第一話
『らーめん昇竜軒』は、さびれた商店街の片隅にひっそりとたたずむ、一見何の変哲も無い昭和テイスト漂う小さな店。しかし、ある筋の間では知らぬ者のいない、超有名店である。
その店主であるすみれは若くして両親に先立たれ、一人その細腕で店を切り盛りしているのだが、持ち前の勤勉さと父親譲りの腕前、そして母親譲りの愛嬌ある振る舞いで店は中々に繁盛していた。
「ありがとうございましたぁ!」
その日も最後の客を送り出し、のれんを下げたすみれはカウンター席に腰掛けると、厨房の隅に飾られた両親の遺影を優しく見詰めてそっと呟いた。
「お父さん、お母さん、今日もいっぱいお客さん来てくれたよ。この店は私が守るから、安心してね」
一日の最後に、今は亡き両親に報告する。傍から見たらちょっとばかり痛いその行為は、それでもすみれにとって一日を締めくくる、神聖とすら言える大切な儀式なのであった。
二人の写真は優しく微笑むばかりで何も語り掛けてはくれなかったが、すみれにはそれで充分だった。
もしも二人が生きていたなら、きっと今日の仕事振りを褒めてくれる。
すみれは本当に良くやってくれている、自慢の娘だ。お父さんはそう言ってくれるに違いない。そんなお父さんを見てお母さんは、あらあらこの人は本当に娘には甘いんだから、なんて呆れた顔で言うんだ。
そんな他愛も無い事を考えながらコーヒーなど飲みつつ壁の写真を眺めている時が、すみれにとって最も心休まる時間なのである。
しかし、そんな憩いの時間も長くは続かなかった。彼女のささやかな安息を遮ったのは、一本の電話。
「んもう、何よ?」
神聖な儀式を邪魔されて、彼女はやや不機嫌な態度で受話器を取る。それでも営業用の一オクターブ高い発音で応じたのはさすがであった。
「はい、ありがとうございます、昇竜軒です。申し訳ありません、本日はもう閉店なんですが……はい? ええ、ええ。明日ですか? ええ、当店は一向に構いませんが……」
相手の話を聞くにつれて、すみれの瞳から先程までの優しい輝きが消え失せる。まるで別人の様な、獲物を見つけた野獣の様な形相へと変わって行った。
電話を切った後、再び両親の遺影を見詰めて、呟く。
「お父さん、お母さん、また身の程知らずが来るよ。私がんばるから、楽しみにしててね」
先程とは明らかに違う、険しい表情と何だか危険な目付きで語りかける。
そんな娘を、写真の二人は変わらずに優しい微笑で見守っていた。
翌朝。
店先に『本日臨時休業』の札を出して、すみれは準備に取り掛かった。
やや小振りな寸胴鍋に水を張り、具材を入れて出汁を取る。
前日から寝かせた生地を二十玉分製麺機に掛けて、伸ばした後に手で揉んで適度な縮れをつける。
すり鉢に各種香辛料を投入して丹念に擦りあげる。
明らかに普段と異なる特殊な仕込み。そしてそれを行う間、すみれの瞳はまるで猟奇犯罪者が快楽に任せて行動するかの様な、妖しく熱っぽい輝きを放っていた。時折小さく「むふっ むふふっ」と、いやらしい笑い声まで漏らしている。
その姿は普段、巷で『らーめん小町』などと呼ばれている、陽気で明るく愛らしい営業中のすみれとはまるで懸け離れていた。それはもう、絶対友達になりたくないと思える程に危険な香りのする、恐ろしげな様相である。
彼女には二つの顔があった。
一つは美味くて安くてボリュームたっぷりの料理を作る、誰からも愛される庶民の味方としての天使の顔。もう一つは、並み居る挑戦者達を無慈悲に蹴散らし、さらに辛辣な言葉で止めまで刺して悦に入る、冷酷非情な悪魔の顔。
昨日、閉店後にかかって来た一本の電話が彼女から悪魔の顔を引き出していた。