日常③土岐哉と理沙~
22時。
ほとんど人がいなくなったオフィスで、目の前の書類と格闘する土岐哉。その手には、某有名栄養ドリンクが握られていた。
「終わんね~。」
膨大な書類と格闘すること5時間。
勤務時間が終了してからずっと書類と格闘していた計算になる。
誰であれ、恨みのひとつでも言いたくなるだろう。
「拓斗~。終わったか~。」
俺は戦友と呼べる相手に声をかけた。
拓斗は、土岐哉と共にとんでもない量の書類を片付けていた。
「これは終わんね~な。」
どうやら、すでに戦友の心は折れてしまっているようだ。
「あれだ土岐哉。明日やろうはバカヤローって言うじゃん。あれはきっとドMの発想だ。」
さらに戦友は壊れかけているようだ。
「もーやめた!俺は帰る!ってかコレ誰の仕事だよって話だよ!俺らの仕事じゃねーっての。」
確かに……。俺は心の中でそうつぶやいた。
この書類は、珍しく残業も少なく、19時頃に帰宅しようとしていた土岐哉と、たまたまその場に居合わせただけの拓斗に降って湧いたような仕事だ。
「上司に責任取らさなきゃダメだって。あそこでいつも偉そうにふんぞり返ってるだけなんだから、たまにはカッコいいとこ見せてもらおうぜ。」
拓斗の言うことはどれひとつ間違いではない。
上司が無能だと部下が苦労するのだ。
これはどの世界でも共通することだろう。だが……
「それでも、最終的にしわ寄せが来るのは間違いないんだから、もうちょっとやってくよ。」
これもまた真理。
そう思いながら、俺は半分諦めたようにため息をついた。
「はぁ……お前って真面目だね~。まぁ、無理すんなよ?どーせ毎度のことなんだから。最後は何とかなんだろ。」
そんなことを言い放つ拓斗を俺は羨ましく思った。
器用に生きてくというのはこういうことを言うのだろう。
まぁ、何とかなっているのは、誰かがなんとかしているだけの話なのだが、それを言わずに、上手く躱すことが出来る人間は、本当に羨ましい。
「お疲れ。」
しかし、俺はそのすべての言葉を飲み込んでそれだけを返す。
言っても仕方ないのならば、言うだけの労力がもったいないと思っているのだ。
それから少しして、俺はスマホを手に取った。
妹への連絡だ。
「えっと……『悪い。まだ帰れそうにない。日付が変わる頃には帰るから、先に寝ておいてくれ』っと。」
独り言をつぶやきながらメッセージを打つなんて、俺も末期だなと思いながら作業に戻る。
その直後、スマホから新着メッセージを知らせる音が鳴った。
『お疲れ様。毎日遅くまでご苦労様です。今日はカレー作ってあるよー。彩夏さんとの合作です!たくさん作ったんだけど、彩夏さんが半分持って帰っちゃたんだよー。』
俺は幼馴染の顔を思い浮かべた。
元気すぎる幼馴染というのは今も昔も迷惑をかけられることが多いのだが、最近は、妹である理沙の相手をしてくれているので、感謝することも多くなっていた。
『なんか、「あのバカに食べさすカレーはねぇ!」みたいなこと言ってたんだけど、お兄ちゃんの分はちゃんと確保してあるから安心してね。』
どっかの漫才コンビのボケみたいだと思いながらも、俺はさらに考える。
本当に良くできた妹だ。
妹がいなかったら俺はガチで死んでいるだろう。
それにしても長文だ。まだ続いている。
『あと、彩夏さんが「私たちの誕生日が近いんだから、ちゃんとプレゼント用意しとけよバカ兄貴」だって。』
確かに妹の誕生日はもうすぐだが、幼馴染である彩夏の誕生日まで一緒にする必要はないだろう。
そんなことを考えていると、再びスマホが鳴った。
『じゃあ、無理せずに頑張ってね。』
妹じゃなかったら間違いなく惚れているな……。
「さて、あと少しだけ頑張りますか。」
そう言って土岐哉は書類の山に向かっていった。
同時刻。
土岐哉にメッセージを送った理沙の顔は真っ赤だった。
「もう!彩夏さんが変なことばっかり言うから!」
何をぷりぷり怒っているのか言われれば、それはカレーを作っているときに起こったことが原因だった。
買い物の後、自宅に到着した2人は、そのまま一緒にカレーを作ることになった。
彩夏としては、久しぶりに理沙の手作りカレーが食べたいということもあったのだが、帰り道にノロケられ、いささか心がささくれていたということもあっただろう。
要は、自分も理沙といちゃいちゃしたかったのだ。
「理沙ちゃーん。次はー?」
快活な性格で男勝りな部分がある彩夏だが、料理は割と得意なほうで女子力もそれほど低いわけではない。
カレー程度ならわけなく作れるのだが、やはり主役の指示には従わねばならないと思っているのだろう。
「あ、じゃあ次は玉ねぎを……」
理沙が作るカレーは本格的なものだった。
カレー粉こそ市販の物だが、数種類の香辛料と丁寧な下ごしらえは見事なものだ。
「理沙ちゃんはいつでもお嫁に行けるわね~。」
作業も終盤に差し掛かろうかという頃、からかい半分でそんなことを言うと、理沙はあたふたと慌てだした。
「えぇ!まだそんな早いですよ!そ、それに、お兄ちゃんがいるから……あの……ほっておけないし……」
顔を真っ赤にしながらカレーをかき混ぜる理沙を見て、なんだ、このオモロ生き物は……と、そう思わずにはいられない彩夏だった。
「あぁ……やっぱりあいつが足かせになってるのか~。理沙ちゃん彼氏とかいないの?」
そう尋ねると、理沙は困り顔で彩夏を見た。
「今はまだ、彼氏とかそういうのは必要ないかなって思います。お兄ちゃんが頑張ってくれて……そのおかげで学校に行けてるから……。1人で生きていけるようになって、お兄ちゃんにありがとうって言えるまでは……その……」
「そっか。じゃあ、とりあえず高校生の間はそういうのはないってことだ。」
自分でもどう伝えればよいか分からなくなってしまった理沙の言葉を引き継ぐように、彩夏が言葉を継いだ。
少しだけ、2人の間に沈黙が流れる。
「知ってた?カレーってね、好きな人とか、恋人のことを想いながら混ぜるとおいしくなるんだって~。そんなことってあるのかな~。」
これに関しては、そんなアホなと思う彩夏であったが、この空気を打開するための話題としては適当だろう。
そう思い顔を上げて理沙を見ると……。
「…………!」
真っ赤な顔でカレーに向かう理沙の顔がそこにあった。
『こいつ……信じてたな……。』
土岐哉に対して抱いた殺意はひとまず置いておいて、こちらをなんとかしなければならないだろう。
「り、理沙ちゃん?」
「は、ひゃい!」
『あ、噛んだ。』
噛みながら返事をするその姿は、なんとも微笑ましい……いや、もはや天使であった。
これでもなお、兄への想いを自覚していないというのだから、もはや手の施しようのない天然っぷりである。
いつもならここで終了なのだが、今日は少しだけ興がのったので、もう1歩だけ踏み込んでみる。
「で、ダ・レ・を想いながら混ぜてたの?」
「………!!」
もはや声になっていない。恥ずかしすぎて涙目になっていた。
「まさか……お兄ちゃんかな~?」
「ち!違う!じゃなくて……」
もうダメだ。可愛すぎる……。
「理沙ちゃん、お兄ちゃんのこと大好きだもんね~。家族だったら当然だよね~。あ、当然、私のことも好きでいてくれてるよね?」
無理やり話しの流れを変える彩夏。
「そ、そう!家族だから!!もちろん、彩夏さんも大好きですよ!」
ぐるぐるぐるぐる。
カレーがものすごい勢いで回っている。
その後はメッセージ通りである。
理沙の反応に少々不機嫌になった彩夏が、出来たてのカレーをおかわりした挙句、残りの半分を持って帰るという暴挙に出たのだ。
「あ、そうだ。お姉さんから余計なおせっかいを。」
カレーを食べて幾分機嫌をなおした彩夏が、帰り際に理沙にこう言った。
「あのバカへのメッセージの最後に、『大好きだよ。お兄ちゃん』って入れてごらん。あのバカ、絶対すぐに帰ってくるから」
それを聞いた理沙の顔が再び真っ赤になったことは言うまでもあるまい。
その頃、妹がなんだかもんもんとしているとは知らず仕事に打ち込んでいた土岐哉。
時刻はすでに24時になろうとしていた。
「さて、そろそろ帰るか……」
時計とにらめっこをして、終電がまだあることを確認する。しかし、駅まで歩くのは面倒だし、何よりも早く家に帰ってカレーを食べたかった。
「ちょっと贅沢してタクシーで帰りますか……」
そう言って、土岐哉は会社を後にした。
季節が進み、ようやく歓迎会のシーズンを終えた街は、この時間になると静けさを取り戻していた。
通りに出てタクシーをつかまえた土岐哉は、運転手に自宅付近の住所を告げた。
車内では懐かしいスローテンポな曲が流れており、疲れた体に沁み込んでいくようだった。
運転手に少しだけ眠るということを伝えると、土岐哉の意識はそこで途絶えてしまった。