8・1827年 敵③
差し入れのほかに、ジェニーにはもうひとつやりたいことがあった。
十九世紀までの西洋美術史をしりたい。あの日アトリエでウジェーヌが「歴史ある絵画の世界で新しい価値を認めさせるためには、まず過去の画家を知らなくちゃ」と言ったとき、ジェニーは猛烈な後悔に襲われていたのだ。
自分はかつて未来の時間を生きていたのに、岡本太郎とピカソとムンクしかしらない。美術史の歩みをしらない。美術史の中に、ウジェーヌ・ドラクロワという名前があるかどうかしらないのだ……。
(でもそれは、しらなくてよかったかもしれない)
もしウジェーヌの名が美術史になかったら、自分はきっと歴史に抗おうとするだろう。なんとかしてウジェーヌの名を歴史に残そうと、手を尽くして奮闘するだろう。その行動はおそらく『時の天使』から処罰を受ける対象になる。未来のフェリと戦うことを前提に行動するのは……きつい。
でも、ウジェーヌはきっと大丈夫。あんなに研究熱心な努力家なんだから、きっとフランス画壇に大きな足跡を残してくれるはず。今はそう信じて応援するしかない。
(それより未来のフェリ様は、『時越え』でテオドールを助けようとする過去の自分をどう扱う気なんだろう……)
考えると気持ちが沈む。
しかし、未来のフェリに目的を阻まれたフェリを救うのは自分しかいない。「そのとき」が来たら、しっかり彼女の気持ちに寄り添おうと決心する。
テオドールの死ははやすぎたとは言え、人間は天使よりずっと早く寿命が尽きる。ウジェーヌだってジェニーよりはやく老い、ジェニーよりはやく死ぬ。ジェニーにだって「そのとき」は来る。
愛する魂を永遠に失う「そのとき」は、必ず来るのだ――。
(だめだめ。考えると泣きそう。金物屋の店先でめそめそ泣くわけにはいかないわ。今はナベよ、ナベえらびに集中するのよ!)
ジェニーは店頭にぶらさがった銅鍋をにらみつけた。ピカピカした銅鍋が、厳めしい表情のジェニーを磨かれた表面に映し出す。ああ、すごいこわい表情してるわ、わたし……。
両手で両頬をぴしゃっと叩き、にっと笑顔をつくった。
「あれ……?」
ジェニーの笑顔が曇る。
鍋に映った自分の背後、通りを行く人々の中に、立ち止まってこっちを見ている人影があった。鍋は鏡ではないから、鮮明に映り込んでいるわけではない。ジェニーではなく、鍋を見ているだけかもしれない。でもフロックコートに身を包んだ立派な紳士が、立ち止まって鍋なんか眺めるかしら……。
ぞわりと、背筋に悪寒が走った。
ふりかえる。
「いない……」
庶民的な通りには、通りに見合った庶民的な装いの労働者やおかみさんしかいなかった。フロックコートの紳士など、影も形もない。
(『空間越え』で逃げた……?)
保守派天使パルキスを思い浮かべないわけにはいかなかった。
そのときジェニーは、唐突に思い出した。
パルキスが「熱情が人間理性の歩みを妨げるものと判断し、熱情をあおる人間個体を排除することを、天界上層に提案するために調査している」と言っていたことを……。
熱情をあおる人間個体を排除。
ウジェーヌは、「理性」を最上価値とする古典派に対抗する、ロマン派の筆頭だと思われている。「理性」の敵だと。
『サルダナパールの死』を描いたことで、ウジェーヌはさらに「理性」に対抗する者としてパルキスの目に映ったのではないだろうか……。
ジェニーは足元から震えが立ちのぼってくるのを感じた。
「熱情をあおる人間個体を排除」。
もしパルキスの提案が、ジェニーたちが魔界にいた間に天界上層に通っていたとしたら……?
ナベどころではなかった。ジェニーは辻馬車をつかまえるために大通りに出ようと走りだし、ふと思いなおして踵を返した。下宿に戻って、フェリに『空間越え』でウジェーヌのアトリエまで跳んでもらったほうがはやい。
(ウジェーヌ……ウジェーヌ……)
不安が心を侵食する。顎が細かくふるえるのを感じながら、ジェニーが下宿の前まで来ると、フェリがちょうど建物から通りに出てきたところだった。
「あ、ジェニー。あたしこれから彫金職人のところに……」
「フェリ、ソールニエ町に跳んで! ウジェーヌのアトリエに……!」
「えーっ。あたし指輪を仕立てにいきたいんだけど」
「パルキスがいたの! わたしを見張ってたのかも……。ウジェーヌが、ウジェーヌが心配。おねがいフェリ、わたしをウジェーヌのところに連れてって!」
不安で崩れそうなジェニーの様子に、フェリは表情をあらためた。
そしてジェニーの腕をとって路地に引き込むと、ソールニエ町まで一気に跳んだ。