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次にフレウェルがミルクリアの家を訪れたのは宣言していたよりも一日遅い四日後だった。その代わりに暗くなってすぐに訪れて、夜遅くまでいられるとのことだった。
それまでミルクリアはアトリエに籠り肖像画の下書きを進めていった。商店には休みを申し出てあるので、一日中絵に集中できる環境になった。
あれだけ肖像画を描くことを躊躇っていたミルクリアだったが、いざ描きはじめると楽しくて仕方のない様子だった。食事を抜くことも外が明るくなるまで熱中して鉛筆を動かすこともあったが、それが辛いとも感じていない様子で充実感が顔に滲んでいた。
フレウェルが来るとアトリエに通し、すぐに下書きの修正に入った。細かいところを修正していく。それは何時間も続き、その間フレウェルは辛い様子も見せずに椅子に座りじっとミルクリアの様子を見ていた。
下書きの修正が終わり、ミルクリアは一息ついた。絵の中から現実の世界に戻ってくる瞬間だ。
「下書きがだいたい終わりました。一度見ていただけますか?」
「いや、見ずとも良い。出来上がってからの楽しみとしよう」
ミルクリアは小首を傾げて「本当にいいのか」と表情で尋ねたが、フレウェルが微笑んだのを見てこくり、と頷いた。
「少し休憩なさいますか?」
「そうだな」
ミルクリアはフレウェルの近くまで椅子を持って行って淹れてあった冷めた紅茶を口にした。
「ミルクリアの生まれはソルスの街だと言ったな?」
「はい」
「どんなところだったのだ?」
「そうですね……」
ミルクリアは天井を仰ぎ見て故郷を思い出しているようだった。
「田舎でした。土地が広く、民家は少ないです。隣の家まで歩いて二十分かかるくらいなんですよ」
思わず、といったようにクスっと笑った。
「畜産農家が多く、たくさんの動物がいました。その時は風景画ばかり描いていましたね」
「以前見せてもらったものか」
「はい」
ミルクリアとフレウェルはアトリエに無造作に置かれている絵を眺めた。
「綺麗な絵だった。行ったことはないが、ソルスの街は豊かなところだったんだろうな」
「はい、空気も綺麗でした」
「そこを何故離れることにしたのだ?」
「私は孤児院で育ちましたから、いつかは出て行かなくてはなりません。それに、ソルスの街には画家が活躍できるような場所がありませんでしたし、他の画家もおりませんでした。他の方の絵をたくさん見て勉強したい、というのも私の希望でございました」
「なるほど。クイジタートの城下に来てそれは叶ったか?」
「はい!ここにはたくさんの画家さんがいらっしゃいますから。来てすぐの頃は教会を巡って宗教画もたくさん見ました。宗教画という存在を知ったのもここへ来てからでした」
「そうだったのか」
「それにここにはたくさんの方がいらっしゃいます。お店の常連さんに頼んでスケッチさせてもらったりして人物画がたくさん描けるのも嬉しかったです」
「なるほど、ここは人には困らないだろうな」
「はい。鎧や綺麗なドレスなどソルスの街では見かけなかった服装の方もたくさんいらっしゃいますから、洋服を描くことも勉強させていただきました」
ミルクリアは普段の控えめな様子は影を潜め、饒舌に語った。
「今後はどうするのだ?このままクイジタートに留まるのか?」
「ここで学ぶことは多いので留まりたい気持ちもございますが、私は海を見てみたいのです」
「海、か」
「はい。以前、クイジタートで出会った画家さんに海の絵を見せていただきました。どこまでも青く、輝いておりました。それを見て私も海に行きたい、それを描いてみたいという想いがございます」
「私も見たことがないな」
「そうなのですか」
「あぁ、この国から離れたことはほとんどないからな」
フレウェルは少し苦しげな表情を見せた。
「クイジタートからは随分離れているが、いつか見に行けたらいいな」
「はい」
ミルクリアはフレウェルの様子に気がつくことはなく、満面の笑顔でそれに応えた。
「すみません、私ばかり喋りすぎてしまいました」
「良い。そろそろ再開するか?」
「はい!」
フレウェルは姿勢を正し、ミルクリアは椅子を持ってキャンバスの前に戻った。
「これから少しづつ色付けをしてまいります。まずはフレウェル様の肌の色、瞳の色、髪の色など当てをつけさせていただきます」
「わかった。それでは一度鎧を脱いで構わないか?肩が凝るんだ」
「はい、気にせずおくつろぎください」
フレウェルは慣れた手つきで鎧を剥いでいった。鎧を脱ぐとがっしりとした身体つきが顕になる。少し恥ずかしそうに目線を彷徨わせていたミルクリアだったが、一度筆を取ると表情を真剣なものに一変させ、フレウェルを見ながらパレットの上で色を調整させた。
「何も言わずに集中していていいから勝手に喋っていていいか?」
鎧を脱いで座り直したフレウェルは不思議なことを口にした。ミルクリアは少し頭を傾けたが、すぐに頷いて色味の調整を再開させた。そう言ったもののしばらく沈黙が落ち、フレウェルが口を開いたのはミルクリアがキャンバスに筆を当てた時の事だった。
「ミルクリアは男の俺が羨ましいかもしれないが、俺はミルクリアが羨ましい」
それは王子という鎧を脱いだフレウェルの言葉だった。口調は砕け、声にも普段ほどの張りがない。ミルクリアはフレウェルを見遣ったが、何も言わずに筆を握り直した。
「自ら望めばどこにでも行くことのできる鳥のようだ。対して俺は鳥かごの鳥だ」
フレウェルは顔を歪めた。
「閉じ込められて飼われているにも関わらず、かわいがられることもない。憎々しく思っているのに放つことはせず、利用するだけ利用する。それに対して逃げる手段も持たない。そんな無力な鳥だ」
シャッシャッとミルクリアが筆で色を塗る音が部屋に響いている。フレウェルは目を閉じてそれをまるで美しい音楽を聴くかのように心地良さそうに聞いた。
「俺は絵が好きだ。自分の手の届かない景色を届けてくれる。ただ、知れば知る程この国の画家の絵はどうしても好きになれなかった。上辺だけは美しいがどこか暗い。まるでこの国のようだ」
フレウェルは目を開けて自分の固く握った手を見た。
「ミルクリアの絵を初めて見た時、身体に電流が走ったようだった。今まで見たどの絵よりも色鮮やかで美しく、リアリティを感じられた。まるで目の前に本当に天使がいるかのようだった」
その時を思い出すかのように目を細めた。
「この国にもこんな画家がいるのかと戦慄した。この国の闇を見てきただろうに、それに染まらず腐ることもなかった。そのことに俺は心打たれた。感謝している」
「そんな……」
フレウェルのまるで最後かのような言葉にミルクリアは思わず声を上げて首を振った。
「邪魔してしまったようだな」
穏やかな顔でフレウェルはそう言うと、その日それ以上話すことはなかった。