8・1827年 敵⑤
次の瞬間、ふたりはモンパルナスの安下宿にいた。
「ちょ、ちょっと」と、なぜかフェリがあわてた声を出している。しかしジェニーは、周囲に目もくれないで洋服ダンスへ飛び込んだ。
貧しい部屋から紫の魔界へ。
『扉』から魔界へ跳び出た勢いのまま、待ち構えていた雑魚悪魔どもを躊躇なく鮮やかになぐり倒す。
ドレスの長い裾が邪魔だった。薄紙のように軽々と、裾を手で引き裂いた。突然の力天使の登場に、悪魔連中が一瞬すくむ。その隙をついて倒れた雑魚が手にしていた槍を拾い、ジェニーは天使の翼を広げた。
紫の薄闇に、翼の白が光を発して浮かびあがる。
岩の小山群のむこうには、ゆらめく暗緑色の炎。
ウジェーヌの炎の下に、人型の堂々たる体躯をした悪魔がいた。己の肉体を誇りたいのか腰布だけの半裸で、山羊のような大角の生えた頭部を大きな羽根飾りで彩っている。
(あいつ知ってる……。魔界の男爵ダークラス。でもあの悪魔、戦闘力はあるけどフェリの結界を破れるような魔力はないはず……)
魔界の爵位に意味はない。ニックネームのようなものだけれど、実力のない悪魔に男爵の呼び名はつかない。乏しい魔力で男爵と呼ばれるからには、戦闘面ではそれなりに手強い相手だと考えなければならない。
ジェニーは槍を何度も大きく薙いで、取り囲んでくる配下たちを遠のかせ、ダークラスに接近していった。
配下のひとりが業火を吐く。岩場がしばし炎の赤で染まり、やがて消え紫の闇と翼の白い光が残る。ジェニーの周囲は、まるで見えない膜で周囲から切り離されたように業火の影響を受けなかった。
結界だ。フェリがジェニーの周囲に魔力避けの防御結界を張っていた。
ジェニーは槍を構えた。ダークラスとの間合いを詰める。
膝上になったドレスの裾をひるがえし、地上を突進すると見せかけて、ジェニーは赤紫の空に向かって大きく跳躍、岩場から高く一直線に飛翔した。
一瞬だけ目を見合わせた地上のフェリに、意図は確かに伝わった。
フェリが消える。
フェリが空中に現れる。上昇するジェニーのかたわらに。
ふたりが消える。
ダークラスの頭上に、突如ジェニーだけが現れる。ジェニーは落下の慣性を羽ばたきで捩じ伏せ、体を旋転させ敵の背後に回った。
うしろから敵の足元を薙ぐ。
足首を斬り裂かれ、堂々たる体躯が地面にどうと倒れ込む。
ジェニーの翼はダンサーの四肢のように微細に動き、器用に大気をつかまえた。体勢を整え勢いをつけるため即座に鋭く上昇。
再度、悪魔に槍の切っ先を向けて下降。
この程度の撹乱で勝負がつくとは思っていなかった。目前の光景にまさかと思った。視界に自分がもうひとりいた。もうひとりのジェニーは自分に気付かず、ダークラスの足元を槍で薙いでいた。
さっき自分がそうしていたように。
下降しながら槍を構えるジェニーは、もうひとりのジェニーに気をとられた悪魔の脇腹に、難なくずぶりと槍先を埋めた。筋肉の繊維を断ち切る感触が、槍を通して伝わってきた。
ダークラスは驚愕の目でジェニーを見た。
ジェニーもなにが起こったのかよくわからなかった。
なぜ、もうひとり自分がいた?
深く考えている余裕はなかった。男爵がジェニーの足元で断末魔のうめきを上げていても、男爵の配下がまだ殺気を立ち上らせていた。