日常①土岐哉と理沙~
「お兄ちゃん!早く起きて!」
時刻は午前5時30分。
勢いよく開けられた扉から女の子の声が俺の部屋に響き渡る。
「ん~……今日は会社やす……」
いまだに睡眠を欲している体からの信号に従って、そんなことを言おうとした瞬間。
「そんなバカなことばっかり言ってないで!早く起きて準備してよ!!」
俺の布団は見事に剥がされた。
どうやら、起こしに来てくれた女の子には優しさの欠片すらないようだ。
「おはよう……」
出かける準備を整えてリビングに顔を出すと、そこにはすでに朝食が並べられていた。
トーストとスクランブルエッグ、それにコーンスープだ。
「はい。おはようございます。ほら、さっさと食べて。」
すでに食卓に着いている女の子にうながされ、俺はトーストにかじりついた。
「今日も遅くなる?」
コーヒーを入れながら尋ねてくる女の子。
「あぁ……今日も夕飯は食べれそうにないな……。悪いけど、先に寝ててくれ。父さんから連絡があったら、仕事で忙しいとだけ言っておいてくれないか。」
「うん……分かった。お兄ちゃん……その……無理しないでね?」
目の前の女の子……もとい、妹が本気で心配してくれていることが分かる。
我が妹ながら、本当によくできた妹だ。
「さて、そろそろ行ってくる。」
時刻は6時30分。
この1時間が、妹と過ごせる唯一の時間だ。
俺の名前は流星土岐哉。
随分と変わった苗字だと思った人もいるだろうが、「流星」という苗字は本当に珍しいようで、俺と同じ苗字の人がいるということを今まで聞いたことがなかった。
変わった苗字というのは、全国どこにでもいる苗字の人たちと比べて、苦労がないように思われるのだが、この苗字に関しては、幼いころは周囲にイジられる対象となっていた。
そんな思い出も手伝ってか、自分の名前はあまり好きではない。
社会人になって、名前を呼ばれることが多くなると、恥ずかしさも加わってよりいっそう嫌いになっていった。
無いものねだりだということは分かっているのだが、もう少し平凡な名前であればなと思うことも少なくはない。
昔、学校の先生が名前の由来についての授業をしていた時に、不思議に思って父親に聞いたことがある。
「父さんも聞いた話なんだけどね、ご先祖様が違う世界から流星に乗ってこの星に来たのが名前の由来みたいだよ。」
その話を当時は目を輝かせて聞いていたものだが、大人になって考えると、そんな不思議な話があるわけがないと思ってしまう。
もし、父さんの言うことが事実ならば、異世界なんてものを認めてしまうことになる。
そんなファンタジーな話は、よくあるのアニメの世界だけにしてもらいたい。
「はぁ……ばかばかしい……」
通勤ラッシュから見える景色を眺めながら、俺は心の中でため息をついた。このため息は、俺の人生の中で数えきれないものとなっており、もはや日課みたいなものだ。
「そういえば、ここのところ忙しくてあいつにかまってやれてないな……」
俺には名前以外の懸案事項がいくつかある。
その1つが「妹」だ。
都内の有名お嬢様高校に通う17歳。
目鼻立ちの整った黒髪ロングの清楚系。
身内の贔屓目に見ても「超」がつくほどの美少女だ。テレビに出ている芸能人なんかと比較しても、なんら遜色ない……いや、妹の方が可愛いと言える自信がある。
しかし俺は、そんな妹の美しさを十全に伝えることのできない自分の表現力の貧しさを、最近本当に恨めしく思っていた。
年月を重ねるごとに美しさを増す妹。
さすがに恋愛感情を抱くことはないが、妹がどこぞのバカ男にでもたぶらかされているのではないかと思うと、存在しないはずのバカ男に、少なからず殺意を抱くこともある。
母親を早くに亡くし、父親と3人で生きてきた俺にとって、男所帯の紅一点として、また、母親の役割を率先してこなしてくれたとても頼りになる妹だ。
父親はというと、「トレジャーハンター」なる職業に就いており、宝物を求めて海外を飛び回っている。
なんとも夢と希望に溢れる職業だ。
そんな夢に溢れる仕事で食べていけるのかと聞かれると、この父親はなんだかすさまじいようで、世界各地の遺跡から「宝」を発掘し続けているのだという。
おかげで、俺たち兄妹はお互いしかいないという苦労以外、不自由を感じることなく生活ができている。
しかし、そんな生活がいつまでも続くはずはない。
幼い頃からそんなことを考えていた俺は、大学を出て超一流と呼ばれる企業に就職する道を選んだ。
父親のことは嫌いではないが、家族をほったらかしにして世界を飛び回っていることを、やはり心のどこかで許せないのだろう。ほぼ真逆の職業に就き、安定した生活をおくることを願ったのだ。
『今年でもう33か……』
ふと隣にいるおっさんの寂しくなった頭頂部が目についた。
『自分もこんな風に歳をとっていくのか……』
そう考えると寂しくもあった。
思い起こせば、なんとも面白みのない人生だった。
大学を卒業するまではひたすら勉強。
父親の優秀な遺伝子のおかげか、運動能力にも恵まれていたため、日本有数の国立大学にも入学することができた。
その後、大学を主席で卒業し、就職してからは出世のために社畜と化した。
毎日が多忙を極める対価として、妹に金銭的な心配をかけないくらいの生活ができている。
そのために、妹に寂しい思いをさせているという負い目もあったが、そこは将来のためと割り切って仕事に打ち込んだ。
私立のお嬢様学校に入学させたのは、教育が行き届いているという理由以外に、妹に変な虫がつかないようにするためでもある。
妹には絶対に幸せになってもらいたい。そんなことを考えていると、ふと、妹の言葉が頭をよぎった。
「お兄ちゃん彼女の1人くらいいないの?」
彼女を作らなくてはならないと思ったことはない。
父親があんな風だから、妹をほうってはおけなかったし、何より、妹以上の美人に出会うことがなかったのだ。
「唯一の趣味が読書と映画鑑賞なんて……書くことない履歴書の趣味欄じゃないんだから、せめて趣味くらい見つけなよ。」
本当に残念な生き物を見る目だった。
妹は容姿端麗なだけではない。
やはり父親の遺伝子のおかげか運動能力もかなり高い。しかも、お嬢様学校で躾けられた礼儀作法まで身についているのだ。
友人関係の話を詳しく聞いた覚えはないのだが、それなりに仲良くやっているようだ。
そういえば、生徒会長になったとかどうとか言っていた気もするが……。
とにかくハイスペックな妹なのだ。
そんなことを考えていると電車が駅に到着した。
「俺に彼女が出来ないのはお前のせいなんだよ……」
通勤ラッシュから解放された最初の一言がこれである。
「さぁ。今日も仕事頑張りますか……。」
最後にそう呟いて、なんだかんだとシスコンである土岐哉は仕事へと向かっていった。
その頃。
兄から大絶賛されている妹は、友人と学校へ向かっている途中であった。
「聞いてよ!今日もお兄ちゃんがさぁ!」
「あー、ハイハイ……またあんたのお兄ちゃん自慢が始まった。」
可愛らしく頬をぷくっと膨らませて怒りをあらわにする流星理沙。
言わずもがな土岐哉の妹である。
「自慢じゃないよ!ほんっとにあのお兄ちゃんは毎日毎日……」
「そーですねー。」
登校時、毎日毎日同じような内容を聞かされているのは、理沙の親友である國立京子だ。
「よくもまぁ、飽きずに毎日毎日……」
京子はため息をつきながら親友の頭をなでる。
「よしよ~し。理沙はお兄ちゃんが大好きだもんね~。」
「そっ!そんなことないよ!誰があんなバカお兄ちゃん……」
そういう理沙の顔は真っ赤だった。
仕方のないことだ。
そんなふうに京子は思う。
幼い頃に母親を亡くし、たった3人で今まで暮らしてきたのだ。まして、父親はろくに家にいないとなれば、人生のほとんどの時間を兄と過ごしてきたことになる。
「インプリンティングだっけ?」
理沙に聞こえないくらいの声で京子がつぶやく。
「ほぇ?何?」
「なんでもないよ。で、お兄ちゃんがどうしたって?」
エスカレーター式であるこの学校で、中学時代からの親友である京子は、目の前で表情豊かに話す親友の幸せを願わずにはいられなかった。
たとえそれが、狭い世界のなかだったとしても……。
「もう!聞いてるの京子!」
「あー。はいはい。」
そう言いながら、2人は学校へ向かった。