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「またお前か」
その言葉をこの男は何度口にして、その女はそれを何度言われてきただろうか。
この男の名はヒース・イニエム。画家である。国の小さな教会の絵画などを少しずつ担当できるようになってきた、まだ若手の画家だ。
今日は街外れの小さな教会の新しい絵のコンペにやってきた。教会の隣のこれまた小さな孤児院の一室を借りてコンペが行われている。出展者はヒースを含めて五名。実績から言ってもヒースは一番有利と言って良い。
ヒースは大きなキャンバスに、地上で神に祈りを捧げる人間と雲の上でそれに応える神を描いた宗教画を展示していた。教会に合うように少し色はくすみ、神の部分だけ金色の色彩を使い神々しさを演出している。
その横にある、ヒースの絵より一回りも二回りも小さなキャンバスに描かれた絵画がその女、ミルクリア・リライトが展示した絵画だった。
ミルクリアの絵は天使がニ人空を舞うシンプルな絵画だった。ヒースの絵画とは対象的な鮮やかな色彩だ。羽の生えた子供の天使は輪郭がくっきりと描かれ、ぷっくりとした肉付きに少し色づいた頬をしている。素人目に見ても目を引く絵画だ。
ただ、描いている人間がいけない。ミルクリアは女性だ。この国では画家となるのは男性ばかり。女性が絵を描くことは禁止されてはいないものの、常識的には女性の描いた絵が世に触れることはない。
それでもミルクリアは絵を描くことを諦めない。何度も何度もコンペに出しては何度も何度も落とされる。こうしていつもヒース等の男性に罵られながら。
「目障りだ、こんな絵。お前は早く筆を折ってどこかへ嫁いだ方がいい。俺はお断りだがな」
周りからもくすくすと笑い声が上がる。ミルクリアは目を伏せて唇を噛み締めた。この国では女が男に反論することも許されない。もし反論してしまったならば、もう二度とコンペに絵を出すことも叶わないだろう。
コンペが行われている会場の入り口の方でガシャガシャと鎧の音がして、ざわついた。鎧を纏っている人、といえば国の兵士だ。何故こんな街外れなんかに、と不思議な顔をしながらもミルクリアやヒースは頭を下げた。
入ってきたのは鎧を纏った男ニ人だった。前を歩く黒い鎧の男は入り口から飾られた絵画をじっと見ながらゆっくりと中へ進んでくる。ヒースは恐る恐る顔を上げると、さらに驚きの表情を浮かべた。
「これはこれは!フレウェル様ではございませんか!」
その名前にミルクリアもハッと顔を上げた。
フレウェル・クイジタートはこのクイジタート王国の第二王子だ。公には滅多に出てこず、現国王のフーロレーン・クイジタートや第一王子のヨシュウェル・クイジタートが行う国政にも一切関知しない。毎日女遊びをしているとか、実は剣の腕が立つ暴君だとか、いろいろな悪い噂が流れるが真相を知る者はほとんどいない。
「私は画家のヒース・イニエムと申します。王城で一度フレウェル様をお見かけしてから一度ちゃんとご挨拶をしたいと考えておりました!」
ヒースは大袈裟に手を広げてフレウェルに近づいていく。
「さぁさぁ、どうぞ!私の作品はこちらです!」
順に絵画を見ていたフレウェルだったが、ヒースの勢いにミルクリアの絵画を飛ばしてヒースの絵画の前に立った。
「こちらは教会に寄贈するために描いた絵画でございます。神々しい神に祈る様を描きました。この他にも風景画なども描いておりますので、ご希望があれば王城に献上させていただきます」
横でまくし立てるヒースに表情一つ変えずフレウェルはじっと絵画を見つめた。しばらくそのまま絵画の前で立ち尽くして、
「ふん」
と、声を出してからヒースを見ることなく入り口へ踵を返した。そのまま帰るかと思われたが、ミルクリアの絵画の前で足を止めた。絵画に向き直ってまたじっと見ている。フレウェルはヒースの絵画よりも長い時間ミルクリアの絵の前に立っていた。ミルクリアはその様子を後ろから心配そうに見つめた。
「この絵は誰が」
フレウェルは周りをキョロキョロ見回して、後ろで頭を垂れるミルクリアに目をやった。
「お主か」
「……はい」
ミルクリアは控えめに声を発した。
「名は」
フレウェルは無表情のまま尋ねた。
「ミルクリア・リライトと申します」
「ミルクリア・リライト」
フレウェルは名前を復唱してからもう一度ミルクリアの絵画に目をやった。そして、
「邪魔したな」
と、少し大きめの声を出してからガシャガシャと鎧を鳴らして孤児院から出て行った。後ろの兵士もその場の人達に一礼してからフレウェルの後を追って出て行った。
「けっ、何だったんだ」
完全に姿が見えなくなってからヒースは顔を歪めて悪態をついた。ミルクリアは胸に両手を当ててふぅ、と息を吐き出した。
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コンペから一週間の時が経った。案の定、街の教会に飾られる宗教画はヒースのものに決まった。わかりきったことであるはずなのに、ミルクリアは酷く落胆していた。ミルクリアが日中働いている商店の店主の妻であるサヤがミルクリアを気にして声をかける。
「仕方ないよ、ミルクリアちゃん。相手が悪かったよ。なんてったってヒース・イニエムはフーロレーン様の専属絵師を志しているそうじゃないか。いずれは肖像画を、なんて不謹慎なことを息巻いてさえいるんだよ」
サヤの言葉にもミルクリアは薄く笑顔を返すだけで目は笑ってはいなかった。
ミルクリアは夜や空いた時間に絵を描いて、日中はサヤの店で働いている。本当はすべての時間を絵画に費やしたいのだが、稼ぎがないと暮らせない。
画家は誰しもヒースのように国王の専属絵師になりたい。当人が死を覚悟した時や死後に描かれる肖像画を手掛けることは画家にとって最も誉れ高いことだ。国王の専属絵師ともなればそれが可能だ。世に名前が知れ渡り、たくさんの人に絵を見てもらえることになるだろう。
その日の勤務を終えてミルクリアは自宅へ戻った。家は小さく古い一軒家だ。ミルクリアはそこに一人で住んでいる。
家に帰ると簡単で質素な食事を済ませ、キャンバスに向かう。どんなに落ち込んでもやることは同じ。ただ描く。自分の絵と向き合い向上し続ける。自分の絵を評価して望んでくれる人に出会えるまで。
コンコン
ミルクリアの家の扉が外から叩かれる音が聞こえた。ミルクリアはハッとキャンバスから顔を上げると辺りは既に真っ暗になっていた。
コンコン
再び扉が叩かれる。ミルクリアは不審な顔をしながら入り口に向かった。こんな夜遅くに誰かがやってくるなんてほとんどないことだった。
「はい」
扉の前に立ち、扉を開けずにミルクリアは小さく声を出した。
「ここはミルクリア・リライトの家だな」
外からは男の声がした。
「は、はい」
ミルクリアは明らかに戸惑った表情で答えた。ミルクリアの知人で家を訪ねてくる男性として考えられるのは勤め先の店主のトルガンになるが、外から聞こえた声はその聞き慣れた声ではないようだった。
「私はフレウェル・クイジタートだ。戸を開けてもらえるか」
「えっ……」
ミルクリアは驚きのあまり小さな悲鳴を上げた。一時の間の後、顔が見えるくらいに戸を開いた。
そこには紛れも無く先日のコンペで見たクイジタート王国第二王子、フレウェル・クイジタートが立っていた。黒い鎧を纏い、ミルクリアを見下ろしている。
「あぁ……」
ミルクリアは驚きの声を漏らしてフレウェルが通れるくらい戸を大きく開けた。ガシャガシャと鎧の音を立てながらフレウェルは一人で中に入り、外に兵士を一人残して戸を閉めた。
フレウェルはミルクリアの暗くて小さな部屋を見渡した。ミルクリアはしばしフレウェルの後ろ姿を怯えながら見つめてから、
「お、お茶でも、お淹れいたしましょうか」
と、小さく口にした。
「よい」
フレウェルは毅然とした声を出し、ミルクリアを振り返った。
「それよりここにお主の絵はあるか」
「あ……」
ミルクリアは何を言われているかわからないと言うようにその黄金の瞳を丸くした。
「は、はい」
「見せてもらえるか」
「こ、こちらに」
ミルクリアはフレウェルを隣の部屋に案内した。
そこはいつもミルクリアがアトリエとしている部屋で、過去に描いた作品が無造作に置いてある。部屋には絵の具の匂いが充満していてお世辞にも綺麗とは言えない。
それを気に咎める様子もなくフレウェルは置かれた絵画に近づいた。
「見ても?」
フレウェルは顔だけをミルクリアに向けて尋ねた。
「は、はい」
ミルクリアの返事を聞くと、フレウェルは絵画を一つずつ手に取っていった。コンペの時と同じように表情を変えずにじっと見ている。ミルクリアはその様子を青い顔をして震えながら見守った。
フレウェルはコンペの時と同じように時間をかけて一つ一つの絵を見ていった。表情は無表情のまま変えることがなかった。
どのくらいの時間が経っただろうか。フレウェルが部屋の半分くらいの絵画を見終わった時だった。
コンコン
ミルクリアの家の扉が再び外から叩かれた。ミルクリアがどうしたものかと扉とフレウェルを交互に見ていると、フレウェルが振り返った。
「出なくて良い。私の騎士だ」
フレウェルは手にしていた絵画をもう一度見て慎重に床に下ろしてから、
「邪魔したな」
と、ミルクリアに声をかけて出口の扉へ向かった。ミルクリアは頭を垂れた。
フレウェルは出口の扉に手をかけてその動きを止めた。そのまま扉に顔を向けたまま、
「また来る」
と、言ってから出て行った。
ミルクリアはフレウェルが出て行った扉をしばらく見つめてへなへなと床に座り込んで胸に手を当てた。そして、ポツリと呟いた。
「また……」