4・1818年 パリ②
魔族が魔力をつかうように、天使は霊力をつかう。霊力を発揮する際に必要なエネルギーは『魂』と呼ばれる。いわゆる人間の魂なのだけれど、天界に上がってくる魂は死人のものなので、欲望や執着の抜けた清浄なものだ。
でも天使は清らかな『魂』しかつかえなくて悪魔は欲望まみれの『魄』しかつかえないというわけではない。『魂』は天界、『魄』は魔界と行き先が違うだけで、有効成分に然したる違いはない。
だからこの堕天使みたいに、魔界に進出して『魄』を漁る強欲な輩がいるわけで。
「あ~うれし~。あんたが協力してくれるなら、『泉』を横取りされないですむわ~」
「『扉』を開けるためですからね! 約束を守らないつもりなら……」
ジェニーはぼきっと指を鳴らした。
「わ、わかってるわよ。かわいい顔してこわいわ、ジェニー」
ふたりはモンパルナスから、もっとパリの中心にやってきた。
お屋敷街ではない庶民的な地域だけれど、安下宿が歯抜けのように並ぶさびれたモンパルナスにくらべたら、立派な石造りの建物がぎっしり並んでいてだいぶ「パリ」っぽい。道行く人も庶民とそこそこのお金持ちが混ざっている印象だ。
ジェニーは汚れた服を脱ぎ、堕天使に借りたドレスに着替えている。はりのある木綿地のドレスで、ひかえめな襟ぐりのカットや前身ごろの小さなフリルが清純そうで愛らしい。質素な庶民服だけれど、スカートはペチコートでふくらませているし、木綿のドレスなんて屋根裏部屋住まいのお針子さんみたいで、ときめかずにはいられないジェニーである。
ジェニーは堕天使に連れられて、彼女の『泉』の源泉である、とある情熱的な男に会いに行くところだった。
つまり、堕天使の財産を生み出してくれる人間を見に行くところ。
「いいかげんあなたの名前教えてくださいよ」
ジェニーは堕天使にたずねた。
「ディアルゴンだって言ったじゃない」
「その怪獣みたいな魔界名じゃなくて。どういうセンスしてるんだか、まったく……」
「えー。強そうでいいじゃなーい」
「実際弱いじゃないですか」
「失礼ね。こう見えてもあたし、天界じゃ期待の新人だったんだから。あたしの才能は戦闘じゃないもん。空間技術よ。あたしほど遠くまで『空間越え』できる天使はいない!」
「じゃあ日本まで跳んでください」
「……そのへらず口は、天界言語じゃなくてフランス語にしてちょうだい。テオドールはあたしがこの街の人間だと思ってるんだから」
そうこう言っているうちに目的地に着いた。赤いゼラニウムの映える白壁のアパルトマン。鉄製の細い手摺が素敵な外階段を、二階まであがる。
「ここがテオドールのアトリエなの。彼は画家なのよ。とびっきり情熱的な芸術家。あたしの人界での職業は絵のモデル。あんたはそうね、あたしのモデル仲間ってことで」
堕天使はアトリエのドアをたたくと、「フェリシテよーっ!」と大声で名乗った。
「フェリシテ?」
「天界名がフェリだったからね。人界ではフェリシテ」
(天界名がフェリ? えっ……!)
ジェニーは堕天使の、まだ少女の面影が残る横顔をまじまじと見つめた。
天使らしい、古典美に満ちた額から鼻にかけてのなめらかな線。優美な細い顎に、長い首。柔らかな亜麻色の髪と、賢そうな水色の瞳は、フェリ様と一緒――。
「あ、あのっ」
ジェニーが口を開きかけたとき、アトリエの中から声がした。「入っていいぜ!」と答える野太い男の声と一緒に「だっ、だめです先輩!」という少年の声も聞こえたけれど、堕天使フェリはためらうことなくドアを開けた。
「やっ」と女の子みたいな声がして、ジェニーは声の方向に視線を向けた。春の光が舞い飛ぶ埃をきらきら輝かせるアトリエは、鼻をつく絵の具のにおいに満ちている。イーゼルやキャンバスがごたごた置かれた片隅に毛布が敷いてあり、野うさぎみたいなかわいい黒い目をした少年が、裸の身体にシーツを引き寄せ座りこんでいた。
……裸の身体に。
(えーっと……)
目をそらすべきなのだろう。しかしジェニーはついつい彼をじっと見てしまった。アトリエの主らしき野性味のある青年は、少年のかたわらの椅子に腰を下ろしたまま、フェリに「よう(サ ヴァ)」と言った。
(ど、どうゆう状況なのかしらー? こ、これはまさか……)
えーっと、ボーイズがラブラブのアレかしら。「攻め」らしきほうは服着てるけど。
「ウジェーヌに服くらい着せてから呼びなさいよ。かわいそ」
堕天使フェリはいつものことと言った様子で、少年をちらりとだけ見た。
「なんだ、おまえだけかと思った。友達か?」
「モデル仲間のジェニー。まだ駆け出しなの」
「あんま人気でなさそうだなあ。顔も体もガキくせえ」
ジェニーはフェリが「テオドール」と呼んだ口の悪い画家をぎろっとにらんだ。
失礼しちゃう。日本じゃロリのほうが人気あるんだから! ……友樹くんは置いとくとして。
「まあねぇ~。あたしみたいなラファエロ型の美女には遠くおよばないでしょうねぇ」
「自分で言ってるぜ。でもな、フェリシテ。ラファエロの古典美をもてはやす風潮は、この俺がひっくり返す! 来年の官展にゃすげえの出すぜー。観衆の度肝抜くぜ!」
「すげえの? お馬さん三号?」
「お馬さんゆうな」
「お馬さん一号とお馬さん二号は、官展で評判とってたじゃないの」
「ありゃ『突撃する近衛猟騎兵士官』と『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』だ」
「『お馬さんに乗って突撃』と『お馬さんから降りて撤退』でしょ。あんた馬ばっかりじゃない。次はあたし描いてよー」
「言っただろ、次の画題はフリゲート艦メデュース号がモロッコ沖で座礁した事件だ。生き残りの船員が繰り広げる筏の上の地獄絵図だぜ! 生と死。希望と狂気。人間と自然の闘争、人間と運命の闘争。うおおお極限のドラマが俺を待ってるんだぜ!」
「……あんたがお馬さんと闘争にしか興味がないのはよーくわかったわ」
画家と堕天使の話が、次の画題となる海難事故のことになったので、この時代のことなどろくに学んでいないジェニーにはさっぱりわからなくなった。「突撃」して「負傷して撤退」なら次は「逆襲」でクライマックスなんじゃないの、みたいなことをぼんやり考えていたら、背後から「あのー……」と声があがった。
ふりかえると、さっきの兎さんっぽい少年がシャツとズボンを身につけ終えていた。
優しげで、なかなかかわいい顔をしている。
「き、君の顔、ジェリコー先輩はああ言ったけど、悪くないとおもうよ……。可憐な中にも激しさがあるっていうか……」
「えっ、ほんと?」
「う、うん。僕はそう思う」
「うれしー。ありがと」
すみっこでジェニーたちがぼそぼそ話をしている間に、次作の構想を語っていた画家は燃えてきたらしく、堕天使相手に熱弁をふるい出した。
「古典芸術の規範を打ち破らなければいかん! 理性と形式のもとに窒息しそうになっている、原初の本能を芸術に解き放たなければいかん! 恐怖、希望、熱情、そして闘争! 暴れ馬をねじ伏せるがごとき肉体の躍動! これだあ!」
「よっ、出ました天才!」
「俺は天才だあ! 堅苦しい古典派に俺の歩みは止められん! 天才の力強い歩みを止めようとする者は、天才の怒りと熱狂を強めるのみ! 天才、それは爆発せずにはおれない巨大な火山なのだあああ!」
(わ、わかりやすい……)
芸術は爆発なのね、やっぱり。
ジェニーは引き気味にあとずさった。
ふと隣にいる少年を見ると、彼は乙女のように胸の前で両手を組み、うるんだ瞳をキラキラさせて火山先輩を見つめていた。