9
それから二日後。フレウェルは再びミルクリアの家を訪れた。絵が乾くのを待ち、引き取るためだ。
家の扉を開けたミルクリアはそれまでと違い、髪飾りをつけ薄い紫色の小綺麗なワンピースに身を包んでいた。大切な肖像画を引き渡す日、精一杯のおしゃれをしたのだろう。フレウェルはその姿を見て目を細めた。
肖像画は既に綺麗に梱包されていた。二人は椅子に座り、いつものように紅茶を口にした。描いている絵がない状態で向かい合うのは久しぶりのことだった。
「これを」
フレウェルは袋を二つ机に置いた。そこには溢れんばかりの金貨が入っている。
「今の俺が用意できる精一杯をさせてもらったが、これでは足りないくらいだ」
ミルクリアは戸惑いの表情でフレウェルと金貨の入った袋を交互に見ている。
「俺の気持ちだ。受け取ってくれ」
「は、はい。ありがとう…ございます」
フレウェルは頷くと紅茶をすすった。
「ミルクリアはこれからどうする?」
その問にミルクリアは寂しそうな表情を浮かべた。
「ここに留まるか?それとも海の見えるどこかに行くか?」
続けてやってきたフレウェルの問にもミルクリアは答えることができなかった。
「俺の肖像画を描いた人物の名前はしっかり公表させてもらう。女であっても少しは仕事が舞い込んでくるかもしれない」
眉尻を下げるミルクリアはフレウェルと目があった。今にも逃げ出しそうな視線をフレウェルの黒い瞳は捉えて逃がさないようだった。
「私は……どうしたらいいかわかりません」
「わからない、とは?」
「今までは絵を描いている間に次の絵はこんな絵が描きたい、という欲望が生まれてきて、描き上げた後にはすぐにそれに取り掛かっていました。しかし、フレウェル様の肖像画を描いた後は筆を握る気持ちになりません。もう私は絵を描けないかもしれません」
ミルクリアはそう言うとようやくフレウェルの視線から逃れて俯いた。スカートの裾をキュッと握り、下唇を噛み締めた。
「それでは何か行きたい場所、やりたいことはないのか?」
「それは……」
ミルクリアは顔を上げて、今にも泣きそうな顔で、
「とても…申し上げられません」
と、か細い声で告げた。フレウェルは立ち上がり、椅子をミルクリアの側まで持って行って、膝が触れ合うかの距離でもう一度座った。
「ミルクリア」
フレウェルは優しく呼びかけた。
「はい」
「俺はこれから大きなことを成し遂げる。しばらくここにも来ることができないだろう」
「……はい」
ミルクリアの瞳が潤んでキラリと光った。
「だが、事が終わったら必ずここに来る。そうしたら、俺と共に海の見える街に越さないか?」
「えっ……?」
フレウェルはミルクリアの手を取った。
「誰も俺を知らない人達が住む街。そして、女性でも能力で正当に評価され、画家になることができる街。そして海が見える街。そんな街を探してみないか?」
「それは……」
「俺が次にここにやってくるその時には、俺は王子ではなくただの人間になってしまっているだろう。それでも俺はミルクリアと一緒にいたい。新しい自分をミルクリアと一緒に始めたいんだ」
「フレウェル様……!」
とうとうミルクリアの瞳から涙が溢れ落ちた。フレウェルはミルクリアの頬に流れる涙を自分の手で拭った。
「ミルクリア、愛している。俺と一緒に来てくれないか?」
「はい…はい!もちろんでございます」
ミルクリアは嗚咽混じりでそう答えた。
「これを」
フレウェルはミルクリアの腕に宝石の施された腕輪をはめた。
「必ず迎えに来る。それまで待っていてほしい」
「はい」
ミルクリアは手を口に当てて嗚咽を堪えながら泣いた。その手をフレウェルはそっと取り上げ、ミルクリアの赤い唇に口づけを落とした。
----------------------
それから二月の時が流れた。ミルクリアは商店の仕事を辞めて家に篭っていた。細い腕にはまった腕輪を眺めながら、祈るように暮らした。家の荷物はだいたい片付け、身一つで出ることができる準備はした。いつ迎えがきてもいいように、机の上には残った家財道具や絵は処分していいと記した手紙まで用意した。
フレウェルの動向を伝える知らせもミルクリアがフレウェルの肖像画を描いたという噂も何一つ聞こえては来なかった。ミルクリアの想いとは裏腹に街は何一つ変わらないまま時は過ぎていく。そんな街をミルクリアは生気のない瞳で見つめた。
そんなある日のこと。ミルクリアが街に買い物に出かけると、街の人達が興奮した様子で何かを話し合っている。
「見に行こう!」
などと言い合っては足早にどこかへ向かっていく。その中の一人の口から、
「フレウェル様が」
という単語が聞こえてきた。ミルクリアはハッと顔色を変えて、
「どうしたのですか!?何があったのですか!?」
と、掴みかかるようにその人に尋ねた。
「フレウェル様が兄君のヨシュウェル様と決闘なさるらしい。何が理由かはまったくわからないが、今から王城近くのコロシアムで行われるらしいよ」
困惑した顔を浮かべながらもそう教えてくれた。その言葉にミルクリアは一瞬固まった。決闘。お兄様と。
ミルクリアの腕輪が下がってキラリと光った。
ミルクリアはお礼も言わずにコロシアムに向けて駈け出した。必死で足を進めるが、普段の運動不足がたたってか足がもつれる。それでも前へ前へ。息を切らしながら駆けた。
「フレウェル様……!」