8・1827年 敵④
「ウジェーヌ!」
あせっていたため力を入れすぎ、ジェニーは力天使特有の馬鹿力で貧相な閂を根こそぎ引き抜いてしまった。フェリとともにドアを蹴倒すいきおいでアトリエに雪崩れ込む。
「わわっ!」
アトリエの主は制作の真っ最中だったらしく、いきなりの訪問者におどろいて筆を取り落としそうになっていた。
「……無事だった!」
目を白黒させているウジェーヌを目の当たりにして、ジェニーは安堵のあまりへなへなと床に座り込んでしまった。
「……無事だけどもさ。いきなりなんなんだよ。フェリシテまで一緒に……」
「ウジェーヌ、なにか変ったことはないっ?」
「変わったこと?」
「金髪美形の美術評論家につきまとわれたりしてない?」
「金髪美形かわかんないけど、評論家連中にはいつもつきまとわれて酷評書かれてるよ。それがどうかした?」
「そうじゃなくって……えっと、えっと、身の危険を感じたりとかは?」
「えっ、いくらなんでもそこまでは。まさか、そこまでして僕を葬り去りたいと思うやつが美術界にいるの!? ええええ!」
ウジェーヌは本気でおびえた顔になった。ジェニーははっとした。そうだった、この人は基本的に小心者なんだった。大胆になれるのは絵を描くときだけで、「身の危険」だなんて脅かしたら夜も寝られなくなってしまうかもしれない。
(しまったあ! これじゃ守るどころか制作の邪魔することになっちゃう!)
「僕、そこまで疎まれてるの!?」
「そ、そういうわけじゃ……」
ジェニーが返答につまってへどもどしていると、フェリがずいっと前に出て、引っ込んでろとばかりにジェニーの頭を片手で乱暴に押しのけた。
キッと顔を上げてウジェーヌに向き直る堕天使。
「そこまで疎まれてたらなんだって言うのよ!」
いきなりのフェリの厳しい声に、ジェニーもウジェーヌも唖然となって彼女を見た。
一体、なにを言い出すのか……。
「もしそこまで疎まれてるとしたら、描くのをやめるの!? おとなしく画壇のえらいさんの言うこときいて、画壇が認める絵に転向するの!? 戦うのをやめるの!? ええっ?」
「や、やめないけど……」
「やめないけど、なに? 泣き言言いたいならあたしがきいてやろうじゃないの。そしてしっかりおぼえておいて、いつかテオドールに届けてやるわ! 戦いたくとも戦えずに死んだ、あのテオドールに届けてやるわ! さあ、好きなだけ弱音をどうぞ!」
テオドールの名前をきいたからか、さっきまでおびえていたウジェーヌの表情が引き締まった。
「……弱音は吐かないよ」
「ふうん?」
「僕の求める美が今の画壇の規範からズレていようが、あきらめないよ。芸術の価値に審判を下すのは未来の時間だから。なにがあってもやめないよ。描き続けるよ」
「よろしい」
フェリはウジェーヌにくるりと背を向けた。そして呆然としているジェニーに「いくわよ」と言って、さっさとアトリエから出て行った。
「ごめん、ウジェーヌ、またあとで」
ジェニーはそう言い残し、大急ぎでフェリのあとを追った。階段の下でようやく追いついて、どういうつもりかと問い詰めようとしたら、フェリのほうから口火を切った。
「もし、『時越え』が失敗に終わってテオドールに会えなかったら」
「……フェリ」
「あの人がテオドールの後継者になるんでしょう。彼の戦いを継ぐ画家になるんでしょう。ちょっとやそっとでへこたれてもらっちゃ困るのよ。簡単にあきらめちゃったら、テオドールだって報われないないじゃない。がんばってもらわなきゃ。テオドール・ジェリコーのやりとげた仕事を、歴史の波間に消してしまわないように」
「……」
「この近くに部屋借りましょう」
「うん」
「またあのクソ天使が出てきたら、あんたがウジェーヌを守りなさいよ。パルキスの破力は至近距離なら対処できる。破力は発するまでに力を練る時間が要るからね。至近距離ならあんたの蹴りのほうが素早く繰り出せるし、破壊力も上だから」
「……わかった」
「念のためこの建物に結界張って……。ん? 結界?」
フェリは宙空を見据えた。目線の先にあるのは黒ずんだ石壁だけれど、フェリがそんなものを見ているのではないことくらい、ジェニーにもわかる。
フェリは霊力をつかって遠くのなにかを見ていた。
「魔界の結界がほころんでる……」
「えっ!」
「ガッチリ張ってきたはずなのに――。まさか……侵入者?」
フェリとジェニーは目を見合わせた。
「……魔界に戻ろう、フェリ」
魔界の領地には、ウジェーヌの『泉』がある。彼の情熱の炎が。
『泉』になにかあったら、人界のウジェーヌもただでは済まない。
「……そうね、一緒に行きましょう。ウジェーヌ本体も心配だけど、領地に強い悪魔が侵入したなら、力天使のあんたがいないと心許ないわ。ここにも結界張って、なにかあったらすぐわかるようにしておく。いい?」
ジェニーはうなずいた。
「今から結界張る。あんたは、ウジェーヌにあたしたちがまた来るまでアトリエから出るなって言ってきて」
「わかった」
ジェニーは降りてきた階段をふたたび駆け上がり、アトリエのドアを開けた。
しかし、室内にウジェーヌがいない。きょろきょろしていると、開け放したままのドアからウジェーヌが入ってきた。
「あ、ウジェーヌ! どこ行ってたの!」
「ジェニー……」
「ええっと、ええっと、あやしい人影を見たわ! だいじょうぶだとは思うけど、念のため、あたしたちが戻ってくるまでアトリエから出ないようにして」
「ジェニー、君たちは一体……」
「約束よ! ここから出ないでね!」
ウジェーヌがうなずくのを見届けて、ジェニーは階下のフェリの元へと舞い戻る。フェリの表情がさっきより切迫しているのがわかった。魔界の結界が危ない。猶予がない。フェリの真剣な表情がそう告げているようで、ジェニーの緊張もいや増した。
ウジェーヌの『泉』が、情熱が危ない。
(どんな悪魔が忍びこんだのかしらないけど、彼の『泉』には絶対手を出させない!)
自分がウジェーヌのためにしてあげられる最大のことは、おそらくこれだ。
『泉』を守ること。
もし『泉』が強欲な悪魔の手に渡ったら、『泉』の主は情熱に人生のすべてを捧げきり、廃人となって使い捨てられる。
ゆるやかなウジェーヌの成長ペースを悪魔の手で滅茶苦茶にされるなんてことは、あってはならない!
「行きます。『扉』へ跳んで、フェリ」
フェリはジェニーの手をとった。