8・1827年 敵⑦
「だから、ちょっと待ってって言ったのに。あんたさっさと魔界入っちゃうから」
やれやれといった調子で、フェリが言った。
「ウジェーヌがついてきてたなんて……」
「階段の下で跳んだときにいきなり割り込んできたのよ。びっくりしたわ。あんたを追いかけて『扉』もくぐってっちゃうし」
とりあえず、人界に戻ってウジェーヌをショワズル町の自宅まで送った。
ウジェーヌは目にしたことが信じられない様子で、家に戻るまでずっと呆然としていた。目の焦点も合っていないありさまで、ほとんど口もきかなかった。一言だけ「あれは天使の言葉だったのか……」とつぶやいた。
彼は、階段下で交わされたジェニーとフェリの会話を耳にしたらしい。
天界言語だったからもちろん意味はわからなかっただろう。しかし、ヨーロッパのどこの言語とも似つかない天界言語は、ウジェーヌの好奇心を刺激したようだ。
だからアトリエから出ないでって言ったとき様子が変だったのか……。気付けばよかった。気付いてなんとかごまかしてくればよかった。
人間でないことはいつか納得してもらうつもりでいたけれど、まさかこんな形で正体がばれてしまうとは。
ウジェーヌが見た天使と悪魔の戦闘は、彼の作品世界のようだっただろう。
彼は、ついに日頃の妄想と現実が入り混じってしまったと思っているらしかった。
ウジェーヌは自宅のドアを入る前に、ジェニーに
「ねえ、これは白昼夢だよね?」
と言った。
ジェニーはあいまいにほほえんだ。
「……今、君がここにいるってことも、白昼夢?」
「わたしはここにいるわ。夢じゃなく」
「よかった……」
「今日はゆっくり休んで、ウジェーヌ」
「そうする。いろいろごめん。こんな狂人につきあわせて」
「ウジェーヌは狂ってなんかないってば!」
ジェニーは咄嗟にウジェーヌの手をとった。絵の具に汚れた画家の手を。
彼は自分の右手を包むジェニーの手を見た。ジェニーの手は、大槍をふりまわして大勢の悪魔を倒したとは思えない、白くやわらかな手だった。
「僕が狂ってないんだとしたら、君は戦いの天使ってことになってしまうよ。こんなに……かわいい手をしてるのにさ」
「戦いの天使なの。天界所属の下っ端力天使で、任務で日本にいたんだけど、ちょっとした手違いでパリに来ちゃって……」
「いいんだ、ジェニー。ありがとう」
ウジェーヌはジェニーの言葉を遮って、あきらめたように言った。
ジェニーは言葉を続けられなくなった。どうしたらあなたは狂ってなんかいないと説明できるか、考えが頭をめぐる。
あなたは狂ってなんかかいない。
狂乱と不思議にあふれた世界を描いているからって、決して狂ってなんかいない。
古典派が大切にする理性と明晰さを持って、古典派とはかけはなれた激情と混沌を描いているだけ。
ウジェーヌ・ドラクロワ。
なんという矛盾に満ちた存在――。
ジェニーは手に力をこめて、ウジェーヌの手を強く握った。
言うことがみつからないから――けれど、彼を励ましたかったから。
持ちあげた彼の右手に、くちづけをひとつ、落とした。