第15話 感情迷彩
真っ直ぐ老魔術師に向かって走るイラハと魔獣アル。無論、相手も黙ってやられる訳がない。迎撃せんと老魔術師が簡易詠唱を始め……
「ディム・エル・グライ、《連なる魔法矢》!」
詠唱の終わりと左手の動きを合わして、五指を突き出す老魔術師の指先五本から、魔法で作った矢が飛び交う。
まるで本物の矢のように飛来する魔法の矢に最初に向き合ったのは、先行するアルだ。
「しゃらくせぇっ!!」
口を大きく開けての咆哮波が二本の矢を爆散させた。
埃舞う中を切り抜け残り三本の矢が、アルの後ろを慌てず歩くイラハを狙う。
今度はアルの時のように手前で爆散とはいかず、イラハの直前で弾けた。
「――っ」
ただし、命中したわけではない。
双剣で払って、なんと、魔法の矢を斬ったのだ。
爆煙の中をイラハはまったく意に介さず、歩を緩めることも急ぐこともせずに突き進む。
その眼が帯びている殺気は変わらずに、老魔術師を捉えたままで――
「ひっ……」
アルのように我先にと自分に向かってくる方が、老魔術師にとっては、現状で最も憂慮しないといけない危機なのは言うまでもない。
だが、老魔術師の第六感がそれは間違いだと、そうではないと訴えていた。
距離がかなり開いているのに、老魔術師はイラハから目が離せない。
自分が年端もいかない少年に気圧されていることを老魔術師は知ってしまう……。一幕にも満たない、今のやり取りだけで自分が殺されてしまうことを……。
「いっ……、イル・ラ・アドゥン、《他を隔てる力場》!」
今にもアルの鈎爪が老魔術師に届こうとした瞬間、見えない壁がアルの攻撃を防ぎ、窓硝子を爪で引っ掻いたような耳障りな音が響く。
「ちっ、魔法障壁かよ! うぜぇっ!!」
石床から老魔術師の両足が離れる。背中に折り畳んでいた蝙蝠の黒翼を広げ、バルコニーの端から空に飛び出た。
このままでは、イラハもアルも空から狙い撃ちにされる……いや、そうはならなかった。
翼の付け根が見えるぐらい堂々と老魔術師が背中を見せたのだ。
「この手で殺してあげようと思ったけど、馬鹿正直に正面から戦う必要なんて僕にはないからね! この場は退かせてもらうとするよ。代わりと言ってはなんだけど、妖魔をここにたくさん呼んであげるからね! 相手してあげてよ! あはははっ!」
「だがよ……」
アルが笑む。
「壁を作れるのは、なにもお前だけじゃねぇんだぜ?」
「――っ! 風……の壁!?」
逃げる進行方向、さらには空にあるはずのない天井を老魔術師の周りに暴風の如き風の壁が生まれた。
イラハは一目でアルの仕業だとわかったが、当の老魔術師は違う。
計算外だったのか動揺を見せていた。
目に入るイラハの存在が、老魔術師の動揺をさらに大きなものへと変えさせた。
「けっ、特別に譲ってやるから、ヘマするんじゃねぇぞ」
「ああ……サンキュ」
「さんきゅ?」
不思議そうに眉を寄せるアルの疑問にイラハは応えてあげず、横を通り過ぎていく。そしてバルコニーの端まで行くと柵を乗り越え、石床を強く蹴った。
今、恐慌状態の老魔術師の両の瞳に映っているのは、バルコニーから飛び出た、身体を空中で踊らせるイラハの姿。腰を捻って、左右同方向からの双剣による攻撃に既に入ろうとしており、
「逃がすものかよ」
両手に握る二本の剣閃が空中で交差した。
「ぎぃっ!!」
四つに刻まれた杖と共に、空中で血と悲鳴を引いて老魔術師が落下していく。同じように落ちていくイラハの方は、すんでのところで建物の端に剣を突き刺すことで、難を逃れることができたが、
「落ちる! 落ちる! 落ちるぅぅぅぅ――っ!!」
地面に叩きつけられる恐怖と、肉体に刻まれた浅くない斬り傷。それらが自身の背中の翼のことなど忘れさせてしまうほどに、老魔術師は混乱に陥ってしまったらしい。重力に逆らうことなく、落下、落下、落下していく。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だぁぁぁ――っ!! 死にたくない、死にたくない、死にたぐべぇっ…………」
蛙が潰れたような声を最後に、老魔術師の気配は途絶えた。
自分と違う末路を辿った老魔術師の最期を、半眼になって見送ったイラハの心情は複雑だった。
心には何の感慨も沸かない。
ただ、手にはまだ人を斬った時の、肉を斬り裂いた感触が残っている。
人を斬ったのも、殺したのも初めて。
だから、最初はもっと抵抗感があると思っていたのに……、イラハは自分でも恐ろしいほどに冷静に刃を振るった。怒りに感情を任せたとはいえ、今となっては、そのことが不思議でならない。
「もしかしたら、ここがゲームの世界と関係してるとわかっていたからかもな」
後悔をしているわけじゃない。
奴は妖魔を使い、多くの騎士や兵を死なせている。その上、一国の公女の人生を踏みにじった。
おそらく、この国は内側から大いに荒れるだろう。今回の件で公女の人徳が暴落することは想像に難くない。
どこまで名声を傷つけられたかまではイラハに把握する術はないが、下手をすれば内紛だってありえるんじゃないのか?
そう考えれば、妖魔を引き連れてきた老姉弟は、裁かれて然るべき人間だったと思えた。
自己分析を終えたイラハが、この国の行く末を複雑に思いながらも、壁をよじ登ってバルコニーの上に戻る――と、
「ふん。やっぱり、おめぇは落ちてなかったかよ」
あんまりな言葉で、アルが出迎えた。
「悪いな、死んでやれなくて」
「……けっ。言ったろうが、おめぇは儂様が殺すんだってな……って、おい!?」
倒れ込むように膝を付いて、苦悶の表情をイラハが浮かべた。
決してイラハを心配してのことではないだろうが、何事かと思ったアルが、その理由にすぐに感付く。
「マナ欠かよ! おい、おめぇ、戦う前にあと二回は平気だって言ってたよな!? まだ一回残ってるはずだろうが!」
「……だから、二回……だったろ……」
絞り出すようにイラハが口にしたのが最後。
自身の身体を支えることも最早辛く、血臭が鼻を突く中で、イラハの意識は刈り取られていく。赤く染まったままの床上に前のめりに倒れた。
「……ちっ、そういうことかよ……。双剣だから一回じゃなく、二回分だったってか。紛らわしいんだよ」
獲物を警戒する獅子の如く、アルが気を失い倒れているイラハの側までそろりと歩み寄る。
今、アルの足元には伏臥位で失神したイラハの姿が。
「…………」
視線をイラハに固定して、じっと見るものの、気絶しているイラハが動くはずもなく……アルの持ち上げた右腕の鈎爪が鋭さを増す。
「言ったはずだぜ。おめぇは儂様が殺すんだってな。……だから、こんなところで寝てる、おまえが悪いんだぜ……」
イラハに向かって、アルの右腕が……伸びた。