9・1849年~ パリ①
岩場の隅の、両開きの戸。人界側では洋服ダンスの戸になっている『扉』のむこうは、慣れ親しんだ安下宿ではなかった。
クローゼットから出てきたジェニーを待ちうけていたのは、真新しい素敵な部屋と、愛の抱擁真っ只中の男女だった。
ジェニーは凍りついた。
ベッドのふたりも凍りついた。
一番に我に返ったのは女だった。
「ポール! あたしが留守の間にこんな若い女引っぱりこんでたのっっっ!」
誤解です! 誤解です! 誤解です!
ポールのためにもそう言ってやりたかったジェニーだけれど、女の癇癪が並大抵じゃなかった。ガシャンガシャン家財道具が飛ぶ中、這う這うの体で街路まで逃げ出すのがやっとだった。
『扉』を挟んだ時間の歪みは、フェリが補正したはずだ。
なのに、この事態は一体……。
(ま、まさか空間も歪んじゃったの!? ここどこよ――――っ!)
さっきの女はフランス語で怒鳴っていたから、すくなくとも外国じゃない。道行く人にたずねてみたら、ラ・ペ街だと答えた。よかった、なじみのある界隈だ……。
(いや、よくない。ぜんぜんよくない。これじゃあ、ちょっとやそっと魔界に戻れなくなっちゃう! ええええー! ど、どうしよ……)
ジェニーは途方に暮れ、きょろきょろあたりを見回した。
なじみのある通りである。つい最近も通ったはずだ。
でも、この違和感はなんだろう?
夜だ。空が暗い。なのに街は妙に明るい。
(ガス灯、こんなにいくつもあったっけ……?)
嫌な予感がした。街路樹のプラタナスの葉が、風にかさかさと音を立て、ジェニーの足元を転がっていった。ジェニーの知るこの界隈に、ガス灯も街路樹もこんなにたくさんありはしなかった。
(未来――――?)
空間も歪んだけれど、時間はフェリの補正が追いつかないほど、一気に激しく歪んだのではないだろうか。
ここは未来。――ウジェーヌを送ったときから、何年くらい未来?
ウジェーヌは……まだ生きてるの?
顔から血の気が引いた。見たことのない最新型のガス燈が照らしだす景色が、すっと意識から遠のいていった。
ここは何年? 西暦何年?
焦りに駆られ、ジェニーは半泣きになって夜のパリを走り出した。
ショワズル町に、ウジェーヌは住んでいなかった。
ソールニエ町に、アトリエのあるあの侘しい建物はもうなかった。
「ウジェーヌぅぅぅ……」
見知らぬ建物を見上げ、ジェニーは石畳にぺたりと座りこんでしまった。
「どこにいるの、ウジェーヌ。どこにいるの……」
夜道をゆく紳士が、憐れみの目でジェニーを眺めながら、横を通り過ぎてゆく。この頭のおかしい女の子に関わり合いにならないようにと、早足で歩み去る。
「ウジェーヌ・ドラクロワをしりませんか!」
去りゆく通行人の背中に、ジェニーは叫ぶように問いかけた。紳士は足を止め、眉をしかめつつもふりかえった。
「ウジェーヌ・ドラクロワを……」
「名前は存じ上げておりますが。高名な画家ですからな」