9・1849年~ パリ⑤
「私にはもう春は来ないのかもしれないなあ」
ウジェーヌは六十四歳になっていた。冬になると体調を崩すのは毎年のことで、ジェニーはウジェーヌの外出時はいつもモコモコに厚着をさせていた。けれど今年の冬はずっと病床にいて、厚着をさせる機会もなかった。
「来るわよ」
またウジェーヌが外出できるように、ほとんど願掛けのような気持ちで、ジェニーは枕元で彼の新しい襟巻きを編んでいた。
「来るかなあ」
「来るわよ。春のきれいな風景でも想像していなさいな。シャンロゼー村の」
「シャンロゼーか……」
「春が来るまでに元気になってね。また一緒にでかけましょう。おべんと持って、春の野原でピクニックよ」
「うん……」
ウジェーヌは窓の外の、寒さに凍てついた裏庭を見た。目に入るのは無愛想な石壁と茶色く色褪せた植え込みの、さみしい景色だ。
今、彼の心に浮かんでいるのは、春のシャンロゼーの鮮やかな新緑だろうか。
それとも……過ぎ去った思い出だろうか。
後者のような気がする。ジェニーはウジェーヌの生気の抜けた横顔を見るのがつらくなり、彼から目をそらしてうつむいた。
この冬のウジェーヌはいつもとちがう。体力の低下だけではない。気力の低下……情熱の弱まり。彼はもう、病床で絵を描こうとしなかった。何年か前だったら、叱るジェニーにかくれてこそこそ描いていたのに、そんな様子はまるでなかった。
魔界に行けないことを今年ばかりは幸いに思う。ウジェーヌの『泉』を見るのがこわい。暗緑色の炎が小さくなってゆくさまを見るのがこわい。
「そろそろお夕飯のしたくするね。なに食べたい?」
「任せるよ……。少なめに」
ジェニーはうなずいた。ウジェーヌは胃の具合もよくないらしく、食もどんどん細くなる。今では日に一度しか食事をしない。
ふたりの時間はもう長くはないのかもしれない……。
(ううん。まだ時間はあるわよ。まだ、あと何年かは……)
ジェニーは編みかけの襟巻きを籠に丁寧にしまった。窓から見える薄暗い裏庭。北風がときおりカタカタ窓を鳴らす。お日さまの恵みに乏しいパリの冬。
(神様……)
神様がいないことなどしっている。けれどジェニーは、かの存在に願わずにはいられなかった。
(どうか神様、まだウジェーヌを連れていかないで)
あの不思議な色の炎を消してしまわないで。
せめて、せめて春が来るまで。色彩に満ちた美しい春が来るまで。
どうか。どうか。
神様――――。