9・1849年~ パリ②
ウジェーヌ・ドラクロワは存命中だった。
小鳥のさえずりが気持ちのいい早朝、ノートルダム・ド・ロレット街の家から出てきた彼は、髭をたくわえた立派な紳士になっていた。
ジェニーは物陰にひそんで道行く彼の姿を追いながら、五十歳くらいかなと判断をつけた。画壇では結構な有名人になっていて、彼の居場所を捜すのは簡単だった。
(年とってもオシャレに気を抜かないのねー)
素敵なおじ様。独身らしいけど、でも、ちょっと恋には向かない。
こういうのも失恋っていうのかなあとジェニーは思った。残念な気もするけれど、ほっとした気もする。
いつ声をかけようかなあ。急ぎの外出だったら悪いし。そんなことを考えながら、しばらく彼の後をつける。急ぐ用事ではなさそうな、ゆるやかな足取りだった。
散歩かな。
そう思って、ジェニーは足をはやめた。
どきどきしながら、彼の背後につく。いつ手を伸ばして彼の袖をつかもうかしら?
立ち並ぶ柱が印象的な、大きな聖堂の前だった。今だと思ってジェニーが手を伸ばしたそのタイミングで、ウジェーヌはふりかえった。
目が合う。
しばしぽかんとする彼。
「ジェ……ジェニー?」
「こんにち(ボンジュー)は(ル)! あいかわらずオシャレねー」
おじ様ウジェーヌは、金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。こういうあわてた顔をすると、はじめて会ったときとあまり変わらない。
うさぎさんみたいにかわいかった少年時代の彼を思い出し、ジェニーは吹き出した。
ウジェーヌは衝撃が収まらないようで、胸に手を当てて深呼吸しはじめた。あまりにもぜいぜいと苦しそうなので、ジェニーはあわてて彼の背中をさすった。しまった、驚かせたらまずい歳になったのかも。
「あ、あ、あ、あんなことをしてしまったから、君はもう現れないと思ったよ……」
あんなことって、魔界にくっついて来ちゃったことかなあ。
ほかに思い当たることがないので、たぶんそれだろう。
真っ赤になるウジェーヌが不思議ではあったけれど……。
「気にしないで」
ジェニーはウジェーヌにほほえみかけた。
若さを失った彼はまぶしそうに、以前と変わらないジェニーを見ていた。
ジェニーはなんだかせつなくなった。もしも時を跳ばさずに、ずっと一緒に過ごしていたら、自分は老いゆくウジェーヌをどんな気持ちで受け止めただろう。
どうして人間は、天使より先に老いて死んでしまうのだろう。
どうして天使は、同じ時間を歩めない人間を愛してしまうのだろう。
どうしてわたしは、こんなにウジェーヌが好きなんだろう。
ウジェーヌが。
この人の魂が。
好き。
「君はいつも、私が君のことを考えているときにやってくるんだな……」
「わたしのことを考えてたの?」
ウジェーヌはうなずき、目の前の大聖堂を指差した。
「ここの礼拝堂に、フレスコ画を描くんだ。――――君を描くつもりだ」