第12話 人と獣の心違
舌を伸ばして負傷した左肩を舐めながら白い獣が、牙がはっきり見えるぐらい口を大きく開けて話し出した。
「――ちっ。使えるような話だったら、良いように利用してやろうと思ったが、てんで使えねぇ」
自分もアルもシーン姫も助かる方法……イラハが説明を終えてアルに言われた第一声がこれだ。
悪くない作戦のつもりだったが、いったい何が気に食わないのか……?
いや、アルが文句を言いたくなる気持ちは、本当はイラハにだってわかっていた。自分がアルの立場ならイラハだってそうする。
そして、自分から話しておいて、イラハ自身がとても億劫な気持ちになってしまった。こんな気分で事に臨まなければいけない作戦しか思いつかないなんて……。
だが、アルは知らない。
イラハがアルに説明した作戦には続きがあることを。
残念ながら、途中で説明を終わらせられてしまったが……、むしろイラハにとっては説明を免除されて良かったのかもしれない。
イラハの考え付いた作戦は口にするのも憚かれるほどに強烈だ――。
「何をしようとしてるのかは知らねぇが、あの女を殺れるって言うなら手伝ってやっても良いが……そうでないなら儂様はやりたいようにやるだけよ」
「はぁっ!? 何言ってるんだよ、お前は!? このままじゃ、お前も殺されるかもしれないんだぞ!!」
「儂様が人間の小娘なんかに負けるかよ!! だいいち人間を助けるなんて死んでもヤダね!」
「こいつ……」
アルがイラハの提案を拒んだ理由は、ひどく自己的で幼稚な、そしてイラハを呆れさせるものだった。
作戦内容に問題があってのことなら話し合えば修正も考えられる。
しかし、気持ちが原因とあっては、それは人でも魔獣でも心がある限り等しく難しい。
同じ人間同士であっても、国や人種、価値観や主義主張の違いで争いが起きもする。まして魔獣とは種族が違う。人とは大きく異なる存在だ。
アルはこうはっきりと言ったのだ。
自分の命の懸かった状況で、協力し合えば、今、生き残っている皆だけでも助かるかもしれないというのに……人間を助けたくないと。
自己中心的で我儘……そこに思い遣りなんてものはまるでない。
自分たちと同じ言葉を話すので誤解していたが、シーンを殺すことに執着している、そのアルの姿を見ていてイラハは本当の『獣』なんだなと思った。
そこに『心』は感じられなかった。
「……そっちがその気なら勝手にしろ」
冷たく言い放つイラハ。
気付くと、戦闘を一時中断するためにアルが張っていた風の壁が、イラハが心の中で葛藤が起きていた間に薄まっていたようだ。鬼の片腕が吹き荒れる風の嵐から抜き出てきた。
この結界が破られるのも時間の問題だろうことは容易に想像できる。
「ここもそろそろ終いだ。……勝手にやらせてもらうぜぇ」
鋭い牙を覗かせてニタァっと邪悪に笑むと、風の壁から突き出ている鬼の腕に向かってアルが走り出す。
同時に周囲を渦巻いていた風の結界がいきなり解かれた。
鬼化したシーンもアルの姿を視界に捉えると、肉食獣が獲物を狙うかの勢いで駆け出し始めた。
獣と獣の激しい戦いが再び始まる。
しかし……
「多分、そんなに長く続かない……急がないとな」
左肩に重症を負った魔獣。
ゴブリンやオークの集団との戦闘後とはいえ疲れ知らずの鬼の体力は驚異的であり、さらに掠り傷程度しか傷が見受けられないシーン。
どちらに分があるかは明白だ。
そう長くないうちに戦況は動くに違いない。
だからこそ両者が戦い、イラハから注意が逸れているうちに、イラハはさっきアルに話した作戦を一人でも実行に移せる機会を逃さないよう注意深く窺う。
アルが倒れたら、制約でシーンと戦えないイラハに勝機はない。
自分のしたいように戦っているアルにその気はないだろうが、鬼を引き付けているのは確かだ。
だったら――
「あいつが俺に言っていたように、今度はこっちがあいつを利用してやれば良い」
――その時は思っていたよりも早く訪れた。
***
傷を深め、動きが鈍くなったアルの目の前に、止めの一撃を加えようと、胸を張って弓反りになった背中にまで届きそうな鉈を振りかぶって立つ鬼。その姿は嗜虐的で冷酷的で残忍で……それら全てを兼ねた表情を浮かべている。
「この時を待ってたぜ!」
イラハの宣言を聞き、すぐに驚愕のものへと変えた。
表情を変えたのはシーンだけではない。アルもだ。
勝利を確信し大きな隙を作ったシーンのこれは油断……大失態。ほんの刹那の瞬間を見逃さなかったイラハがシーンの背後に周り込んだのだ。
自身の背中にまで振り上げた鉈を持つシーンの右手首をイラハは握り、下方へ下げようとすることで肩の関節を固定させた。
もちろん、痛みがないように気を付けてだ。そうでないと、たちまち制約が発動しかねない。だから、関節を極めるような真似はしない。
さらに手首を捻ることで握っていた鉈を足元に落とさせることにも成功。
左手は下腹部に手を回し、密着状態を背後からキープすることで、イラハはシーンの動きを完全に封じた。
「やっぱり思った通りだ。姫への危害は考えただけでも制約がすぐに反応しやがるけど、姫を思っての……守ろうと思っての接触なら制約はそこまで敏感じゃない……って、痛っ!」
とはいえ、このままではダメだ。
「てめぇ、何やってやがる!? そんなことしても、またギアスがおまえの身体を痛め付けるだけだって、まだ、わからねぇのかよ!?」
アルの言う通り。
きっとイラハのこの行動はすぐに捕捉行為として見られ、制約が真面目に仕事を果たそうとするはず。その証拠に今だって肌にビリビリとした軽い痺れに似た痛みが出始めてきたところだった。まるで嵐の前の静けさのような、そんな不気味さがある。
「ああ、わかってる……。ここまでは説明したよな? 予定通りだ。後は……」
だからイラハは、アルが説明を拒んだ後の行動を実践に移す必要がある。
シーンの両腕を背中から包み込んで優しく抱き締めた。
「なっ!?」
ここからは理由を知らないアルは、真ん前でイラハの場違いな行動を見て、目を白黒させて驚いている。
そりゃあ、そうだろうと心の中でイラハは笑む。
傍から見れば、イラハがシーンの後ろからハグしているだけの、なんともリア充な場面なのだから。
何か言いたそうに口をパクパクしてるが、言葉が出てこない様子だ。
だが、これはまだほんの序章に過ぎない。
なぜなら、イラハの作戦はここからが本番なのだから。
「……すんげぇ、気が重い」
ゲームをプレイしている時、ずっと恋い焦がれていた女の子が、今、自分の腕の中に収まっている。
二次元の彼女なんかじゃない。三次元の彼女がだ。
その証拠に柔らかい肌の感触と温もりがイラハの脳を蕩けさせる。恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。
けれど、そうも言っていられない事情がイラハにだってある。それがイラハの心を重くしていた。
「俺も初めてなんだ……。悪く思わないでくれよ……」
顎を掴んでシーンの顔を自分の方へ向けさせた。
本来の色とは違う赤くなった瞳からは、相変わらず正気とは思えない殺気を放ってくるが、今すぐどうこうしようという気はないらしい。イラハの腕の中で大人しくしている。
イラハは……そっと両目を閉じた。
「――はっ!?」
アルの驚きの声が、さっきよりさらに一つ大きくなった。
アルからしたら訳のわからないことの連発だろう。
……と言うか、いちいち反応しないでくれ、とイラハは心底思った。余計に恥ずかしくなるというもの。
「…………ん……」
互いの唇が重なった。
くぐもった声がシーンから漏れたが、それで唇を離すことはしない。
「なっ、なっ、何してやがるっ!? 戦闘中だぞっ!!」
まったくもって、その通りなので耳が痛い。
顔も熱くなってきた。
俺にだって理由があることをわかって欲しいけど……欲しいけど、無理だろうなぁ……。
イラハは脳内で自己弁護を試みるも、すぐに限界を感じ、諦め嘆く。
じっとされるがままだったシーンが動こうとする。しかし、イラハは追い掛けた。逃げないように深く舌を交わらせて、唇をさらに押し付ける。
「んっ……んん…………」
さすがにこれには鬼となっても抵抗心、あるいは羞恥心があるのか、身体全体で拒もうと動き始めた。
罪悪感を覚えつつも、この状況に興奮している自分がいるのがわかってしまい、イラハはなんとも言えない気分を味わってしまっていた。
しかし、ここで逃げられたら、恥ずかしい思いをしてまでやってきたことが徒労に終わってしまうので、やはり止められない。
イラハはシーンに振り解かれないようにしっかりと掴む……が――
あっ……
手が滑って……
「あ……」
「――――」
なんと、シーンの着ているドレス側面の隙間に片手が入り込んでしまった!
直に弾力のある柔らかい感触が掌に伝わってくる。
こ、これって……さすがにまずい、よな?
そう思いながらも、シーンが動く度にイラハの手も一緒に動いてしまう結果に。むにゅっと柔らかい膨らみが、生地の上からでもイラハの掌で形を変えているのがわかった。
「ああ……」
シーンから甘い吐息が漏れる度に、イラハの平常心を剥ぎ取っていく。
「おめぇは本当に何やってやがるっ!?」
三度目となるアルのツッコミにとうとうイラハの心は……折れた。
羞恥のあまり堪らずイラハは、繋がっていた唇を離す。
「いや、誤解だ! これには本当に理由があるんだ! 正気を失っている相手の心を取り戻すには、心に響くような衝撃的なことを起こしてあげるのが良いって何かで見て……! だから俺は――」
理性を失った女の子を正気に戻そうと、漫画だったかアニメだったかの主人公がいた。一瞬でも心に動揺を与えることができれば、最初は一瞬でも、葛藤が生まれた心は、徐々に思考を取り戻していく。そうやって主人公は自分がよく知る女の子を取り戻したという話。
その主人公が最初に取った行動が……キス、だったのだ。
創作物の話ということは重々承知している。
それでもイラハは少しぐらいはあり得るかもと思ってしまった。この世界ならもしかしたらと。
なにせ、この異世界はイラハにとっては幾分のゲーム要素が含まれており、無関係と言い切る材料がないのも事実だったからだ。
そうやってイラハが、限界を超えた恥ずかしさに乱れてしまった心を立て直していく中で――
「そこまでやっといて、何が誤解だ、てめぇはよぉっ!!」
「うぐ……」
無遠慮でありながら、ひどく真っ当、正論過ぎるアルの言葉が鋭利な刃物となって、落ち着きを取り戻しつつあったイラハの心を抉った。言い訳もさせてもらえやしない。ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
そこでようやくイラハは、すぐ目の前からの視線に気付いた。
涙目で顔を林檎みたいに真っ赤にし震えているシーンに。
恨めかしく睨んでいるが、その瞳は本来の碧色の瞳だったのだ。
「目が赤くなくなって、色が戻ってる……。鬼化が解けたのか?」
「いいや、一時的に治まっているに過ぎねぇな。言ったろ……倒さねぇと鬼化は解けねぇってよぉ」
イラハの呟いた言葉に答えたのはアルだ。
シーンの震えが大きくなる。それが決して寒気や恐怖といったものが原因ではないことは一目でわかった。これが噴火前の火山と同じようなものだろうことも……。
「い……い…………」
「え……え~と……、なんだか、いろいろゴメン!」
「いやああああぁぁぁぁ…………!!」
腹の底から絞り出したシーンの叫びが部屋中に響くのと、イラハがシーンを気絶させたのはほぼ同時だった。イラハは現状から逃げるように……実際そうだったのだが居心地が悪くなり、この場を収めるための手段として、首に手刀を一発入れることでシーンの意識を絶った。
今はイラハの腕に抱かれたまま、ぐったりと身体をイラハに預けて気を失っている。
右腕の読めない文字は気付いたら発光を止め、幸いにも制約の効果は発動しなかった。
仕方なかったとはいえ、なんだか、どんどん罪状が増えていっている気がする……。
シーンが目を覚ました時のことを想像してしまい、イラハの背中に言い様のない震えが一走りした。
「……こんな最低な戦い、見たことがねぇ」
この後、呆気に牙を抜かれた自分の表情をアルが引き締め直すことはなかった。