312回目の時限式選択肢
MMORPG(多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム)『ラグナマギオン』は、ケルト神話に出てくる『ラグナロク』と中世のファンタジーものの物語集『マビノギオン』を合わせたことから生まれた名前である。
略して『ラグマギ』――。
発想は安易だが、そのことを知れば世界観は掴みやすい。
要するによくある中世ファンタジーを舞台にしたオンライン・ネットゲームだ。
「そろそろか……」
ゲームの音声以外は静まりきった部屋にカチッ、カチッ、っとマウスのクリック音が鳴り続く。
プラットフォームはパソコンと家庭用ゲーム機本体とでサーバーを共有できる。
先月十五歳になった中学生、桐崎伊良波はパソコン派だ。
今も液晶ディスプレイにメッセージウィンドウが表示されていて、ウィンドウの中で文字が流れては消え、流れては消えを繰り返している。
しかし、不本意ながら、それがもうじき終わることをイラハは知っている。
スピーカーから音声が流れた。
『――あなたにはいつも助けて頂いて感謝に絶えません』
画面が切り替わり新たに映ったのは、金色セミロングの髪に碧瞳、足元にまで伸びた長いスカートに、胸元が大胆に開かれた青と白を基調としたドレスに身を包んだ、この国のお姫様だ。
設定では十七歳ということになっている。
白い肌がドレスの隙間から、あちこち垣間見える。丸みを帯びた女性らしい身体は、身に付けている高級そうな装飾品以上に目を奪われてしまう。
『私にお礼をさせて頂けませんか? 何か願い事があれば、私に出来ることであれば何なりと仰ってください』
イベントはクライマックスに向け盛り上がる。
「願い事……、願い事か……」
イラハがこのイベントを見た回数は十回では足りない。途中で思い違いをして数え間違えてなければ、イラハの記憶では今回で312回目を迎えるはずだ。
そのため、この後の展開をよく知っていたわけだが。
最早飽きていて当然のイベントなのに、イラハは今回も考えることを止めないでいた。
そんなイラハの耳に、部屋の扉が外側から開かれる音が届く。
「いっくん、やっぱり今日もやってるのね」
部屋に入ってきたのは、眼鏡がトレードマークの、紅の長い髪に、同じ色の瞳を妖艶に弟に向けてくる桐崎真銀――
つまり、イラハの二つ上の姉だ。
姉の真銀はイラハを「いらは」とは呼ばず「いらない」と呼ぶことがある。
幼い頃、イラハが我儘を言ったことがあって、その時に真銀が「それいらない」と言って嗜めたことが始まりだ。
以来、悪さをする度に真銀が「いらない君」と不本意な呼び方をするものだから、イラハは姉の前では大人しくするようになった。
ちなみにいつからそう呼ばれるようになったのか、普段は「いっくん」と呼ばれている。
真銀はイラハに近寄ると、後ろから両腕を回して自分の方に抱き寄せた。
姉弟のスキンシップにしては過度だと思うイラハだが、歳が離れているせいか、イラハにあまあまの姉は気にした様子もない。
いつものことなので、イラハもつっこむ気を失せていた。
「ましろ姉、いつも狙ったかのようなタイミングで、このイベントをやってる時に来るよな?」
「あら……、最初は私も狙ってたわけじゃなかったんだけどね。いっくんがいつも同じところで躓いちゃってるから、どういう選択をするのか気になっちゃって……。そのイベントに到達する時間まで覚えてしまったわ。弟思いのお姉ちゃんに感謝してよね?」
「せっかく来てくれてなんだけど……いや、やっぱいいや」
答える代わりに、指をクリック、クリック。
押す度にカチッ、カチッと音が鳴る。
すぐに画面中央に選択肢が縦に並ぶ。
選択肢を青色のメーターが囲んでおり、時間の経過と共にこのメーターが無くなっていく。メーターが0になれば時間終了。その時間およそ10秒。
時限式選択肢である。
選択肢は三つ。
『騎士に任命して欲しい』
『報酬が欲しい』
『姫に告白する』
この姫とのトゥルーエンドを目指す場合のベストな選択肢は三番目だ。
ここのフラグを回収しておかないとトゥルーエンドには至れない。
イラハはカーソルを三番目の選択肢の上に移動させた。
後はマウスを左クリックすれば、トゥルーエンドへの道は開かれる。
ここまでのフラグは全て回収済み。
問題はない。
青色メーターは既に半分を切り、色が赤へと変わっていく。
「さぁ、今日のいっくんはどれを選ぶのかしら?」
解りきっている質問だ。
これまで何百回この選択肢に直面したことか。
ここまでの姫の攻略に関しては、誰にも負けない自負さえイラハにはある。
通常のオンラインゲームならば、イベントはキャラ一人に対して一度しか訪れないものが多い。
もう一度見たい時は、一度見たことのあるイベントを好きな時に見れる回想モードを使うのが一般的であり、この『ラグマギ』もその例に漏れない。
ちなみにイラハの持ちキャラは一人だけ。
サービス開始時から八年間使い続けてきた廃スペックキャラだ。
つまり、今イベントを進行させている、このキャラのみである。
ならば、なぜ312回も同じイベントを見れるのかというと、それは――
「今日もなにも、何回も俺が選ぶところ見てきたんだから解るだろ、ましろ姉?」
「何回も見て一度も違う答えを選ばなかったわね……。全ての選択肢の結果を見てみたくて、やり直しっていうのなら、まだわからなくもないんだけど……」
それにしたって312回もやり直すのは限度があると、他人事のようにイラハは思った。
どの口が言うんだと姉に言われるのが目に浮かぶイラハは、口にはしなかったが。
「『姫に告白をする』……これも悪くはないけど、俺が選びたいのはこれじゃないんだよなぁ」
三番目の選択肢を否定しながらも、カーソルを上の一番目、二番目に合わせようとしないイラハに、真銀はじれったそうな眼差しを向けるが、イラハの指もマウスも動く気配がない。
そして――
赤色に変わったメーターが0になると同時に「ブッブー」と不正解音が鳴った。
時間切れだ。
ここからはいつものように、失敗時のいつものメッセージが流れる。
カチッ。
『……クスッ。随分お悩みのようですね?』
いや――
答えなら、一番最初に初めて君に問われた時にはもう決まっていたんだ。
カチッ。
『今は特に浮かばないと言うことであれば、また後日でも良いので仰ってくださいね』
いや――
今、言わないとまた一からやり直しになってしまう。
言いたいことは、もう決まっているんだ。
カチッ。
『それにしても慎重なんですね。お願いですから、私に叶えられるお願いにして下さいね? あっ! これでも私、姫ですからエッチなお願いはダメですよ?』
「――――」
黙り込むイラハに気を使ったらしく、苦笑しながら冗談風に話す姫様。案外、お茶目だ。
カチッ。
カチッ、カチッ。
カチッ、カチッ、カチッ。
「俺が選びたかったのは――」
こんなこと言ったら、ただのゲームなのにって誰でも言うに違いない――
自分をひたすらに甘やかしてくれる姉でさえ、知れば呆れてしまうだろう。
もしかしたら、あまりのオタク発言に気持ち悪がり、距離を空けてしまうかもしれない。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ――
けれども、イラハはこう思わずにはいられなかった――。
「『姫を守りたい』が何で無いんだよ……」
呟くように、悔しい想いを今日だけは我慢できずに、イラハは心の内を吐露してしまった。
ここまで来れば我ながら重症だとイラハも思う。
だけど、どうしても妥協したくなかったのだ。
本当に心から好きなゲームであり、愛すべきキャラであり、情熱を注げるほどのイベントシーンだったのだから。
何度も読んだことのある、変わらないメッセージが流れて来るのを機械的に確認すると、イラハはいつものようにやり直しすることに決めた。
これ以上、進めたらサーバーにここまでのデータが保存されてしまい、このイベントをやり直すことができなくなってしまう。
もしもそんなことになれば、キャラを作り直すことから始めないといけなくなる。
八年かけて育ててきた自分の分身とも言えるキャラを削除するなんてありえない。
キャラを複数作って、使い分けるというのもイラハの選択肢にはない。感情移入するキャラは、自分の分身と言えるキャラ一人で十分。
よって、イラハが取りうる行動は一つ。
強制終了しようとマウスカーソルを動かし――
けれど、耳に不意に届いた乾いた音によって、イラハは咄嗟に止めてしまう。
胸の前で両手の掌を合わした姫が、こちらを真っ直ぐに見ていたからだ。
これは――
まさかと思ったが、312回目にして初めて見る、見たことのない動きだった。
『今の……本当ですか?』
「――え?」
『私を守ってくれるっていう話』
碧い瞳が不安で揺らめいているのがわかった。その様子はまるで生気が籠った現実的な視線……そして息遣いをイラハは姫から感じていた。
そんなことはありえないと頭が否定しているのに、視覚情報が完全に拒むことを許してくれず、イラハは目を丸くして姫から視線を外せなくなる。
姫の視線に人間の生きた温もりのようなものがある気がした。
――そんなことあるはずがない。
思わず息を呑む。
後ろから抱きついたままの真銀も同様に何かを感じたのか、イラハを抱き締める腕に力が入る。
『私を守ってくれますか?』
確認するように再度言う姫様。
「ああ、もちろんだ」
今度はイラハはすぐに言葉を返した。そこに本物の人間がいるものと無意識に錯覚して。
イラハの返事に嬉しそうに表情を変える姫の様子――
その姿は紛れもなく、データが生み出したものではない。
これは生きた人間の感情の表出だ――。
明らかに今、信じられないようなことが起きている――。
それをイラハも真銀も直感していた。
なのに、不安そうにイラハの顔を覗く真銀とは対照的に、姉に申し訳ないと思いつつもイラハの心は高揚感に踊り、顔には笑顔すらあった。
なぜなら、今のこの状況が嬉しかったのだ。
苦労して何回も何回も繰り返し、初めて辿り着いたイベントを前にしてテンションが上がらないゲーマーなどいない。
右手の掌をこちらに向けて、姫はゆっくりと向こう側から画面に押し付けるようにしてみせる。
そして姫が優しい声音で言う。
『約束ですよ?』
高揚した気持ちが姫の言葉に誘われるように無意識の中で腕が動く。姫がしたのと同じようにイラハの手掌が画面に触れた。
今のイラハの頭の中には、イベントを進行させたい一心しかない。
ディスプレイ越しに二人の手と手が重なる。
「約束だ。姫が忘れても俺が絶対に忘れないよ」
「――っ!」
端整な顔に驚きの表情を見せたのは一瞬。姫はゆっくりと瞼を落として、自身の隆起した双丘の上にそっと手を置いた。
その姿はまるで、イラハの言葉をとても大事に、大事に、自分の胸に染み渡らせようとしてるようで――
「ありがとう」
次に姫が瞼を上げた時には、碧い瞳に先程までの不安や憂いは一切感じられない。あるのはもの柔らかな面持ちとどこか熱を帯びた温かな視線。
そう、イラハが感じてすぐのこと、ディスプレイから目映い光が漏れ出す。
光はすぐに大きく広がっていき、なんと部屋全体を包み込むほどの光量を見せた。
本来なら驚愕で目を見開くところ、いきなりの眩しさにそれが許されず、堪らず両目を閉じようとし――、
「――――」
閉じかけの瞳が、今度こそ驚愕の色に染まる。今しがたの光の目映さを忘れてしまうほどの衝撃がイラハを襲った。
ディスプレイの中から姫の細い両手が伸びてきて、イラハの頬を慈しむように掌が包み込む。姫の腰から上の半身が画面から飛び出てきたのだ。
不思議と掌から温もりが感じられる。
ディスプレイやパソコンのような機械から出る発熱による暖かさではない。
間違いなく生身の人間が持つ肌の温もりが感じられたのだ。
まるで金縛りにあったかのようにイラハは身動きできなかった。
近付いてくる姫の顔を――、
いや、途中から姫の唇から目を離すことができずに――
「――んっ……」
頬から伝わる温もりが、唇から感じた温もりに塗り潰されていった。
思いもよらない唇が唇と触れ合う初めての感触――。
本来なら脳が活発に状況整理に勤しんでいたに違いなかった。
だが本人の意に反してイラハの意識は、光の中で徐々にまどろみに刈り取られていく。
――やがて深い眠りに落ちてしまうのだった。