幸運の焼き肉店
幸運の焼き肉店。
そんな噂が流れ始めたのはここ一週間くらい前からだった。最初に聞いたのは同僚からで、なんでも違う部署の社員がそこに行った結果、業績がグンと伸びたらしい。最初は半信半疑どころではなく、九割がた疑っていたものの、社内の人間が実際に体験したのであれば、信じたくはなってくる。まあ僕はその本人と話したことはないのだけれど。
少なくとも、友達の友達から聞いた、という話よりはまだしも信じられるものではある。
そんな話題が僕らの部署内を席巻し始めてはいたものの、しかし未だ誰もそのお店には行けていなかったのだった。
なにせ予約が一杯なのである。
当然と言えば当然なのだけれど、普通にお店に入ったのではまず食べられないし、予約自体、何ヶ月待ちだそうだ。
別に今の生活に不満があるわけではないので、どうしても幸運を手に入れたいというわけではない。しかし気になるのも仕方ない話だろう。
ただそんな中、僕にその話をしてくれた同僚が、こんなことを言ってきた。
「この前の焼き肉の話覚えてるか? 実はその本人に何とか頼み込んでみたんだよ。アレコレ手を使ってな。そしたら店の方に話つけてくれるって!」
つまり、僕と同僚と、その幸運さんとでお店に行けることになったのだそうだ。なんとも、この時点で幸運と言えなくもないと思うんだが。しかし一度行ったくらいで、お店と懇意になれるものなのだろうか。それともよほど気に入られたのか。
ただやっぱり、いくら話をつけると言っても、一日やそこらではさすがに行けないらしい。どうやら二週間後の日曜日、その日に決行だそうだ。
当日はなんと大安だった。それは実に結構。
そして日曜日。
結局、その幸運さんとは会社内で会うことができなかった。お店の前で初めて顔を見ることとなる。
しかしまあ、うん。
これといって特徴のない人だった。
何というか、のっぺりというか。こういうのは大変失礼だろうし、そもそも人のことは言えないのだが、特に華があるようにも見えない。
幸運になったとはとても思えなかった。
しいて特徴を言うなら、特徴がないのが特徴か……?
特徴がなく、人間らしさがなかった。
「おい、なに突っ立ってんだよ。中入るぞー」
「あ、ああ。わるい」
まあ本人はもうどうでもいい、噂の元、幸運の焼き肉屋に足を踏み入れられるのだから。味を、確かめられるのだから。
と思って意気込んだものの、しかし内装は至って普通だった。内装どころか、お肉も、野菜も、飲み物も。ただ、店員だけは、幸運さんと似た雰囲気を持っていたけれど。
お腹いっぱいになるまで食べたはいいが、とんだ肩透かしだ。これで幸運になったとも思えない。最初から信じていたわけではないけれど、実際に体験してみて、何も変化が起きないと、それはそれで残念な気持ちになる。
同僚も同じ感想をもったのか、何とも言えない顔をしていた。
しかし食べ終わってしまったのであれば、店を出ないわけにもいかない。いつまでもここでぼんやり座っていたら、店の人にも迷惑だし、幸運を求めているお客さんにも迷惑だ。
いや、この現状を思えば、期待したままでいる方が良いともいえるが。
なんにせよ、これで幸運になってないとは言えないのだから、今後の生活をみて決めるべきだ。
食べた途端空からお金が降ると思っていたわけでもない。
じゃあ出ようか、と言いかけたそのとき、
「お客様」
と声をかけられた。なんだろう、そろそろ帰れとでも言いに来たのかな。ならば従うまでだ、と荷物に手をかけたが、しかしそうではなかった。
「こちらへどうぞ、至上の幸福が貴方をお待ちです」
バッと振り返ると、幸運さんは張り付けたような笑顔で頷いていた。
現代の人間に優しいお一人様専用のコースなのか、同僚は席に座らされたままだった。僕の後に呼ばれるのだろうか。
店の奥にまで進み、扉を開け、薄暗い通路を歩く。店員に呼ばれた瞬間は期待値が跳ね上がったものだが、今は不安も入り混じっている。あの幸運さんに嵌められたか、と思ってしまうのも無理はなかろう。しかし今更逃げ出すことも出来ない。どうせなら噂の真偽も確かめてやろうではないか。
そして、えんじ色に塗られたドアを開ける。
その中には、僕がいた。
狭い部屋の中には、たった二人の人間がいる。
「こちら、皮でございます」
「こちら、髪でございます」
「こちら、目玉でございます」
「こちら、涙腺でございます」
「こちら、肺でございます」
「こちら、胃でございます」
「こちら、心臓でございます」
「こちら……脳でございます」
出されたすべての食材を食べ終え、満足そうにする。それを見て、店員も嬉しそうに笑った。
「よお、遅かったじゃんか。向こうで何してきたんだよ」
「お次はお客さまの番ですので」
「ん、そうか。じゃーまー、待っててくれ」
同僚は店員に連れて行かれ、奥へと進む。
僕は気分がすこぶるよかった。
幸運とはこのことか。
ならば噂になるのもむべなるかな。
まるで、まるで生まれ変わったかのようだ。
「いい笑顔ですね」
そう幸運さんに言われた。
「ありがとうございます」
僕は張り付いたような笑顔でそう言った。