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第六話

 十分経過。

 快調に食べ進めていた匠の動きが、明らかに鈍ってきた。

 それでも丼の中はすでに半分ほど平らげられており、残りの時間を考えるなら完食する事は充分可能に思えた。

 しかし――

 異常なまでの喉の渇きに耐えかねて、匠がこの勝負で初めて水を口にしたその時。

 すみれの仕掛けた恐るべき罠が襲い掛かった。

「ぐはっ!? 一体、何が……」

 水を含んだその瞬間、口腔全体に激しい痺れが発生した。急な発熱を起こしたかの如く、全身から汗が噴出する。

「しまった! これは麻辣効果!?」

 匠は、自分がすみれの策略にまんまと引っ掛かった事に気が付いた。

 本来、辛味の強い料理を食べる時には冷水を飲んではいけない。水の冷たさによって逆に辛味が引き立ってしまい、余計に辛く感じてしまうからである。

 そんな事は一流のフードファイターである匠は当然承知していたのだが、食べ進める程に発する異常な喉の渇きに耐え切れず、ついグラスを手にしてしまった。

 もちろん、これはすみれの仕掛けた罠に他ならない。

 とろみのついた冷めないスープ。

 辛味の奥に隠された濃い目の味付け。

 大量に投入されたおろしニンニク。

 これらは全て、挑戦者に水を飲ませるための伏線になっていたのである。

 なぜ、そこまでして水を飲ませる必要があるのか? 秘密は辛味の質にあった。

 中華料理には二種類の辛さがある。

 一つは唐辛子の、舌が焼ける様なラーであり、もう一つは山椒の、舌が痺れる様に感じるマーである。

 この二つの要素が織り成す重層的な辛味が中華、特に四川料理の真髄なのだが、分けても山椒による辛味、麻はやっかいな代物である。舌が激しく痺れる独特の感覚は日本人には馴染みが薄い上に、花椒ホワジャオと呼ばれる本場四川の山椒は日本のものよりも遥かに刺激が強い。

 しかも、麻による口内の痺れは冷水を含む事により数倍に膨れ上がり、辣の直接的な辛味との相乗効果で味覚を破壊し、強烈な発汗効果で体力をも消耗させる。これが麻辣効果である。

 狡猾な事に、すみれは手羽先を煮込んで取ったスープを冷やして煮こごりにし、その中央に大量の花椒を忍ばせるという実にえげつない手法を取っていた。先程彼女が投入をためらった謎の物体が、まさにそれである。

 煮こごりとなったスープに包まれた花椒は香りと刺激を出さない為、挑戦者に気付かれない。そしてゆっくりと溶け出していく花椒の刺激は、徐々に食べる者の感覚を浸食するのだ。

 更に恐ろしい事に。

 彼女は麺の表層に掻き卵をあしらった上に具材にはパクチーや生バジルといった香菜を大量にトッピングして、表面的に麻の刺激と風味を抑えるという離れ業までも繰り出していた。

 ダイナミックな盛り付けと豆板醤の『辣』による直接的な辛味で挑戦者の注意を引き付けておいて、巧妙に仕込んだ花椒による『麻』との立体的なツープラトン攻撃、麻辣効果で仕留める。これこそがすみれの仕掛けた恐るべき罠の全貌であった。



 二十分経過。

 匠の箸が、ついに止まった。

 味覚を破壊され、急激な発汗で激しく体力を削られながらも彼は驚異的な粘りで食べ進め、実に全体量の八割を胃に収めて来た。

 しかし、すみれの仕掛けた麻辣効果の罠はさながら粗悪な危険ドラッグによるバッドトリップの様に全身を苛み、今や匠から味覚はおろか、五官全ての感覚をも奪い去ろうとしていた。

 焦点の合ってない虚ろな瞳で丼を見詰め、それでもなんとか食べようと箸を動かすが麺を摘む事すら出来ない。

 そんな匠を、すみれは能面の様な表情で静かに見詰めていた。

(勝った……)

 特に感慨も無い。

 亡父の形見であるこのラーメンでまた一人、仇敵であるフードファイターを打ち倒した。

 そう。それだけの事。

 相手がたっくんであった事も、良心の呵責に苛まれた事も、心のどこかでは彼に食べ切ってほしいと願っていた事も、すべては終わった話。

 そう。それはいつも通りの、あっけない勝利。

 努めてクールに振舞おうとしていたすみれであったが、突然聞こえた叫び声に、彼女は激しく驚愕した。

「なにやってんのよ!」

 それは誰の物での無い、自分の声だった。




 周りで撮影しているスタッフや無能レポーターが唖然とした顔で彼女を見ている。

「なにやってんのよ! たっくん! その程度の料理を食べられないで、完璧なフードファイターになんてなれるとでも思っているの!?」

(やだ、私何言ってるの?)

「あなたが本気でフードファイターなんかやってこうって言うんなら、こんな料理ちゃっちゃと片付けてしまいなさい!」

 まるで、自分の中にあるもう一つの人格が勝手に動き出したかの如く、すみれは叫んでいた。物凄い勢いで罵倒とも激励とも付かない言葉を投げかけている。

「食べなさい! たっくん!」

 すみれは自分の頬が濡れている事に気がついた。いつの間にか涙を流していた。


 誰かが叫ぶ声が聞こえる。

 聞いたことのある、耳に心地良く響くこの声は……

「食べなさい! たっくん!」

「すみれちゃん!?」

 匠の瞳に光が戻った。

「頑張って作ったんだから! 残したら承知しないんだから!」

 ぼやける視界ですみれを見る。彼女は泣きながら叫んでいた。

「そうだね、すみれちゃん。それに、食べ物を残すのは……良くない事だ」

 そう呟くと匠は優雅に、まるで中世貴族の様な仕草で一礼して、何事も無かったかの様に箸を取る。そして不思議な爽やかさすら纏った表情ですみれに囁いた。

「では改めて。いただきます」


 司会も、撮影スタッフも、魂を奪われたかの如く二人を見ていた。

 まるで早送りの映像の様な勢いで、それでも動作に気品を残しながら、匠は食べ進めている。

「そう、そうよ。一気に食べてしまいなさい、たっくん。食べて……お願い……」

 匠の隣では、すみれが目の幅の涙を流しながら激励していた。

 見ようによっては、それは有り得ない大きさのラーメンを一気食いしようとしているバカな男と、泣きながらそれを応援している痛い女の末期的バカップル。それでも彼らの、愚直なまでのひたむきな姿は観る者全てに深い感動を与えていた。

 いつの間にか、司会を含めた全てのスタッフが彼らの周りを取り囲み、スタンディングオベーションで惜しみの無い拍手を捧げている。

 カメラの後ろで事の次第を見ていたプロデューサーの山本が一言、

「いいね」

 と呟いた。

 麺と具材を食べ尽した匠は、エレガントとさえ言える仕草でレンゲを使い、スープを飲み干す。

 やがて……

「ご……馳走様……でした」

 全てを飲み干した匠が、そっとレンゲをテーブルに置いた。拍手が一際大きくなる。


 所要時間、二十九分五十六秒。

 ここに新たな伝説が誕生した。

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