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ミルクリアは次の日から筆を取ることができないくらい憔悴してしまった。王子の肖像画を描くことができる、ということは画家として最も誉れ高いことだ。喜ぶべき申し出だ。
しかし、フレウェルの絵を見る時の真剣な顔、笑った顔、低い声。フレウェルは死を覚悟している。フレウェルがいなくなってしまう。そのことを考えるとミルクリアは胸が痛くてたまらなかった。その感情を示す的確な言葉をミルクリアはまだ見つけられていない。
約束の一週間後まであと二日という日。ミルクリアは仕事を終えて商店を出た。家に向けて歩き出そうとすると、
「ミルクリアさん」
と、誰かに呼び止められた。そこにはフレウェルの騎士、ギルガムが立っていた。いつもの騎士甲冑ではなくシャツに黒いベスト、黒いズボンを身にまとっている。
「ご自宅までお送りいたします」
ギルガムは綺麗な所作で礼をしてミルクリアを促した。少し驚きの表情を見せたミルクリアだったが、すぐに頷いてギルガムと並んで歩きはじめた。
「こんなに遅くまで大変ですね。いつもこのくらいまで?」
「いえ、もう少し早い日もあれば遅い日もあります。お客様の状況によって様々です」
「そうですか。暗くなると危ないですね」
「あまりに遅くなったら店主のトルガンさんが送ってくださいますから」
「それは安心だ」
ミルクリアの家は商店から歩いて五分ちょっとのところにある。他愛のない雑談をしながら歩いていたが、半分ほど過ぎた時にギルガムは声を潜めて本題を切り出した。
「迷っておられるのですね」
その言葉の意味がわかったミルクリアは何も言うことができなかった。
「ミルクリアさん、私が口出しすることではございませんが、フレウェル様の騎士として言わせてください」
ギルガムは横を歩くミルクリアに顔を向けた。
「どうかこのお話、お受けくださいませ」
「……!?」
ミルクリアも顔を上げてギルガムを見た。その瞳は潤み、揺れていた。
「貴女のお気持ちはわかります。今は詳しく申し上げることができず申し訳ないのですが、これはフレウェル様の悲願です」
「……」
ミルクリアはギルガムから視線を外して俯いた。
「フレウェル様はずっと画家を探していらっしゃいました。そして、貴女と出会ったのです」
ギルガムは沈みゆく太陽を見て眩しそうに目を細めた。
「貴女という人間に出会い、フレウェル様は決断されました。なので、お願いできるのはミルクリアさんしかいないのです」
ミルクリアの小さな家についた。玄関前で二人は向き合って立った。
「ミルクリアさんがもしこの話を断ってもフレウェル様は決意を変えることはないでしょう。フレウェル様を救う、と考えて、どうかお願い致します」
ギルガムは深々と頭を下げてから、背を向けて立ち去っていった。ミルクリアはそれをぼーっと眺めた。そのまましばらく立ち尽くし、太陽が完全に隠れてからようやく扉を開けて家の中に入っていった。
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一週間後の約束の日。ミルクリアは紅茶とお菓子を用意して椅子に座ってフレウェルの訪れを待っていた。心を鎮めるかのように目を閉じて身動き一つしない。
コンコン
いつもの時間にドアは叩かれた。ミルクリアはゆっくりと立ち上がり、深呼吸をしてからドアを開けた。フレウェルは会釈をして部屋に入った。いつも無表情のフレウェルだが、それにしても今日は表情が固いようだった。
フレウェルはアトリエの紅茶とお菓子が用意されたテーブルの前に腰掛けた。同じく椅子に腰掛けたミルクリアと向き合って真剣な表情で口を開いた。
「先週の話、考えてくれたか?」
「はい」
「返事を聞こう」
少しの間の後、ミルクリアは真っ直ぐにフレウェルを見た。
「お受けいたします。自分自身のためではなく、フレウェル様のために」
「そうか」
フレウェルは表情を和らげた。
「ありがとう、ありがとうミルクリア」
見たことのないくらい幸福そうな顔をしたフレウェルを見てミルクリアは頬を赤く染めた。ミルクリアも固かった表情を少し崩して、
「精一杯努めさせていただきます」
と、告げた。
「それでは早速、よろしく頼む」
「はい。ではフレウェル様はそちらに座って楽にしていてください。紅茶を飲んでお菓子を食べてリラックスしてくださって構いません」
「わかった」
フレウェルは灯りの方に移動してミルクリアに向き合った。ミルクリアもキャンバス越しにフレウェルを見る。茶色に近い赤髪。黒い瞳にすっと通った鼻筋。鎧を纏っていてもわかるがっしりとした身体つき。絵になる美しさを持っている。
ミルクリアははじめは恥ずかしそうにチラチラと見ていたが次第に表情が真剣なものに変わっていった。
「これからは数日に一回来るようにする」
「……はい、わかりました」
「どのくらいで完成する?」
「……それは何とも。なるべく、急ぎ、ます。仕事もおやすみした、ので」
ミルクリアは鉛筆を走らせながら途切れ途切れに答えた。フレウェルは頷いてそれ以上は言葉を発しなかった。
長い時間が過ぎ、入り口の扉が叩かれる音が聞こえた。取り憑かれたように鉛筆を握っていたミルクリアは何度も瞬きをし、その意識を徐々に現実に戻した。
「今日はここまでだな」
フレウェルが鎧を鳴らしながら立ち上がった。
「す、すみません。お構いもせず」
「いや、構わない」
ミルクリアは急いで立ち上がって洋服の裾を直した。
「また二、三日後に来る」
「はい、それまでにできるだけ下書きを進めておきます。修正は次回」
「あぁ」
フレウェルは満足気に頷いて、夜の闇に消えていった。