8・1827年 敵①
ソールニエ町のアトリエからモンパルナスの安下宿まで、ジェニーは乗合馬車で帰った。
前住人はもうよそへ移ったらしい。狭い部屋には備え付けの家具がある以外カーテンすらなく、蝋燭の明かりが照らす室内は寒々しかった。むきだしのガラス窓を晩秋の風がカタカタ鳴らすのも、ひどくわびしい。
「おかえりー。ウジェーヌの絵、どうだった?」
シーツも上掛けもないベッドの上には、フェリの新しいドレスが広げられていた。ドレスより先に買うものがあるのではと、がらんとした室内を見回しつつジェニーは思った。
まったく、この堕天使は生活管理能力がまるでない。
「よかったですよ」
「ウジェーヌのアトリエにも寄ったんでしょ? 彼、どうだった? んふふ」
フェリの瞳が下世話な好奇心に輝いているのが、なんとなく腹立たしい。
「どうもこうも、普通です。いつものウジェーヌです」
「えーっ。進展は? 大人になった彼とのひさしぶりの再会、そしてふたりっきりでしょ? なんか目新しい展開は……」
「ない! 疲れたから寝ます」
ベッドがドレスに占拠されているので、ジェニーは床に身を横たえた。
「ちょっと、そんなところで寝ないでよ! 夕食は? 『魄』で済ませないでひさしぶりにレストランで食事とろうよ。で、今夜はホテルに泊ろうよ」
「食欲ないんで。ひとりでどーぞ。寝床もわたしはここでじゅうぶんです」
「えー。ジェニー、なんか変よ。どうしちゃったのよ?」
「どうもしてませんよ」
「ウジェーヌとケンカでもしたの?」
「してません。関係は良好」
「そうなの? なら順調に恋人として進展……」
「進展なんかないです! この先ずっとないです! ウジェーヌはそんな人じゃないです! そんなこと考えないくらい画業に対して真剣で、絵画の未来を考えてます! もうウジェーヌに対して恋だなんだって浮ついたこと言わないで! そんなんじゃないんだから、もう……!」
ジェニーはがばっと毛布を……かぶりたかったけれど、そんなものはなかった。代わりにぎゅっと強く目をつぶり、身を縮めて両手で自分の肩を抱く。
(そんなんじゃないんだから。ウジェーヌとはそんなんじゃないんだから……)
フェリ、さっさとレストランなりホテルなり行ってくれないかな。ジェニーがそんなことを思っていたら、ベッドの上のドレスをごそごそどける音がした。
「ベッドで寝なよ。シーツと上掛け、買ってこようか……」
自分勝手な堕天使が、めずらしくおもいやりのあることを言い出す。
「……」
「買ってくるね」
フェリの足音が、ドアの方向へ遠ざかる。そしてドアを開ける前に、未来のフェリ様みたいなやさしい口調でこう言った。
「天才ってひとりでどんどん先に行っちゃうよね……。さみしいね」
ドアが開き、フェリは出ていった。フェリの気配が消えたとき、ジェニーはきつく閉じていた目を見開いた。蝋燭の明かりがにじんで見える。
うっすらと、目に涙が膜を張っている。
ジェニーは起き上がって、フェリがドレスをどかしたベッドに腰かけた。
天才は、ひとりでどんどん先に行ってしまう。いいじゃないか。ウジェーヌを応援したいと思ってるんだから、彼がどんどん先へ進むことをさみしがることなんかない。
なのになぜ、フェリの同情が身に染みるのだろう。なぜフェリの言葉が、こんなに心を打つのだろう。
「どうして……」
本当は、理由なんて分かってる。
ひとりで先にいかないでほしい。
わたしも一緒にいきたい。
あなたの隣を歩いていきたい。
なぜって……。
「どうしよう。わたし、ウジェーヌを好きになっちゃった」