11・1999年 東京⑤
「二十世紀になんか帰らないってもっとダダこねるかと思ったんだけど、案外素直ね。ジェニー」
迎えに来た上司フェリに連れられて魔界に戻った。
戻った場所は堕天使フェリと過ごしたあのなつかしい岩場ではなく、森の中だった。見上げると、ねじれた木の枝に服が引っ掛けられている。一見十九世紀風に見える、でもなにかが違う奇妙なドレス……。
見覚えがある。ジェニーが二十世紀の人界から十九世紀の魔界に落ちたとき着ていた、クラシカルロリータブランドのワンピースと同じものだ。
「さ、髪を巻くわよ」
フェリが手にしているのはヘアアイロンだった。ひさしぶりに目にする電化製品。
「なんで髪なんか巻く必要があるんですか? それにあの服……」
「だってあなた、友樹と出かけるところだったじゃないの」
「……このあと友樹くんに会えって言うんですか?」
「なにか不満? あなた楽しみにしてたでしょ」
フェリはジェニーの髪をひと房とり、手際良くアイロンで巻いた。電池式のアイロンはもう温まっている。
「不満って……不満じゃないですけど……。そんな気分じゃないわ」
まだウジェーヌの感触が残っているのに。
どんな顔して友樹に会えというのだろう?
「二十世紀末はあなたの職場なのよ。友樹と会うのは任務なの。だから気分じゃなくとも会いなさい。上司命令よ」
「……」
「私も一緒に会うから。あなた二十世紀ひさしぶりだものね。ミスしないように見ててあげるわ」
「用が済んだらべつのところへ行ってもいいですか……」
「べつのところ?」
「本屋さんです」
「なにしに?」
「美術史の本を買いに」
「……好きにしなさい。そうそう、これ。渡しておくわ」
フェリはスーツの内ポケットから、小さな宝石箱を取り出した。ジェニーの手をとり、中味をころんと手のひらに転がす。
暗緑色に点々と赤い斑が混ざった石。
ウジェーヌの炎とおなじ色の……。
「宝石としてはちょっと映えないけど、あなたにはこれが一番でしょ」
水道。それは十九世紀中盤のパリにはなかったもの。井戸や水栓に水を汲みに行くのも、水売りから水を買うのも、そりゃもうめんどうな仕事だった。
『扉』の封印を解いて戻った上野駅のトイレには、ジェニーが置き忘れたバッグが水道の鏡の前にちょこんと残されていた。
ジェニーは不思議なものでも見るように、自分のバッグを見つめた。
その途端、バッグの中から電子音楽が鳴り響いた。聴き覚えのあるメロディー。二十世紀で大好きだったアニメの主題歌……。
「電話よ」
「え、あ、はい」
あたふたと携帯電話を取り出す。ええと、電話に出るにはどうやるんだっけ……。
「も、もしもし」
〈おいこら。いつまで待たせる気だ〉
電話からなつかしい声がする。
ジェニーの頭を丸めたノートでひっぱたいては「この程度の問題がわからないのかこの低能!」とののしった、鬼軍曹の声だ。
「友樹くん……?」
〈三分以内に戻らないと先に行くぞ〉
「ちょ、ちょっと待……」
答えてるところをフェリにひょいと携帯を奪われた。
「もしもし友樹くん? お待たせしちゃってごめんなさいね。……ええ、そうよ、ギユウです。今偶然ジェニーに会ったの。もしお邪魔でなければ、私もご一緒していいかしら? 国立博物館の展示には私も興味があって」
ジェニーはぼんやりと上司の会話をきいていた。
デートなんかどうでもいいから、はやく本屋か図書館へ行きたかった。
歴史がウジェーヌの作品にどんな判定を下したか――。
一刻でもはやくその答えをしりたい。
上野駅公園口改札前で、友樹はあからさまにそわそわしていた。
ジェニーと一緒にいるマダムに気付き、ぱっと顔を輝かせる。……が、すぐに怪訝な表情になる。訝しそうな視線はジェニーに注がれていた。
ジェニーたちが近寄ると、開口一番友樹は言った。
「マダム、その方どなたです?」
「ジェニーだけど」
「……うそでしょう」
「どこからどう見てもジェニーじゃないの」
「そんなまさか。ジェニーは中学生です。この方は僕と同年代でしょう?」
「女性は突然変わるのよ、友樹くん」
そう言い切るフェリに、友樹は狐に化かされたようなぽかんとした顔になった。
ジェニーはそんな友樹を見て、彼ってこんなに子供っぽいかんじだったっけと思った。ジェニーにとって友樹は、頭がよくてなんでもしっていて、そんな彼にバカだアホだとののしられるのが気持ちよくて――。
(ウジェーヌには無教養無教養ってののしられてたけどね)
ジェニーは小さく思い出し笑いをした。
そんなジェニーを友樹が気味悪そうに眺める。どうもジェニーの正体をつかみかねている様子だ。
そりゃそうだ。いくら十九世紀へ行く前と格好を揃えたところで、友樹にとっての十分間に、こちらは二十年ばかり年を重ねてきたのだ。天使といえども、二十年も経てばみっつよっつは年をとる。
フェリ様も無茶をする……。
若干あきれるジェニーである。
「展覧会、本当に私もご一緒してよかったのかしら?」
ジェニーの心中をしってかしらずか、フェリはしれっと会話を続けた。
「もちろんです!」
「友樹くんは印象派が好きだったわね。ロマン主義絵画にも興味がおあり?」
「せっかくだから見ておきたかったんです。それに、ロマン派の中でもドラクロワは、色彩のとらえ方でルノワールなどの印象派の画家に大きな影響を与えたから……」
ジェニーは反射的に友樹の腕をつかんだ。
今、なんて言った?
「誰が印象派に影響を与えたって……?」
「だ、だからドラクロワだよ。これから観に行く……」
「これから!?」
「ジェニー、あなた自分が行く美術展の内容もしらないの? 『日本におけるフランス年』の目玉として、ドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』が来てるのよ。国宝並みにチャーター機で来たんですって。なまいきね」
「なまいき?」
「ああなんでもないわ、友樹くん。行きましょ」
ふりそそぐ春の日差しの中、フェリと友樹が国立博物館へ向かう背中が、あふれだす涙でにじんで蜃気楼みたいになった。
ジェニーの目にはもう、人混みの上野公園も前をゆくふたりも、涙でかき消えて見えなくなった。
心の中に見えているのは、美術館から突き返されてウジェーヌのアトリエにあった『民衆を率いる自由の女神』。
ウジェーヌはよく嘆いてたっけ。
「はじめて喝采をうけたと思ったら、早々に突っ返されてアトリエでストーヴの煤にまみれてる……。悲しいなあ。ちゃんとした美術館に置いてもらいたいよ。こんな保存状態の悪いところにあったんじゃ、時代を越せないじゃないか」
ウジェーヌは人間なのに『時越え』をもくろみ、それを果たした。
ウジェーヌ・ドラクロワは時を越えた。
飛行機に乗って海も越えた。
彼の熱い魂は、『時越え』を果たし、『空間越え』も果たした。
生き残った――。
ウジェーヌは歴史に生き残った。
人混みの中、ジェニーは立ち止っていたようだ。
ふりむいたフェリが「さあ、会いに行くわよ。近代絵画の巨匠に」と、大きく声をかけてくれた。