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産 声

作者: 卯木 志乃

多少血生臭い表現があります。

苦手な方はご注意ください。


表現自体はソフトな方だと思います。

逆にハードな表現がお好みの方のご期待には副えないかと思われます。




 かかさま、ねぇ、かかさま……



 満面の笑みで伸ばされる、幼い手。

 すべすべと柔らかく、小さく小さく温かな。


 娘は両手を合わせ握り込んだものを、請われるままに差し出した私の手に、そろりそろりと置いていく。

 見れば、小さな茶色の木の実がひとつ、ふたつ、みっつ。

 置いた木の実を差して私に問うた。

「これ、なぁに?」

 短い指、舌足らずの甘い声。その背丈に合わせて屈んだ私を見る大きくつぶらな瞳は、与えられる答えを心躍らせ待っていた。

 差された実は、卵にも似た楕円形の濃い茶色。細い方の先は次第に窄まり突起を表し、太い底は本体よりも薄い色の椀を履いている。


 どんぐりっていうのよ。

 

 笑みを返して答えると、娘はぱちぱち瞬いて、私の言葉を繰り返す。

 

「どんぐり」


 そう、どんぐり。


 頷く私を見つめ、掌の木の実を眺め、どんぐり、と呟く。もう一度顔を上げた。喜びがあった。とっておきの発見をした、娘の目はそう語っていた。

 あのね、あのね。勢い込んで言う。小さな指が、私の掌に納まった木の実を端から順に示していった。数は三つ。大きさはそれぞれ違っていた。

 一番大きなひとつ、二番目に大きく幾分細いひとつ、そして一番小さな小さなひとつ。


「ととさま、かかさま、わたし」


 誇らしげに嬉しげに。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。


「ね?」


 見上げる瞳は瞬く光。


 ――ええ、そうね。

 私たちのようね。


 答えた私に、娘は笑う。実際は、夫は華奢かつ繊細な人で、父と示したどんぐりの実ほどに大きい人ではないけれど、娘にはそう映るのだろう。彼女が見せる笑顔は、一点の曇りも疑いもなくはちきれんばかり。私もそれが嬉しい。顔は自然にほころび、愛しさがこみあげる。


「かかさま、だっこ」


 伸ばされた手を拒むはずもない。私は娘の両脇から手を差し入れ抱き上げた。今年で四つを数える娘の体は、ずしりと腕にのしかかる。その重さが心地よかった。


「かかさま」

 かけられる声に。


 なぁに?

 笑みを返す。


「かかさま」


 なぁに?


「すき」


 腕を私の首に回し顔を埋める。娘が恥ずかしそうに、けれど満足げな笑みを浮かべているのは見ずとも分かった。

 抱き上げる腕にかかる重さ、首筋に触れる頬の柔らかさ、耳元で響く甘い声。


 ――全てが、愛しい。


 私もあなたが大好きよ。


「ほんとう?」


 ええ、本当に。


 囁くように返す。娘の耳は私の口元近く、大きな声を出す必要はない。必然とも言える声の大きさが、逆に秘密めいたものとなり、特別な響きを持って小さな耳に届く。


「かかさま」


 後の言葉は続かず、けれど何よりも強い意味を持つ。娘の私を呼ぶ声が、私を母たらしめる。


「かかさま」


 温かく、まどろみの様に甘く私を酔わせる、私の宝。



 私の、娘。






 女は、突然の悲鳴に目が覚めた。胸を打つ鼓動と息苦しさに、それが自分の口から出た物と知る。

 淡い月の光が差し込むだけの闇の中、人の気配を感じ、目の焦点を真上で合わせると、荒く息をつく女を見下ろす影があった。


「大丈夫かい?」


 ――あ。


 からからに渇いた喉の奥から出た声は意味を紡がなかった。唾を飲むも、乾ききった喉では粘つき絡み付いて用を成さない。湿潤を求めてあえぐ身体が抱き起こされ、唇にひやりと陶器があてられた。冷たい水を嚥下する。潤いが喉に戻った。

 声を出す。音は繋がれ、意味を成した。


 あなた。


「ひどくうなされていたよ。汗もこんなに……」


 呼びかけに頷くと、男は女の額に張り付いた髪をそっと剥がす。

 心配そうな男の顔を、しかし女は見なかった。

 目覚めた女がまず見やるのは、決まって自分の右隣。そこは男の寝具がある位置だが、本来ならばいま少しの間隔が開いている筈なのだ。


 だが、そこにあるべき小さな寝具も、収まっている筈の小さな身体も今はない。


 何を思わずとも涙が溢れた。

 優しい指がそれをすくう。今度こそ見た男の瞳は、女と同じ色をしていた。


 あなた。


「無事に帰ってくるよ」


 あなた。


「大丈夫だよ。あの子はきっと、大丈夫だ」


 縋る女に応える男の目の下には、濃い隈があった。頬は痩け、窪んだ目にも深い疲労が見て取れる。壊れた蓄音機のように、あなた、と繰り返し呼ぶ以外言葉の出ない女を労わる手も微かに震えていた。

 今更のように思いいたる。女を蝕む禍事は、男にも等しく痛みを与えているのだ。


 あなた。


「大丈夫……」

 呼びかけに頷き、囁くように繰り返される言葉は、女に言い含めると同時に男自身の祈りでもあるのだろう。男の目に潜む悲しみは、疲労を超えて深く濃い。それでも男は女を気遣い慰める。泣くな、とは言わない。元気を出せ、とも言わない。優しく向けられた慈しみに、女の目から新たなる涙が落ちた。あなた。頬伝う雫を男が撫でる。しがみ付く手を包み込む。あなた。あなた。あなた。


「大丈夫だよ……」


 繰り返し繰り返し。

 居なくなった我が子の無事を願い、切々と。祈る。



 娘が姿を消してから、十の夜を数えていた。忘れもしないあの日……あの夕色鮮やかな日だ。

 家族には、いつものように緩やかな時間が流れていた。男は自室で執筆業にいそしみ、女は夕餉を作る前のひとときを庭で娘と過ごした。幼い命は世の中の全てに敏感で、女が当たり前の事として見逃す些細な変化も鮮やかに捉え、大人が失っていた発見の喜びを思い出させてくれる。

 あの時も、母子は隣家から枝を覗かせるシイの実を拾い、女は木の実の名前を娘に教えた。手のひらに乗せた三つのどんぐりを、父と母、そして自分のようだと顔を輝かせ夢中になった娘を見て、女は娘の為に木の実を入れる物を探しに家の中へ入った。小さな籠を見つけて再び外に出て、


 そうして女は誰も居ない庭を見た。


 訝しく思い名を呼び、不審に思い名を呼び、恐れを感じて名を叫んだ。女の声を聞きつけ男が庭に飛び出して、半狂乱の女を見つけ、かろうじて事情を聞き出した。それからが悪夢の日々となり、二人寝る間を惜しんで失われた娘を探すも見つからず。

 もちろん警察もすぐに動いてはくれたのだが、姿を消した日から今の時まで、何故とも誰がとも何一つ分からない。幾日を過ぎても捜査に進展はなく、女も男も、思い知らされる確かな現実は、腕の中に我が子がいない、ただそれだけだった。


 だから女は探し続けた。周りがなんと宥めても心は休まるはずもない。夫婦ともに、足にできた肉刺は潰れ、鼻緒に赤い染みが付いた。体力の限界まで探し続け、夜は疲労に倒れこむ日々が続いた。


 疲弊した眠りの中でも女は夢を見た。

 娘が帰らぬ悪夢の時はうなされて目が覚める。辛い目覚めではあったが、もう一つの夢よりは遥かにましだった。戻った娘を胸に抱きしめて、満たされた想いで目覚める夢よりは。


 ……けれど、どんな思いで目覚めたとしても、起きて求める先に娘はいない。冷え切った夜具から、かすかでも娘の体温を見つけだせはしないかと、何度も敷布を撫でさする女を見かねた男は娘の床の用意を止めた。

 悪夢の後に娘の姿を探し、見いだせずに涙する。その背を撫でてくれるのは男の手だった。涙を拭ってくれるのも、肩を抱いて頬に触れて、共に悲しんでくれるのも、天涯孤独な身の上の女にとって、この世で男だけだった。


 ――ごめんなさい、あなた。


「どうして謝るの」


 辛いのは同じなのに、私ばかり泣いてばかりいて。


「馬鹿なことを」


 でも。


 女の震える手を、男の手が包み込む。その手も指も痩せていた。

 女の身体を抱きしめる腕も、決して逞しいものではない。男は元々病気がちで、幼少から静穏な日々を送る義務があったと聞いている。外で遊ぶことも、友人を作ることもない変化を許されない日常で、書物だけが男の世界を広げたと。そのせいか、生来の質かは分からないが、成人し身体が丈夫になっても男の身体は細い。

 ――心も、とても。

 出会ったときからそうだった。だから女は心惹かれた。身を置いた環境から、当然のように男は文筆家となったが、男の文章は性質そのものに繊細で、壊れやすいその世界を守りたいと女は思った。包んで、支えて、側にあれればと。


 けれど今、女は男の腕に縋り泣くことしかできない。

 守られてばかり、慰められてばかりで男に返すもののない自分が情けない。けれど娘のいない今が耐えられない。

 男も女と同じ苦しみを味わっているだけに、日夜男に縋るばかりの自分が恥ずかしかった。


 ごめんなさい。ごめんなさい、あなた。


 涙が溢れる。娘に対してのものなのか男に対してのものなのか、既に判別さえできずただ。


「馬鹿なことを。君の悲しみは、僕には負担じゃないんだよ」


 あなた。


「僕は君の側にいれて良かったと思ってる。外の仕事だったらこうはいかなかっただろうし、あの子を探す時間もろくに取れなかったはずだ。僕は、君の側にいて、君の悲しみを受け止められることを誇りに思う」


 包んだ女の手をそっと撫でる。男の手は夜気に冷えてはいたけれど、この上なく温かかった。


 あなた。


「何でも話してくれていい。思ったこと、感じたことを何でも。泣いていいんだ。吐き出していいんだよ。僕は君の夫なんだから」


 優しさにまた涙がこぼれ、男の顔がぼやけて見えた。娘から目を離してしまった後悔と、無事の切望と、恐ろしい想像に挫けそうな思いを許されるまま止め処なく口にする。

 苦しいの、と喘ぐ女に、男は頷き背を撫でる。

 大丈夫だよ、囁く男の声は呪文のように女の心に沁み行く。


「大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ。あの子はきっと帰ってくる。君と、僕のところに」


 ええ、ええ、あなた。


「そうしたら抱きしめてお帰りって言ってあげよう。心配したよって。痛いって文句言われても思い切り抱きしめよう」


 ええ、あなた。そうね、そうよね。帰ってくるわよね、きっと。


「そうとも。必ず、帰ってくるよ」


 優しく優しく、男は微笑む。女は男の胸に頬を寄せ、背に腕を回して強く、強く抱きしめた。

 同じ力と心を込めて返される抱擁に、大きな安堵と、いまだ敷かれないままの小さな寝具に、後ろめたさを感じながら。





 女が、家の周囲に違和感を感じたのは更に三日が過ぎた頃だった。

 周囲にというよりは、空気に、だろうか。相変わらず娘を探す日々で、この日も先に出た男を追うように家を出ようとした時だった。疲労も溜まりに溜まっていたのだが、かえって感覚が鋭敏になったのかもしれない。実際、それは微かなものだったのだけど、女の嗅覚は確かな変化としてそれを捕らえていた。

 辺りを見回し、鼻をきかせてその出所が家の裏にあると知る。それは本当に、本当に微かな臭いだったのだけど、女の中に無視できないものを投げかけた。内からの声に応えるように、女は家の裏手へと足を向ける。無視できないもの、内からの声。それらは足を一歩運ぶごとに重く深くなって行き、微かだった漂うものも、家の裏へ向かうごとに濃く密になっていった。


 家の裏手はちょっとした林になっていた。裏庭としては正しいのか、昼間でも光差さない灰色の領域は、ゆえに手入れすることも無いまま放置されていた。

 男の両親が存命のころはそれでも幾ばくか手入れされていたらしいが――「僕は、あまり気の回るほうではなくて」と、初めて女を家に招いた時に恥ずかしそうに笑んだ顔を覚えている。どうせ足を運ぶことはないのだから気にしなくていいよと言った男にならい、女自身も手入れどころかその通り、陰鬱な木立の裏庭に足を踏み入れる事はなかった。娘がいなくなった際に、もしや迷い込んではしないかと探したあの時が、この家に入って以来唯一の訪れだったと言ってもいい。

 そこでも娘は見つからなかった。今は使われていない古井戸の、子供が入り込むには不可能な重石をどけてまで探した男が安堵の吐息と共に首を横に振った時は、見つからなかった事に感謝した。

 鬱々とした暗い茂みは不吉な連想を抱かせる。一刻も早く娘を見出したい。けれどそんな姿では見つけたくない。だから無意識に避けていたその場所に、女は今立っている。なぜ抗えないのだろう、なぜ気のせいだと引き返せないのだろう。なぜこんなにも、鼓動は激しく波打つのだろう。

 女の嗅覚は、臭いの出所を古井戸だと突き止めていた。女の目は、被せられた古い蓋の上に重石がない事を捕らえていた。男が井戸を覗き込んで探したあの日、重石は元に戻されていたのに。

 井戸へ足を向ける。土も茂った土草も踏んでいる感覚はなかった。いやに浮ついた、現実味のない感覚。一歩一歩近づくほどに井戸から漂うそれは強く濃くなっていく。それが何を意味しているのか。それ以上は考えないようにして。


 乾き古びた煉瓦の丸い井戸。水は枯れたと聞いている通り、こびり付いた苔はかつての青々しさを失い褐色の残滓が残るのみ。長い間井戸に被せられたままの厚板も、重石に耐える力はまだ失われていないようだが、所々が腐食に侵されているのは隠しようがなかった。

 板の端に触れてその滑らかさに驚く。長い間放置されていたにしては、手に与えられる感触は柔らかい。同じ場所だけ、そう、ちょうどこんな風に板をどかす為に触れる位置だけが、まるで何度も触れて角が均されたかのように。

 女の手には少し重かったが、動かすだけなら不自由はなかった。蓋板をずらして地面に下ろす。むわりと溢れ出した臭気に咳き込んだ。漏れ出ていたものとは比べ物にならない、圧倒的なこの臭い。黴の腐ったような臭気と、それとは異なる生温かいもの。

 こみ上げる嘔吐感に耐えることができたのは、覗き込んだ井戸の壁面に普通なら見るはずのないものを見たからだ。

井戸の底、深く黒い穴の奥に、ある筈のない光があった。黄味がかった橙色の光が、井戸の底と思われる側面から漏れ出ている。

 どれほどの深さか確かめようとして身を乗り出した目の隅に、もう一つ信じられないものを見た。井戸の内壁、古びた煉瓦には鉄製の梯子がかけてある。赤茶の錆が覆う鉄の棒は、底に底に続き、暗い穴の奥に吸い込まれるように消えていた。


 何もないと、男は言わなかっただろうか。火を入れたランプを井戸に垂らして、身体ごと中を覗き込んで、たっぷりと時間をかけて見た後に、「何も見えなかったよ」と安心したように微笑みはしなかっただろうか。


 井戸の奥底に見える光と錆びた梯子、そして立ち上る温かな臭気。導かれるまま女の身体は自然に動き、添えつけられた梯子を下へ下へと降りていく。下駄を脱いだ足袋ごしに、鉄の冷たさと錆びの荒さが感じられた。底は遠く、道程は暗く、けれど仄かな明かりが下から届く。

 女はふいに、下りて行く底ではなく手が掴む鉄の棒を見た。こびり付いた赤茶の錆びが見える。それよりも濃い、赤黒い色も見えた。乾ききったそれは殆ど真っ黒で、ちょうど女が梯子の棒を握るように手の形に跡を残している。女よりも大きな手の形に。

 鼓動は早かった。けれど不思議と冷静だった。いや、何も考えられなかったという方が正しいかもしれない。女は臭気と光に導かれるまま機械的に足を下ろし、やがて底へとたどり着く。冷たく硬い石の感触がした。空気も冷たく、知らず身体が震える。

 光は、井戸の底にぽっかりと空いた横穴から漏れている。ひと一人ゆうに通れる程の穴は、見たところ舗装されておらず、方向を平行に変えて深く続いているようだった。鼻を刺激して止まない臭気もそこから漂っている。その波に、奥にも空気が流れているのだと感情の伴わない思考で理解することができた。

 横穴に身を入れる。吸い込む空気は淀んで見えた。相変わらずの黴臭さと、ますます濃くなってゆくあの臭気に肺が汚染されてゆく。女はただ前方を見つめ、土壁の所々に擦り付けられたかのような黒い染みも、目に入れないように歩いていった。

 井戸を下りるよりは短い距離だったように思うが、はっきりとは分からない。そこに到達するころには、歩みを進めるほどに色濃くなる臭いに女の思考力は完全に麻痺していた。

 光は、そこに掲げてあるランプの灯火だった。頼りない明かりの中で把握できたのは、ここが十畳ほどの広さを持つ、自然の岩盤でできた空間だという事。確認できたのは、埃臭く黴臭く、濃密なる臭気と、そして黒く赤く塗りつぶされた壁面と。

 臭気は、薄暗い部屋の一角から発生していた。赤黒い敷布も行き着く先はそこだった。

 ランプの明かりが届く領域の際の外、闇溜まりの深い場所に女の目は止まる。足を一歩踏み出した。二歩を進めた足袋の指先に軽く硬いものが当たる。下を見た。小さな茶色の木の実が落ちていた。かがんで拾う。拾った目の先にもう一つ落ちていた。手を伸ばして拾った。その先にも一つ。屈んだまま歩み寄って拾った。手のひらに集まった木の実は全部で三つ。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 一番大きな一つ、それよりも小さく細い一つ、小さな小さな一つ。


 喉元で大きく鼓動が鳴った。唾を飲む。視線を先へその先へ。地面は黒かった。だから闇溜まりとなっていた。明かりの届く範囲では、黒は赤みを帯びた黒。幾重にも染み込んだ色は赤。赤が重なり黒となる。

 鼓動が鳴った。着物の切れ端が見えた。柄は白地に葵花。黒い染みに侵されていた。

 鼓動が鳴った。小さな手が見えた。幼子の短い指は、皮膚が溶け骨は突き出しざわざわと、ざわざわと白い蛆の群れが肉を寝床に蠢いていた。

 鼓動が凪いだ。息が詰まった。声を出そうと口を開けたが喘ぐことさえできなかった。足を前に出した。信じられないほど重かった。早く、早く。そこに行かなければならないのに。目の端に、短刀が見えた。刃の部分は赤黒かった。柄に見覚えがあった。同じものが男の書斎になかっただろうか。


 辿り着いた。小さな身体は完全ではなかった。あちこちに散らばった部分はそれぞれが脆く崩れ落ち、どれもが白い群れに覆われている。そしてどれもが黒く、赤かった。

 球形状の黒い塊が見える。手が震えた。持ち上げると、べたりとした髪が落ちた。艶やかだった、肩で切りそろえた黒い髪。健康的だった肌も血が失せ青白く紫がかっている。くぼんだ眼窩と小さな鼻と、めくれた唇に面影があった。頬を、撫でる。ずるりと剥けた。息ができない。目の前がぼやけた。手の震えが止まらない。これは、何。これは何。これは何。


「――ああ、間に合ったんだね。良かった」


 背後で声が聞こえた。耳慣れた声。女にとっての大切な人の声。

 鉛のような身体を懸命に振り向かせる。声の主は優しく微笑んでいた。


 あなた。


「ここは温度が低いから進行は遅かったけれど、腐敗しきる前に見つけられて良かったよ。せっかく見つけても、判別できなかったら意味がないからね」


 あなた。


 まばたきもできない。目を見開いて見上げる女に、男は少し困ったように笑って見せた。女が抱きかかえているものを指差して、


「もちろん、分かったんだよね?自分の子だもの」


 当然だ、と。今度は心得たように頷く。

 見つめる瞳はいつものように優しくて、出会ったころのままに繊細で。

 さあ、と、男は女に笑む。優しい優しい笑みで、穏やかな口調で、出会ったころのままに壊れそうな、繊細な目で。


「今の心境を教えてくれないか。我が子を失った母親の心を。君はこれまで何でも僕に話してくれた。この子が消えたときも、探し続けた日々の中でも、君は僕に全てを吐露してくれた。悲しみも痛みも、怒りも後悔も全て」


 何を、言っているの。あなた。何を。


 女の、腕の中の小さな塊が、存在を主張する。この子はこんなに小さくなかった。手も足も身体もない、こんな鞠のような存在ではなかった。だんだんと重くなっていく身体を抱き上げて成長を実感していた。それはこんなに頼りない重さではなかった。


「君の心を聞いた後は筆が進むんだよ。やはり実体験に勝るものはないからね。子供を失った母の焦燥は、自分でもよく書けていると思うんだ」


 あなた。


「子供を殺した父親の心情も完璧だ。あの子は可愛い子供だった。ここで目を覚ましたときは怖がっていたけれど、僕の顔を見て笑ったよ。ととさま、って。ほっとした顔が愛らしかったな」


 あなた。


「あとは子供の死体を見つけた母親の心境が知りたい。殺したのが子供の父親で、自分の夫だと知った時の心境が――ここはね」


 男が続ける。暗い天井を見上げ、大事なことを発表するかのように目を輝かせているその表情は、娘ととてもそっくりで。


「僕達の寝室のちょうど真下にあたるんだ。僕達家族はずっと一緒に居たんだよ」


 素敵だろう?

 誇らしげに嬉しげに、男は笑った。



 あなた。

 あなた。

 あなた。



 小さな塊を抱いた女の手には木の実が握られていた。娘が拾った三つの木の実。ととさまと、かかさまと、わたし。誇らしげに嬉しげに。娘が、笑って。女も、笑って。


 ええ、そうね。私達のようね――と。女は。


 三人で。仲睦まじく。常に、共に。



 あなた。



 鼓動が再び鳴りはじめる。大きく激しくけれど耳には届かず身体だけが熱く熱く。

 ずっと一緒に、ここに居た娘。寝室の真下のこの場所で、身体をばらばらにされて打ち捨てられて虫を飼い腐るに任せて。三つの木の実を見つめてずっとこの場所に。

 女は、地上の寝屋で娘の寝具がなかった夜に、女は男と、わたし、は。


 眼の奥が熱い。じわりと零れた液体で視界が赤く霞んだ。


「なるほど、嘆く母親は血の涙を流すのか」


 好奇心の塊のような男の声が耳に届く。きりきりと耳触りな音がする。心臓が大きく波打って身体の隅々を流れる網に熱を感じる。熱い。熱い。熱い。あなた。熱い。熱い。あなた。

 骨が軋んだ。身体の中で肉が弾けた。熱い。口の中に錆の味が広がった。甘い。熱い。甘い。あなた。

 体中の毛穴が開いた。膝が震え、よろめいた拍子に足が大きな塊に触れた。思わず見たそれは、小さな胴体。血色に染まり変色した着物の裾は大きくめくりあがり、足の付け根も露わで。影と血と腐敗の奥に、裂傷――が。熱い。熱い。熱い。



 ああ。ああ。ああ。ああ。



 声が出た。衝動のままに声を出した。轟々と響いた。

 腕の中の小さな塊が、更に小さくなった。身体が膨れ上がる。熱い。激流が。力が。目の前が赤い。耳障りな声がする。煩い。煩い。見下ろした先に煩く喚く人間がいた。注がれる視線が不快だった。煩い。手を振った。軽かった。良い音がした。忌々しい声を出していた部分はもげて、残った部分から勢いよく赤い汁が吹き出している。良い色だ良い色だ良い色だ。


 ――ふと気づく。

 ――そうだ、探さなければ。



 何を。

 大事なものを。温かくなるものを。良い音で呼ぶものを。甘い匂いのするものを。

 探さなければ。そうだ、探さなければ。大切なもの。あたたかいもの。抱きしめて離さない。



 わたしの、むすめを。







 その後、その家の裏手で、無残に叩き潰された男の死体と、首のない小さな子供の腐乱死体が見つかった。女の姿はそこにはなく、かわりに井戸の底にあるはずの無いどんぐりが三つ落ちていたという。



 ――生まれた鬼は、子を探す。

 孕み女の胎に児を見つけ、女の胎から児を奪う。

 しかし捜し求める子は得られず。ただ、胎から児を奪われた女の死体だけが増えてゆく。



 我が子を探して彷徨う鬼は、その豪腕に、小さなしゃれこうべを持つと云う。

 それが何であるかは知らねども、決して離すことはなく、ただ。




 子を呼んで、子を求めて哭くと云う。





 














少しでも面白いと思っていただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 非常に面白い話でした。狂ってしまった夫と子を探す妻。そしてただただ純粋だった子。どこか胸に突き刺さるような話でした。これからも頑張って下さい。
[一言] あまり感情移入しない人間なんですが、気づいてみればすっかり物語の世界にいました。 「僕達家族はずっと一緒に居たんだよ」のところでは涙ぐんでいました。 悔し涙って言うんでしょうか。自分のことじ…
[一言] 読み始めから、スッっと物語に引っ張りこまれました。 描写がリアルでドキドキしました。夫の変貌ぶりも素晴らしかったです。 これからも、執筆頑張ってください。
感想一覧
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