君との時間、僕だけの時間
僕にとっての最愛はひーちゃんだ。
「大きくなったら結婚しようね」
「うん!」
もう何年前になるのか。幼き日、僕とひーちゃんはそんな約束をした。まあこれは取り立てて珍しいというほどのものではないだろう。僕たち以外にもこんな感じの結婚の約束をした子供は日本中探せばおそらくそれなりにいる。大人から見れば子ども同士によるかわいらしい約束事。
しかしそんな幼き日の約束を10年以上の間、両者が覚えているとなるとたちまち話は変わってくる。その上その約束を10年以上たった今でも本気で実行しようと両者が思っているとなるとその希少性たるや語らなくても察することだろう。
そして僕とひーちゃんはまさにそんな希少性を持った人物たちであった。
「ねえねえ、せっかくだし結婚式の練習をしようよ」
「いいけど、どうやるの?僕どうするのか知らないよ?」
「大丈夫、私昨日お母さんに聞いてきたから」
そう言うと日向はポケットの中から一枚の紙を出した。
「ええとね、今から私がここに書いてあることを読むからそれに誓いますって言えばいいんだよ」
「わかった!」
僕の肯定の反応に満足すると、ひーちゃんは「じゃあ読むね」と前置きをして結婚の口上を述べる。
「いい時も悪い時も、貧しい時もそうじゃない時も、病気の時も時も健康な時も、一緒に過ごし、死が二人を分けるまで、愛を誓い、わたしだけを想うことを神聖なる婚姻の約束のもとに誓いますか?」
そうして読み上げられた口上は、多分ひーちゃんのお母さんが気を利かせたのだろう。子どもでもかろうじてわかる文章となっていた。
しかし恭弥はある言葉がどうして頭に引っかかった。だからつい
「……やだ」
といってしまった。
「えぇー、なんで?私と結婚したくないの?」
ひーちゃんが悲しそうに僕を見てくる。しかし僕はどうしても引っかかること……より正確に言うなら誓いたくないことがあったので誓いの言葉を言わない。
「あのね、僕どうしていやなことがあるんだ」
「……うん」
「死が二人を分けるまでって、じゃあ死んだあと残った方はどうするの?」
「……あ」
「僕は嫌だよ、ひーちゃんと別れるの」
「わ、私も!」
僕の言葉に手まで上げていきおいよくひーちゃんも同意する。
「うーん、じゃあどうしようか?」
「難しいね」
そうしてしばし考えていたら、ひーちゃんの方がなんか思い付いたのか思い切り手を上げる。
「はいはい!」
「なに、ひーちゃん?」
「あのね、だったら死ぬ時も二人一緒だったらいいんだよ。そうすればどっちも残されることないよ」
ひーちゃんはさも名案を思いついたみたいな感じで言う。
「でもそれって難しくない?二人一緒って」
「そこはね、お互いに頑張ればいいんだよ!」
「うーん……そうだね、二人で頑張ろう!」
「頑張ろう!」
そうして僕たちは新しい誓いの口上を述べる。
「いい時も悪い時も、貧しい時もそうじゃない時も、病気の時も時も健康な時も、ともに死ぬその時まで一緒に過ごし、愛を誓い、私だけを想うことを神聖なる婚姻の約束のもとに誓いますか?」
「誓います」
「いい時も悪い時も、貧しい時もそうじゃない時も、病気の時も時も健康な時も、ともに死ぬその時まで一緒に過ごし、愛を誓い、僕だけを想うことを神聖なる婚姻の約束のもとに誓いますか?」
「誓います」
こうして僕とひーちゃんは幼き日、ともに死ぬその時まで一緒にいることを誓ったのだった。
そんな誓いをした片割れ、ひーちゃんの命が今まさに尽きようとしていた。
理由はなんということはない。交通事故だ。
詳しい当時の状況は今のところわからない。僕も少し前にひーちゃんの父親から日向が事故にあった知らせを受けただけだ。10年以上の付き合いで僕とひーちゃんの仲を知っているとはいえ、家族ではない自分にまで知らせをくれたことを僕は心の中で感謝する。
そんなひーちゃんの現状だが、今は集中治療室で手術の最中だ。状況は一刻の余談も許さないらしい。
僕は神様に祈った。ひーちゃんが生きていられますようにと。
多分僕の人生でこの時以上に神様に祈ったことはないだろう。
時間が過ぎていく。1時間、2時間、3時間と。
しかし一向に手術中であることを意味する、集中治療室のランプは消えない。
時間が経過するにつれて、不安が募る。
だからこそ『大丈夫、大丈夫』と自分に言い聞かせる。そしてそのたびに僕は神様に祈る。
そうして何度目かの神様への祈りの後。
「すいません。少しトイレに行ってきます」
そう言って僕は少しの間席を外した。
ひーちゃんの家族は黙って僕を見送る。
そうしてトイレに向かって歩いていたら、僕は奇妙な人とすれ違った。
黒い。
特徴を上げるとしたらまさにその一言に尽きる。
全身を真っ黒なローブに包んだその人物はなんだかに死神のようにも見える。
僕はその不吉なイメージから逃げるように足早にその黒いローブから離れた。
トイレから出てくるとそこには先ほどの死神を思わせる黒いローブの人物がいた。
僕は少し怪訝に思いながらもその横を通り過ぎる。
「彼女、もう一刻もしないうちに死にますよ」
しかし僕の足はその黒いローブの人物から10歩も離れないうちに止められる。
「どう、いうこと?」
僕はかろうじてその言葉だけを絞り出す。
「言葉通りですよ。あなたの幼なじみ。確かひーちゃんでしたっけ?彼女、もう一刻もしないうちに死にますよ」
黒いローブの人物は実に何でもない事のように僕に告げる。
「お前、言っていい冗談と悪い冗談が―」
「いえ、冗談とではなくただの事実ですから」
僕は黒いローブの人物の言葉に思わず激昂しそうになる。しかし僕が発した言葉に、黒いローブの人物は淡々と、実に何でもない事を語るように言葉をかぶせてくる。
「……なら、そんなことがわかるお前はなんだ!死神か何かかっ!」
僕は感情のままに言葉を口にする。
「いえいえ、死神なんてそんなたいそうなものじゃありませんよ。まああなたが思っているように少し特殊な存在であることは認めますが。そうですね……あえて言うなら質屋でしょうか?」
僕の言葉に黒いローブの人物はそう答えた。
「それで、その質屋が一体何の用だ」
僕はこのあやしい質屋をにらみつけながら言う。しかし当の質屋は僕の視線などどこ吹く風とばかりに、全く意に介さない。
「ええ、実は今のあなたに大変耳寄りな商品がありましてね」
質屋は薄気味悪い笑みを浮かべながら言う。
「そういうことなら他をあたってくれ」
僕は質屋の元から再び離れようとする。
しかし質屋は僕の行動など全く気にすることなく言葉を続ける。
「その商品というのがでしてね、あなたの幼なじみの命の時間ですよ」
「……どういうことだ?」
そしてまたしても僕の足は質屋の言葉に止められる。
「もちろん言葉通りの意味ですよ。あなたの幼なじみの寿命、延長したくありませんか?」
これは悪魔のささやきだ。
「その話は本当か?」
本来耳を貸していいものじゃない。
「ええ、もちろん」
少なくとも僕が祈った神様などでは決してない。
「ただ、こちらも慈善事業ではもちろんないので相応の対価は必要となります」
だが僕に、
「対価?」
刻一刻とひーちゃんの命が消えていこうとしている僕に、
「そう、対価です。まあそうたいしたものじゃありません。命の対価なのですから当然」
聞かないという選択肢は
「あなたの命ですよ」
なかった。
「その話、もう少し詳しく」
僕はできる限り興奮を抑えてそう聞く。
「別に難しい話じゃないですよ。あなたの持っている寿命およそ62年。そのうちのいくつかをもらう代わりにあなたの幼なじみの寿命を差し上げます。要約するとこれはそういう取引です」
僕の問いに質屋は淡々と答える。
「ただ、もちろん1対1での取引というわけにはいきません。それではこちらに全く利益がありませんので。なのであなたにはそれなりに多くの寿命を支払っていただきます」
「具体的には?」
「そうですね……人間でいうところの1か月の寿命の支払いで、あなたの幼なじみの寿命を1日伸ばしましょう」
「その比率は正当なものなのか?」
「もちろんですとも。どんなものでも少しの違いで価値というのは変化していきます。人間でもそうでしょ?同じようなものでも数量限定だとプレミアとかで付加価値がついたり。それと同じことです。寿命がほぼ0であるあなたの幼なじみと60年以上あるあなた。物の価値が違って当然です」
「……」
僕は考える。
僕が30日わたす。そうするとひーちゃんの1日が返ってくる。正直なんだそれはと言いたくなる。そんな取引に応じるやつはきっと正気じゃないなと客観的に思う。
だから僕はこう答えた。
「僕の60年でひーちゃんの2年を買う」
どうやら僕は正気じゃないらしい。
「そうですか。一応聞きますが本当にそれでいいんですね?」
質屋はやはり淡々として口調でしゃべる。
「ああ、問題ない。物の価値は人によって違う。まさにその通りだ。ひーちゃんのいない無為な60年とひーちゃんと一緒の2年。そんなもの比べるまでもないね」
「……わかりました」
その言葉とともに、質屋は僕の肩に手を触れる。その瞬間、僕の中の何かが確かに抜けていくのを感じた。
「あなたの寿命を60年分いただきました。あとはこちらで幼なじみの寿命が2年延びるようにしておきます」
「ありがとう」
「別にお礼を言われるようなことは。それよりも早く戻ったらどうですか?もうじき幼なじみさんの手術、終わりますよ」
「ホントか!」
僕は集中治療室へ続く廊下の方を見る。
「それなら僕は集中治療室の方に戻らせてもら―」
しかし次に振り返った時には、あの不吉な印象を抱かせる黒いローブの質屋の姿はどこにもなかった。さながら当面の不幸は去ったかのように。
僕は首をかしげつつも集中治療室への廊下を急いだ。
そうして戻ってきた集中治療室前。僕が到着したちょうどそのとき、手術中であることを示すランプが消えたところであった。
それからほどなくして集中治療室の扉から医者の先生が出てきた。
だが医者の言葉を聞く必要はない。
僕はそんなことよりひーちゃんに最初になんて声をかけようか考えるのだった。