表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/48

9・1849年~ パリ⑤

「私にはもう春は来ないのかもしれないなあ」

 ウジェーヌは六十四歳になっていた。冬になると体調を崩すのは毎年のことで、ジェニーはウジェーヌの外出時はいつもモコモコに厚着をさせていた。けれど今年の冬はずっと病床にいて、厚着をさせる機会もなかった。

「来るわよ」

 またウジェーヌが外出できるように、ほとんど願掛けのような気持ちで、ジェニーは枕元で彼の新しい襟巻きを編んでいた。

「来るかなあ」

「来るわよ。春のきれいな風景でも想像していなさいな。シャンロゼー村の」

「シャンロゼーか……」

「春が来るまでに元気になってね。また一緒にでかけましょう。おべんと持って、春の野原でピクニックよ」

「うん……」

 ウジェーヌは窓の外の、寒さに凍てついた裏庭を見た。目に入るのは無愛想な石壁と茶色く色褪せた植え込みの、さみしい景色だ。

 今、彼の心に浮かんでいるのは、春のシャンロゼーの鮮やかな新緑だろうか。

 それとも……過ぎ去った思い出だろうか。

 後者のような気がする。ジェニーはウジェーヌの生気の抜けた横顔を見るのがつらくなり、彼から目をそらしてうつむいた。

 この冬のウジェーヌはいつもとちがう。体力の低下だけではない。気力の低下……情熱の弱まり。彼はもう、病床で絵を描こうとしなかった。何年か前だったら、叱るジェニーにかくれてこそこそ描いていたのに、そんな様子はまるでなかった。

 魔界に行けないことを今年ばかりは幸いに思う。ウジェーヌの『泉』を見るのがこわい。暗緑色の炎が小さくなってゆくさまを見るのがこわい。

「そろそろお夕飯のしたくするね。なに食べたい?」

「任せるよ……。少なめに」

 ジェニーはうなずいた。ウジェーヌは胃の具合もよくないらしく、食もどんどん細くなる。今では日に一度しか食事をしない。

 ふたりの時間はもう長くはないのかもしれない……。

(ううん。まだ時間はあるわよ。まだ、あと何年かは……)

 ジェニーは編みかけの襟巻きを籠に丁寧にしまった。窓から見える薄暗い裏庭。北風がときおりカタカタ窓を鳴らす。お日さまの恵みに乏しいパリの冬。

(神様……)

 神様がいないことなどしっている。けれどジェニーは、かの存在に願わずにはいられなかった。

(どうか神様、まだウジェーヌを連れていかないで)

 あの不思議な色の炎を消してしまわないで。

 せめて、せめて春が来るまで。色彩に満ちた美しい春が来るまで。

 どうか。どうか。

 神様――――。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ