくて――
「だからさ、前よりももっともっと皆のためになることをしようぜ! 言うならば、住み良い街作り……人に優しいことをさ」
片目を瞑って、イラハは得意気に口の端を釣り上げた。
「住み良い、街……作り? 人に優しいこと?」
全てを理解してあげることはできなくとも、心に寄り添うことならできる。
その方法としてイラハが選んだのが、シーンが前を向いて歩く為の方法の提示だった。
イラハの拙い目配せに何を思ったか、シーンの口がポカンと開いた。そんなことお構いなしにイラハの口が滑らかに動く。
「なんだって良い。姫が自分で考えて、姫が率先して行動するんだ。あっ、だからって、誰かと協力したらダメってわけじゃないぞ。困ったら、信用できるやつに相談したら良い。どんどん頼っちゃって良いんだ。ただ、そこにちゃんと姫様も参加してないとダメだぜ? 姫の頑張ってる背中を、必ず誰かがそれを見てる。最初は身近な人だけかもしれないけど、頑張った分だけ、姫を見てくれる人はきっと増えるからさ。だから……」
きめ細かいシーンの手の上に、自然とイラハの手が重なる。その手はとても温かくて――
「堂々と胸を張って、笑っていこうぜ」
「――――」
手の震えが止まったのを、イラハは重ねた掌を通して気付いたが何も言わなかった。
ただ、自分の手の中にあるシーンの手を、労るように優しく、優しく握り締める。
けれども――
「……笑えるはずないじゃないですか……」
イラハの言葉をシーンが痛々しい表情で否定する。
「私の心が弱いから鬼に良いようにされて……多くの者を傷付けました……光栄にも周りからは姫の一角に数えて頂きながら、街を――いいえ、国もきっと衰退をして……そのどちらも招いてしまったのが私なのです……。私は……鬼の意思を撥ね除けることができなかった……。荒波のような意思に逆らうことができずに、私の意識は呑まれて……。負けてしまったのです……」
言うとシーンはそっと両の瞼を落とした。
閉じた目から一筋の涙がつぅーっと流れ落ちる。
これで仕方がないのだと、納得してくれと姫に言われているような気がしてイラハは――
けれど、お構いなしに、絶対に納得なんてしてやるものかと強く思った――。
「負けても良いんじゃないかな? 規模が違うだろうけど、俺なんてこれまで負け続けの人生だぜ? テストで負けて、運動でも負けて、ネットゲームにのめり込んで人生の負け組ルートを確立しつつあって……あ、最後のは自分で言ってて嫌になってきた……いや、そうじゃなくて、別に負けても良いんだよ。なんだったら何回負けたって良い」
イラハの言葉が突拍子もなかったのか、シーンは再び瞼を上げる。悲しみの色が消えていない瞳を覗かせた。
「……何回も?」
「ああ、何回もだ。10回、100回と負けても、ここぞって時に一回勝てば良いんだ」
「……けど私は、そのここぞという時に負けてしまいました……。おそらく、人生で一度あるかないかの絶対に誤ってはいけない大事な場面で」
鬱ぎ込むシーン。
――しかし、そんなことイラハが許すわけもない。
だから間髪入れずに言う。
「違うぜ、シーン」
断固とした否定。
「ここぞって時に負けたなら、また次のここぞって時に勝てば良いんだよ。もしかしたら、ここぞと思ってても、本当は今はその時じゃないかもしれないだろ?」
「え……と、ごめんなさい、イラハ……。私にはイラハの言ってる意味がわかりかねます……」
頬に涙の跡を残したまま、申し訳なさそうにシーンが無理にはにかむ。見ていて、とても痛々しい。
「要するにネヴァーギブアップの精神。負けても諦めずに何度でも挑もうって話。自分が諦めた、その時が本当に負けたってことなんだと俺は思う。限界を超えていこうぜ」
「けれど、私は――」
「いいや、だからこそ笑うんだ、シーン。言っとくけど、しないといけないから笑うんじゃないぜ。心から笑うんだ。言ったろ? 人に優しいことしようって。人に優しいことしてるのに、ムスッとしてたらイヤじゃんか? この国の皆に優しい姫の姿、笑顔で見せてやろう。忘れられないぐらいにさ。それに暗い顔なんか続けてたら、それこそ負け運が付きそうだ」
「……意外と強引なんですね」
「そうみたい。新たな自分の発見に、俺もちょっと驚いてるところ」
「……くすっ」
「はは」
お互い、可笑しくなって顔を見合わせて笑う。
緊張が少し和らいだ気がして、イラハはシーンの顔を正面から覗いて――、
「――――」
シーンの白い頬を伝って、涙が溢れ落ちた。
女の子の涙を見慣れていない――もし、見慣れていたとしても、普段のイラハなら、きっとみっともないぐらいに動揺していたに違いない。
だけど、イラハの心は意外と落ち着いていた。
なぜなら、シーンの瞳には涙こそ見えるものの、悲しい、辛い、苦しいといった、切り裂かれた感情が沼地にどんどん沈んでいくような、先ほどまでの痛々しい思いが窺えなくなっていたからだ。
「頑張れば、イラハも私を見てくれますか?」
瞳は潤み、切望する真っ直ぐで純朴な碧い眼が、イラハに向けられる。
「ああ。心配しなくても、ずっと見とくから安心しな。イヤだって言っても見てるからな?」
「――っ」
イラハの口にした言葉に、シーンは顔を伏せ、喉をひきつらせるような呻きを漏らす。
姫の手を包むイラハの手の上から、さらに姫が手を取って被せた。
「今の私、布一枚に守られているだけで、中は裸で、女の子で、この国の姫なのわかってます? 今のセリフ、かなり危ないですよ?」
「あ~……確かに。そこは大目に見てくれると助かる、かな」
空いてる方の手で、イラハは恥ずかしさから誤魔化すように頭を掻く。
顔を赤くして、照れ笑いするイラハの姿に、シーンは釣られて小さく笑った。
「ふふ。仕方ありませんね。……じゃあ、しっかり見ててくださいね」
笑い出し、笑い始めた目の端から、何度目かの涙が溢れた。
今度は一筋では終わらない。
「ああ、任しとけ。限界、超えるとこ見せてくれよな?」
イラハの返事を聞いた途端、涙腺が決壊したかのように、シーンの目から止めどなく大粒の涙が溢れ落ちる。
止めどなく、止めどなく、泣きながらも、けれど顔は笑顔のままで。
まるで滝のように涙が流れ続ける。
笑い声も続く。
声には次第に嗚咽が混ざるものの、笑い声は途切れこそすれ止まらない。
握っていたイラハの手を、シーンは自分の頬に大事そうに擦り付ける。猫が自分の匂いを付けるように、何度も、何度も。
「……けっ」
これまで静観していたアルが、二人の様子に気まずくなったのか……どうかはわからないが、窓から外に出ようとしていた。
「どこに行くんだ?」
窓を出ても、他の部屋と繋がっているという気はしなかったが、アルの場合は空を飛べる……らしい。
ここが何階かは知らないが、飛び降りることも可能だろう。
だから、イラハは声を掛けたわけだが。
「本当はおめぇが起きたら、続きをしようと思ってたのによぉ……シラケちまった……。儂様は好きなとこに行かせてもらうぜ」
このまま行かせて良いものか、一瞬思案したイラハだが、すぐにその考えを放棄した。
獣を野に放つようなものだが、シーンのおかげでマナ欠から脱したとはいえ、今のイラハの状態ではとても戦えそうにないということもあったが――
「もう、悪さするんじゃないぞ、アル」
考えをあっさり放棄できた、理由と言うには理由になっていない理由……それは直感だった。
危険な場面もあったが、イラハはなぜかアルがそこまで悪さをするやつに思えずにいた。
希望的観測が多分に含まれていることをイラハも自覚しているが、無理にどうこうするまでの気にはなれなかったのだ。
「……そういや、まだ聞いてねぇことがあったな」
「?」
「『さんきゅ』って、なんだ?」
アルが聞いているのは、老魔術師・弟との戦いでイラハがアルに口にした言葉。
「ああ、『サンキュー』な。……ん~、なんだ。老魔術師戦でお前、なんだかんだで助けてくれただろ? ……そういう時に人間が言う言葉だよ」
素直に「礼の言葉」「ありがとう」の意味だと言えば良かったものの、照れ臭くなって、イラハは言葉足らずで教えてしまう。
なので、当然アルの反応は、
「ふ~ん……、やっぱり、よくわからねぇ」
やはりイラハの中途半端な言葉はアルに伝わらなかった。
興味を失せたアルが、それ以上は何も聞かず、部屋から外に一歩を踏み出し――
それを見たイラハが慌てて口を出した。
「いろいろと、サンキューな、アル」
人間と同じ認識が正しいのかはさておき、イラハに言われて、アルが怪訝そうに表情を歪ませたまま、
「……ふん。だから、わからねぇよ」
最後に言い捨てて、イラハの視界からアルは完全に消えてしまった。
立ち去る直前、アルの口許もまた、目の前のシーン同様に笑っていたように見えたのはイラハの気のせいだろうか?
アルの居なくなった開けっ放しの窓をじっと見遣る。
今も泣き続けるシーンの頭の上に、イラハはそっと空いている方の手を伸ばして撫でた。
ピクンっと、一度だけシーンが反応を見せる。
それが合図だったのか、いっそう流れ出た涙が、握られたままのイラハの手を伝った。
何度も何度も頭を撫でた。
その度にシーンは瞳から涙を溢し、嗚咽に声を詰まらせながらも笑顔を向ける。
次第に堰を切った声が大きく部屋に響く。
それでも撫でる手の動きは止めない。
涙を枯らすまで、いつまでも、いつまでも、イラハはシーンの側にいた。