第10話 理解の外
「カッカッカッカッ。愉快すぎる!」
白い毛に覆われた獣が猫のような座り方のまま、青い瞳を爛々と輝かせていた。
アルの目には、まだ十代半ばの少年がこの国――ヴェルカリナの姫と激しく斬り結んでいる姿が映っている。
「あの歳で剣の腕前は大したもんだが、頭はてんで弱ぇ。やっぱ子供だぜ! 鬼化して見境がないとはいえ、相手はこの国の姫様なんだぜぇ。勝ってもただじゃ済まねぇ。そのことわかってんのか、あいつ? まぁ、こいつらが戦うようにもっていったのは儂様だがよぉ! がっはっはっはっ!!」
今回、少年が獲物に選択した刀剣は、少年がアルの前で初めて見せたもの――つまり、刀だ。
「相変わらず、けったいな武器を使いやがる。……本当なら儂様があの子供と最後までやりたかったんだがよ……。特別に譲ってやるぜ、小娘。クックック……。そんで生き残った方を儂様が相手してやんよ」
200年振りに牢から出られた記念に、少年を自らの手で殺してやろうとアルは最初考えていた。
しかし、それを止めたのはヴェルカリナの七姫が一姫、自分を幽閉したエルブライト公国の姫の驚異的な力を思ってのことだ。
正確には、白獣を捕まえたのは現エルブライト公女ではない。
人間の寿命は200年も続かないからだ。
だから、先代、先々代辺りが自分を拘束したということはアルも理解している。
ただ、理解はしていても、感情は別だった。
地下牢に長年幽閉されて育った怒りや憎しみといった悪感情は無視できる範疇を超えている。
晴らせぬ恨みを晴らそうと思えば、どうすれば良い?
「儂様を捕まえやがった忌々しい、あの女とは違うが……恨むんなら、てめぇの先祖を恨むんだな。まだあの女ほどの力はねぇだろうが……念の為だ。その子供に見事に勝ってみせろよ」
アルにとっては、姫も少年もどちらも狩りたい対象に他ならない。
――が、やはり姫への恨みは格別だった。
積もり積もった200年分の憎悪と、今日会ってばかりの怒りすら覚えていない相手とのついていない勝敗の決着――比べるべくもない。
少年の力を認めたからこそ、アルは少年を姫への当て馬に使うことを決めた。
途中で少年との戦闘を止めたのはその為だ。
「どっちが生き残ったにせよ、ちゃ~んと儂様が殺してやるからよぉ。精々殺し合えや」
***
本日三度目の戦闘は、獣でも妖魔でもなければ、モンスターと類されるものでもない。
人間との初めての戦闘。
そうだ――。
鬼化してるとはいえ、彼女は人間なんだ。
それなのに俺は何をやっているんだろうか。
――イラハは迷っていた。
「――――」
本来の彼女には無かったはずの獸爪のように鋭く尖った爪を持つ五指が、イラハの左腕を掠めた。触れた部分の服が破け、うっすらと血が滲む。
「あんにゃろ! シーン姫を元に戻したかったらぶっ飛ばせ、とか言ってたけど、そもそも、どうぶっ飛ばすんだよ! 手加減のできる相手じゃないぞ!」
あの手は危険極まりない。というか凶悪だというのがイラハの見解。
血の海で横たえているゴブリンやオークの死因を簡潔に見た目だけで判断したところ、ほとんどが引き千切られたような、あるいは抉られた傷が多い。
動かなくなった騎士の姿も数こそ少ないもののいることはいるので、剣による裂傷もゴブリンたちからは見受けられたが、それでも前者による傷が大半だ。
よりにもよって、その傷をつけたのが、今もイラハに対して腕を振り続けている姫で間違いなさそうだというのだから、一回でもあの腕に掴まれたら終わりというプレッシャーがイラハの心中を掻き乱す。
倒すにしても、その表現も曖昧だ。
行動できないように追い込めば良いのか? 捕まえる?
気絶させれば良いのか?
殺す……のは、さすがに無いか。
その辺りの方法もよくわかっていない。
だからイラハは時代劇で見たことのある「峰打ちだ」を言いたいから決して選んだわけではなかったが、【刀剣創造】で刀を作ってシーンに応対していた。
狙うは峰打ちによる気絶。
峰打ちと言っても、まともに入れば、骨折もあり得る……と、何かの漫画で見たことがある。
そう思うと、女の子を傷つけてしまうことに、イラハも正直抵抗がないわけではなかったが。
それでもイラハが刀を振るえるのは、気を緩めたらこっちが殺されてしまうこともあるが、彼女――シーンが望んで鬼となったとは到底思えないからだった。
ゲームと実際の彼女の性格が同じかどうかはわからない。
実際に会って話したことと言えば、ベッドの上で罵倒されたことと、地下牢で死刑宣告を聞かされただけ。
その死刑宣告に至っては、アル曰く、既に鬼化していたとのこと。
なので、実際に彼女自身の声を聞けたのは、イラハがこの世界で目覚めてばかりだったベッドの上のみだ。
これだけでは、実際の姫がどういう子なのかなんて計れやしない。
だからイラハが判断基準にできるのは、八年間も見てきたゲームの中の美人で優しくて気品に溢れていて、けど意外とお茶目なところがある彼女しか知らないわけで。
「ちょっと痛い思いするかもだけど我慢してくれよ! 俺が絶対に助けてやるから!!」
今の状況はシーンの本意とは決して違う――その思いがイラハを吠えさせた。
こちらの決意に呼応するかのように鬼となったシーンが、ゴブリンの側に落ちていた刃が長方形の鉈を拾うと、即座に前屈みになって走り出す。
その姿を見て、イラハも同じように駆けた。
お互いが手にする刃を、瞳に映る目の前の相手に向かって、勢い良く振るう。
武器同士が激しくぶつかり合う音が鳴ると火花がイラハの視界を掠めた。
「くっ……、力つえぇ……」
鍔迫り合いになるものの、目を疑うほどに押してくる力が凄まじい。男のイラハが女の子相手に力で押し込まれるほどだ。
「腕力で女の子に男が負けるのって、男としてどうよって思ってしまうけど……、これが鬼化の力ってやつか?」
普通の女の子相手ならプライドが~、とか言ったと思うが、今はプライドがどうこう言ってる場合じゃない。そんなもの命と比べるなら、すぐに捨ててやるという考えにイラハは至った。
それぐらい切羽詰まっていたので、逃れようと急に重心を後ろに退いた。
途端、バランスを崩して前傾姿勢になってしまったシーン。
このチャンスを見逃す理由はない。
「――――」
シーンの隙を突こうと刀を振るう直前、次に不意を突かれたのはイラハだった。
倒れかけた身体を姫は無理に起こそうとせず、なんと咄嗟の判断で床を蹴って、イラハの方へ頭ごと飛び込んできたのだ。
距離は一気に詰められ、刀の間合いを潰された形だ。
「俺のターンみじか!」
勢いの乗った体当たりを姫から受け、イラハは壁際まで二人揃って飛ばされてしまう。背中を床に打ち付けられてしまい、そのイラハの上にシーンが覆い被さった。
「ぐ……ぎぎぎ」
上半身を起こし始めるシーン。
このままではヤバいとイラハは直感する。
マウントポジションを取られた。
ゴブリンやオークの身体を無惨な姿に変えた、あの鬼の腕力がイラハに向けられるのも時間の問題。
「くそ、やりにくい! これ絶対に、あの獸よりも強いだろ!」
「――なにぃ!?」
話題に上がったアルが反射的に不満げな声を上げたのがイラハの鼓膜に響いた。
こっちはそれどころじゃないし、ちょっとぐらい手伝っても罰は当たらないだろ。と、脳内で抗議するものの――
「おい! そりゃあ、いったいどういう意味だ!?」
こちらの状況を見ていながらも平然と食って掛かるアルの非常識な怒声が尚もイラハに向けられる。
怒鳴る暇があるなら、ちょっとは助けてくれと思うが、今はそんなことに集中を乱している場合じゃない。
ちゃんとわかっているのだが、アルの声はよく通る。
案の定、鉈を手離したシーンの右腕が振り上がり――、イラハは刀の平でそれを受けた……が、
「――――」
所詮は覚えたてのスキルで創造した刀。
集中力も欠けていたかもしれない。
鏡が割れたみたいに音を出して刀があっさりと砕かれてしまった。役目を終えた刀は、淡い光になって無へと帰っていく。
しかし――
「良し!」
危うくもらうはずだった一発を凌ぐことが出来たのは大きい。
なにせ一撃でももらえば、即死コースに違いなかったのだ。
だが、もしかしたら、あと一発ぐらいなら保っていたかもしれない。
そこはあれだ。相手に弱みを見せてはいけないというイラハの意地とでも言うべきか。
「けっ。何が良しだ。まだ続くぞ」
口を出したのはアルだ。
イラハの見得をアルの突っ込みが容赦なく砕いた。
だが、アルの言う通り。これで鬼の攻撃が終わるわけがなく、今度は鬼の左腕がイラハを殴ろうと迫る。
端から見ている者でも、今のイラハの状況が絶体絶命のピンチだと気付くのだ。
攻撃される側の当の本人であるイラハが気付かないはずがない。
なのにイラハは、自分の顔に浮かぶ笑みを堪えることができないでいた。
意識のある者ならば、状況に似合わないイラハの不遜な表情に疑問をきっと持っただろう。
疑問を持てば思考が働く。
しかし、感情を失い、破壊衝動に囚われている今のシーンには、相手の感情の機微がわからない。疑問にも思わない。
アルもイラハの意図に気付いていなかったのだ。
殺戮マシーンと化したシーンが気付くはずがない。
だから、イラハは笑むことが止められないのだ。
イラハの思惑通りにことが進んでいたのだから――。
「峰打ちとは違う形になるけど、悪く思わないでくれよ」
刀を失って間もない右手の握りはそのままに、柄が消えて手の中に出来た空洞を姫に向けた。
さっき散った刀の時とは真逆の現象が起き始める。まるで先程の映像を巻き戻ししてるかのように、イラハの右手の中に光の粒子が集まりだす。
「【刀剣創造】――!!」
姫にとって完全に不意を突かれた一撃だったはずだ。
攻撃態勢に入ってからのイラハからの反撃。回避は――間に合うはずがない。
光はイラハの手の中から形を成して、シーンに向かって伸びていく。イラハが作ったのはシーンがさっきまで振り回していた鉈を模したものだ。
刀や剣だと切っ先が鋭く、姫に致命傷を与え兼ねないが、姫の使っていた鉈は刃が長方形になっており刺すことには向かない。ただし、打撃としてなら十分に期待に応えてくれるだろう。
強打による峰打ち代わりの一撃がシーンの胴体を捉えて――
「――――」
回避不能の状態の相手に、イラハはあろうことか外してしまった。
避けられたのではない。
イラハの右腕がまるで姫への攻撃を拒んだかのように、咄嗟に手首を返して目標を代えたのだ。
イラハの意思とは別の意志が右腕に宿っていたみたいな動きを見せた。こんなこと十五年生きてきて初めてで意味がわからない。
無理解がイラハの思考を本来なら真っ先に襲っただろうが、しかし、イラハの身に訪れたのは――例の痣のある、右前腕部を襲う苦痛だった。
「う……ああ…………なんで……?」
右腕が意思に反した動きを見せたのと同時に、イラハの身体全身に強い電流を流したような激痛が走る。
服の裾の隙間から蛍光色に似た緑色の光が漏れていた。
どうなってる?
「ぐああ……あ……」
痛みで思考がままならない。
全身を襲う苦痛も、勝手に動いた右腕のことも、裾の内から発している緑光のことも、どれも訳がわからない。
動きの止まったイラハに容赦なく、シーンの左拳が迫る。
「くっ!」
咄嗟に両腕を重ねて防御を試みる。
今度の右腕は言うことを聞いてくれた。
ガード越しでも力を抑えきれず、イラハの足が床から離れてしまう。イラハの黒瞳には、衝撃で両腕の服が破けて宙に漂う無惨な布切れが映り――、そしてイラハが目を見張ったのは素肌を晒した右腕……手首の上から肘のところまでが痣をなぞって緑色に発光していたのだ。
最初、模様か紋様のように思えたのはあながち間違いではなかった。
今ならわかる――――イラハの知識にない見たことのないものだが、これは文字だ。
驚きが収まらぬうちに、背中から思いっきり壁にぶつかってしまった。
「――――」
いや、壁と思ったのは間違い。
硬いものに背中をぶつけたのは違いないが、無機質な冷たい壁のそれではなく、命の伝わる硬さ――それは、
「儂様の目の前にいるんじゃねぇよ。邪魔だろうが」
アルだった。
言葉通りにイラハを邪魔そうに手で横に払い除ける。
態度は乱暴だが、堅い壁に背中から無防備にぶつかってしまうより遥かにマシだったので、イラハは正直に助かったことに感謝した。
「まさかとは思ったが……おまえの身体、なかなか面白いことになってるじゃねぇか。今時、制約とはよぉ」
「ギアス? なんだそれ? これのことか?」
今も光止まない右腕をアルに見せるように持ち上げて、イラハは聞いた。
行動、全身、そして新たに言葉……身に覚えのない要素が短時間に次々に現れる。
自分を中心に悪化する理解の外が続く状況に、イラハの思考は軽いパニックに陥ってしまっていた。