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 それから一週間、ミルクリアは必死に聖人の絵を描き進めた。今までは、そういう夢は持っていたが誰かに渡すために絵を描いたことはなかった。それが今回は渡す相手も明確。丁寧に描き進めた。


 一国の王子に献上する、という事の重大さを考えるとプレッシャーに押しつぶされてしまいそうなので、フレウェルという個人を意識して描いた。ミルクリアに見せたあの悲しそうな顔。ミルクリアにはフレウェルの抱えているものを伺い知ることはできなかったが、この絵を見て何かを感じてもらえたならば。


 ミルクリアはその絵の背景に描く予定のなかった美しい景色を加える事にした。岩場の隙間から見える緑鮮やかな山々と美しい湖。岩場や聖人と対比したように色鮮やかにした。


 次にフレウェルがミルクリアの家を訪れるまでに描き上げてしまいたかったが、一週間では足りなかった。その次の週には完成しそうだと伝えて謝罪しようと思った。

 しかし、ちょうど一週間後のその日にフレウェルがミルクリアの家を訪れることはなかった。用意した紅茶が冷めてしまうまで待っていたが、日付が変わってもフレウェルが来ることはなかったので、仕方なくミルクリアはそれを片付けた。


 一週間前の出来事は嘘だったのだろうか。夢でも見ていたのだろうか。

 そんな疑念を抱きながらミルクリアはベットに入った。しかし、フレウェルの顔はミルクリアの脳裏にしっかりと刻まれていた。嘘を言う人ではない。


 ミルクリアは次の日からも真剣に絵と向き合った。もし、もう二度とフレウェルが来なくても恨んだりなどしない。ただ、この絵はフレウェルのもの。目に触れることがなくても、絶対に完成させたい。そう思い、睡眠時間を削ってまでも描き上げたのはフレウェルが最後にミルクリアの家に来てからちょうど二週間後の朝のことだった。その日はフレウェルが来るかもしれない日。来てくれるかわからないが、ミルクリアは待とう、と決めた。


 お菓子と紅茶を用意した。アトリエのテーブルにそれを置き、ミルクリアは完成した聖人の絵と向き合ってその時を待った。今までこんなにフレウェルが訪ねてきてくれる時のことを心待ちにしていたことはあっただろうか。それはいつもよりも長い時間に感じられた。


 コンコン


 いつもと同じ時間に入り口の扉が叩かれた。ミルクリアは待っていたはずなのに一瞬固まり、その後弾かれたように立ち上がり、ごくりと唾を飲み込んでからドアを開けた。そこにはフレウェルが立っていた。ミルクリアは喜びのあまり両眉を下げて泣きそうな顔をした。そんなミルクリアをフレウェルは少し驚いたように見つめてから、ゆっくりと室内に入った。


「先週は来ることができずにすまなかった」


「いえ、お忙しいでしょうから」


 ミルクリアは胸に手を当てて頭を垂れた。フレウェルの手には怪我をしたのだろうか。包帯が巻かれている。


「絵が完成いたしました」


「そうか。見ても構わないか?」


「はい、ぜひ御覧ください」


 フレウェルはアトリエに足を踏み入れた。少し暗い室内でもその絵の存在感はすさまじいものだった。フレウェルは導かれるように目が離せないまま歩いていって絵の前で立ち止まった。


 聖人の痩せ細り今にも倒れてしまいそうな身体つきは目を逸らしたくなるよう。目も虚ろでとても聖人とは思えない醜いものだ。周りの岩場もその聖人の醜い雰囲気を際だたせるようにごつごつとして薄暗い。その代わりに岩場の隙間から見える鮮やかな青い空、淡い緑の山々が連なる景色が眩しく輝いている。その美しい景色はキャンバスの十分の一ほどの面積しかないのに、その絵に素晴らしい強弱をつけている。それでも、その絵の暗い雰囲気を壊すことはない。あくまでも主役は聖人。全体的に見てとてもよくまとまっていた。


 フレウェルはその絵を前に言葉なく長い時間を過ごした。ミルクリアも黙ってその後ろに立って絵を見つめた。フレウェルは我に返ると一息つき、ミルクリアを振り返った。


「とてもいい。ありがとう」


 フレウェルの声は少し上ずっていた。ミルクリアは嬉しそうに微笑んで椅子を勧めた。

 ミルクリアの淹れた紅茶を飲みながらもしばらくフレウェルはその絵から目を離すことができなかった。それほどまでにいつまでも見ていられる雰囲気がその絵にはあった。


「持って帰るために梱包してもらえるか?」


 ようやく絵から目を離すとフレウェルはそうミルクリアに頼んだ。ミルクリアは頷いてとても幸福そうな顔をしながら絵を丁寧に梱包していった。フレウェルはその様子も見逃すまいという雰囲気で真剣に見つめた。梱包が終わってミルクリアは再び椅子に腰を落とした。


「これを」


 フレウェルは腰につけていた袋をミルクリアに手渡した。ミルクリアはそれを受け取って、あまりの重さに驚いて袋の中をちらっと見た。そこには金色に輝く硬貨が見たこともないくらいの量入っていた。


「こ、こんなにいただけません!」


「何を言うのだ」


 フレウェルは紅茶をすすった。


「私はその絵に対する真っ当な対価を支払っただけだ」


「し、しかし……」


「お主は画家で私は客だ。受け取ってくれ」


 ミルクリアはもう一度袋を見てから、


「わかりました、ありがとうございます」


 と、お礼を言って震える手で袋をテーブルの上に置いた。フレウェルはその様子を見て頷いてから、


「それで、今日はもう一つお主に頼みがある」


 と、切り出した。


「何でしょうか?」


「これはお主にしか頼めない大事なことだ」


 真剣なフレウェルの表情にミルクリアは背筋を正した。


「ミルクリア・リライト」


「はい」


「お主に私の肖像画を描いてほしい」


「え……!?」


 ミルクリアは黄金の瞳をこれ以上ないくらいに見開いた。そして、手だけでなく身体をも震わせた。


「そ、それは……」


「お主に描いてほしい。どうか引き受けてはくれないか」


 ミルクリアは震える手で自分の身体を抱いた。顔は驚きと恐怖の色で歪んでいる。


「それは、フレウェル様は……」


 その先の言葉は続かなかった。肖像画は通常、死後に描かれるものだ。生前に描かれるとしたら戦いなどを理由に死を覚悟した時だけだ。


 ミルクリアは震えながらもフレウェルの黒い瞳を見つめた。その中にある何かを読み取ろうとするかのように。


 コンコン


 タイミングよく入り口の扉が叩かれた。いつもより時間が少し短いように感じられた。


「今日はこれで帰ろう。だが、考えておいてほしい。私はお主に描いてほしい。その気持ちは変わらない」


 フレウェルは立ち上がった。ミルクリアも立って見送らなければならないのに、腰が抜けて力が入らなかった。


「少し急いで描いてほしい。今日の報酬でしばし店での勤務も休めるだろう」


 フレウェルは震えるミルクリアを見下ろした。


「来週、返事を聞きに来る。それまでに用意をしておいてほしい」


 ミルクリアは何も答えることができない。


「この絵、大切にする」


 フレウェルは聖人の絵を本当に大切そうに抱えた。そして、ミルクリアをもう一度見てから、


「また来る」


 と、言い残して去っていった。

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