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それからしばらくミルクリアはフレウェルの夢みたいな来訪と最後の言葉を反芻してどこかぼーっとしながら毎日を過ごした。夜は戸を叩く音を聞き逃さないように耳をすました。しかし、なかなかフレウェルは来ない。
ただ、ミルクリアはフレウェルが嘘を言うような人だとどうしても思えなくて、またの来訪を疑うことはなかった。暴君と噂されるフレウェル。確かに鋭い目とがっちりとした体格をしているが、噂とは違う落ち着いた雰囲気を持っていた。その姿を何度も思い出してはミルクリアはキャンバスに向かうのだった。
フレウェルの来訪からちょうど一週間が経った日の事だった。いつものようにミルクリアがキャンバスに向かっていると、コンコンと戸を叩く音がした。ミルクリアは弾けるように立ち上がり、躊躇いなく戸を開けた。
そこには予想通りフレウェルが立っていた。ミルクリアは頭を垂れて出迎える。フレウェルは何も言わずに室内に入って戸を閉めた。
「今日も絵を見ても?」
「はい」
二人は短い会話を交わすと先週と同じようにアトリエに移った。そこでフレウェルはきっちり先週の途中から絵を見始めた。風景画や宗教画、街の人々を描いた人物画まで置いてある。フレウェルはそれを一つ一つ丁寧に見ていった。
長い時間が過ぎ、フレウェルはすべての絵を見終わった。ミルクリアの方を振り返ってふと描き途中の絵に目を向けた。
「これは今描いているものか?」
ずっと何の音もしていなかった部屋にフレウェルの声が響いた。
「は、はい」
鉛筆で下書きされたその絵画をじっとフレウェルは見つめた。その絵は中心に一人の人物がいる。その人物は年老いた男で頬はこけ、腕は細く身体も骨と皮だけのような状態だ。目線はあらぬ方向を向いている。
「これは……」
「宗教画でございます。俗世を捨て、苦業に励む聖人の姿を描いております」
「宗教画……これがか」
フレウェルは少し目を見開いてそこに描かれた人物を凝視した。
「お主は」
フレウェルの視線がミルクリアに向けられ、ミルクリアは少したじろいた。
「このような絵も描けるのだな」
ミルクリアは上目遣いでフレウェルを見た。
「初めて見た絵は可愛らしい子供の天使の絵であった。ここに置いてある絵も綺麗な風景画、神々しい神の絵、街の日常を切り取ったような瑞々しい絵と様々だった。その上、このような暗く恐ろしい絵も描けるのだな」
フレウェルはミルクリアを真っ直ぐに見つめながら詳しく言い直した。ミルクリアは頬を少し赤く染め、俯いて嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
フレウェルはもう一度その絵を見てから、またミルクリアに声をかけた。
「この絵はいつ頃完成する?来週も描いているか?」
「は、はい。完成まではまだ二週間程かかるかと思います」
「そうか、では来週はこの絵を描いているところを見せてくれ」
フレウェルの言葉にミルクリアはハッと顔を一瞬上げてからまた慌てて俯き、胸に手を当てた。フレウェルはずんずんと出口へ進み、出て行く直前に、
「また来る」
と、言ってから出て行った。
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フレウェルの二度目の来訪の後、ミルクリアは夢の中にいるようなふわふわとしていて、かつ天にも登るような嬉しい気持ちを抱えて過ごしていた。誰かに自分の絵を褒められるという行為は久しく味わっていなかった。
絵を描き始めた頃はいろいろな人にその才能を褒められたが、いざ画家を目指そうと一人クイジタートの城下町へ越してくるとその様子は一変した。ミルクリアの絵を見て賞賛の言葉をくれるものもいたが、それと同時に哀れみの目でミルクリアを見た。はじめミルクリアにはその意味がわからなかったが、この街で過ごしていて徐々にそれが身に沁みてわかった。女性が絵を描くということの無謀さ。才能があっても認められることはない。
しかし、フレウェルの目は違った。哀れみの目をしていなかった。具体的にミルクリアの絵の多彩さを指摘してくれた。それはミルクリアにとってなによりも嬉しいことであった。
そのおかげで店番も普段より明るくこなすことができた。一週間後に訪れるであろうフレウェルの来訪を心待ちにもしていた。今度はどんな言葉をかけてくれるのだろうか、と。
フレウェルを見ているとクイジタート国の第二王子であるということを忘れそうになる。確かに体格はたくましく纏っている鎧も立派なものであるのだが、その内面は伝え聞いていたものとかけ離れていた。一緒に時を過ごしているとただ自分の絵を見てくれる一人の人と感じられ、そこに肩書などは微塵も存在しないように思えた。
「あれ?あなたはミルクリア・リライトさん?」
客に話しかけられ、ミルクリアは急に現実に戻された。目の前に立っているのは鎧を纏った王国の兵士だ。ミルクリアはその顔に見覚えがなかった。
「は、はい。いらっしゃいませ」
ミルクリアはその男の手渡してきた代金を受け取って、お釣りを手渡した。
「やっぱり。まさかこんなところでお会いできるとは」
男はしげしげとミルクリアを見た。
「あ、あの申し訳ありません。どこかでお会いいたしましたでしょうか」
「あぁ、これはこちらこそすみません。私はギルガム・カーチスと申します」
やはり聞き覚えのない名前のようで、ミルクリアは困ったように薄く笑顔を作った。そんなミルクリアの耳元にギルガムは自分の顔を持ってきて、ミルクリアは突然のことに固まってしまった。
「私はフレウェル王子の騎士をしております」
ギルガムはそう囁くとミルクリアから顔を離した。やっと理解したミルクリアは自分の胸に手を当てて、
「あぁ……」
と、声を出してうやうやしくお辞儀をした。
「そんなにかしこまらないでください」
ギルガムは困ったように笑った。
「私もただの人間ですから。ギルガムとお呼びください」
「はい……ギルガム様」
ギルガムは頷くと店をぐるりと見渡した。
「それにしてもミルクリアさんはここで働いているのですか?ご実家か何かで?」
「いえ、こちらには雇っていただいています」
「雇って……」
ギルガムは訝しげな顔をした。
「てっきり専業画家かと思っておりましたが」
「いえ、とんでもございません。私はまだ未熟ですし、働かなければ食べていけません」
ミルクリアは首を振って俯いた。
「未熟だとはとても……でも、いや、なるほど」
ギルガムは何かを納得したかのように頷いた。店の扉が開いて別の客がやってきた。
「それでは仕事中に失礼いたしました。また、あの日にお宅にお伺いいたしますので」
「はい」
ギルガムは小声でそう囁いて笑顔を見せると店を出て行った。ミルクリアはそのドアをしばらく見ていたが、客が近くにやってくると気を取り直していつものように仕事を再開するのだった。