7・1827年 パリ⑦
『空間越え』の能力がないのがうらめしい。
ジェニーはウジェーヌのアトリエがあるソールニエ町まで必死で走った。辻馬車を探すのすらもどかしく、道行く人がふりかえるのもかまわずに、自慢の脚でパリの街を駆け抜けた。
(伝えたいの。伝えたいのよ――)
不道徳だの低俗だのと、誰がなんと言おうとも、ジェニーはあの絵が好きだと思った。それを今すぐ、直接、ウジェーヌに伝えたかった。
教えてもらった住所に建つアパルトマンは黒ずんでうらさびしく、どう見ても貧しげだった。ウジェーヌの絵は話題にはなっているけれど、あまり売れていない……サロンで小耳に挟んだ話は本当らしい。
ジェニーは肩で息をしながら、ほこりの溜まった階段を上がった。アトリエのドアをノックして、「ジェニーよ」と告げる前に内側からドアが開いた。
反応のはやさにジェニーはびっくりして、ドアから一歩引いた。それを見て、ドアの向こうのウジェーヌが苦笑気味にほほえんだ。
「ごめん、驚かせた。絶対君だと思って」
「よくわかったわね」
「サロンに行くって言ってただろ。君はいつも、僕の絵を観るとすぐに来て感想を言ってくれたから……」
「すごかったわ!」
ウジェーヌが言い終わらないうちに、語尾に重ねるようにジェニーは言った。
「なにが?」
「サルダナパール!」
「そ、そう?」
「うん! 今まで観たウジェーヌの作品の中で、一番好きかも!」
「……あれが?」
「うん! だってクライマーックス!ってかんじじゃない。今年のサロンで一番かっこよかったと思う」
「ほんと?」
「ほんとほんと!」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとにほんと……もぎゅ」
ジェニーは先の言葉を言うことができなくなった。顔面がウジェーヌの胸に埋まっている。なにが起こったの……と、頭を巡らせ、ようやく事態を飲み込んだ。
――抱きしめられている。ウジェーヌに。
「あにふんほ……」
厚い毛織物のチョッキ越しに、ウジェーヌの体温を感じる。「なにすんの」と言ったつもりが、声がくぐもる。
ジェニーの顔がウジェーヌの胸にうずまっている。ウジェーヌの顔はジェニーの髪にうずまっている。
うずまりあっている。
なんだこれは。
ジェニーは混乱した。
人間とこんなに密着した経験は今までなかった。
こちらから一方的に友樹に抱きつくことはよくあったけれど、友樹はいつも身をよじって逃げるので、こんな密着度に至ったことはない。
そもそも今回はジェニーから抱きついたのではない。ウジェーヌがジェニーを引き寄せ抱きしめたのだ。
ウジェーヌのほうから。
「うじぇーにゅ……」
「ありがと。ジェニー」
震える声で彼は言った。
声はすぐ耳元で聞こえる。直接耳に注ぎこまれるほどの近距離から呼ばれる自分の名は、とても甘く響いた。
ジェニーのよく知るウジェーヌの声ではないかのように、まるで魔法の言葉であるかのように、深い響きが背筋を痺れさせながら頭のてっぺんからつま先まで伝わり、体中に染み込んでゆく。
彼はそれっきり黙り、しばらく無言の時が流れた。聞こえるのは、静かな彼の息づかいと、彼の心臓の音。密着したジェニーに直接伝わる、ウジェーヌの生命の鼓動。
(人の心臓って、こんなに激しく鳴るのかしら)
うん。きっと鳴るわね。
だって自分の心臓も、彼に負けず劣らず激しく鳴っているから。
でもおかしいわ。力天使の身体能力なら、ちょっとやそっとの距離を走ったくらいで鼓動が静まらないなんて、ありえないのに。
「ジェニーがそう言ってくれるなら、またがんばれる」
「うぎゅ……」
「なに?」
「ひゃべらないれ……」
「え?」
ジェニーの口を塞いでいることにやっと気付いたのか、ウジェーヌは腕の力を解いた。
彼の黒い瞳が、ジェニーの瞳をのぞき込む。
「しゃべらないで」とジェニーは言ったのだ。耳元で発せられるウジェーヌの深い声が、あまりにも甘く刺激的に響くから……体中に痺れが走るから……だから。
「……なんでもない」
見つめられて、思わずジェニーは目をふせた。ウジェーヌをまっすぐ見られなかった。
彼の黒い瞳の奥を見たら、動悸がますますひどくなる。
ジェニーが目をふせていると、ウジェーヌがはっとしたように身を離した。
「ご、ごめん、思わず。……君の感想に感激してしまった」
「わたしの感想に……?」
「酷評続きだったから。一番かっこよかったって言ってもらえて、うれしくてつい」
「素人のわたしの感想なんて、当てにならないよ」
「当てになるならないじゃなくて、うれしかったんだ」
そう言われてやっと、ジェニーは相手の顔を見た。照れくさそうにほほえんでいる、いつものウジェーヌがそこにいた。
「まあ入ったら」
ウジェーヌはジェニーをアトリエの奥へと促した。
古い真鍮製のストーヴの置かれた、床板のささくれた部屋。
貧しい部屋は模写や習作であふれかえっていて、彼の画業の真面目な歩みを示していた。
ウジェーヌの勤勉さは魔界で『泉』の成長を見守っていたジェニーにはわかっていたことだけれど、実際に大量のキャンバスや画帳を目にしてみると、彼の努力が重さを増して伝わってくる。
パレットには几帳面に色が並べられていて、『絵の具のバケツをカンバスにぶちまけて、それを箒でかきまわしたような絵』なんて評価は、まるで的を射ていないことがわかる。パレットの横には時計の文字盤を色で塗り分けたような厚紙製の色見本があり、彼が色彩を理論的に考えていることを伺わせた。
ジェニーは壁に立て掛けられたルーベンスの模写の前に立ち止まった。
「……模写って画学生がやるものなんじゃないの?」
売れ行きはよくなくとも、今のウジェーヌは政府買い上げの栄誉も授かった立派な画家である。
「模写は一生やるよ」
「……どうして?」
「過去の偉大な画家に対する敬意を忘れたくないから」
「……」
「歴史ある絵画の世界で新しい価値を認めさせるためには、まずは過去の画家を知らなくちゃ。過去の画家がなにをやったか知ることなくして、新しいことをやろうとするなんて矛盾じゃないかい? 過去の偉業を知らなかったら、気付かずに過去の繰り返しをやるだけになるよ」
「うん。確かに」
「僕は不朽の名作の後を継ぐ作品を描きたい。ルーベンスがミケランジェロの意思を継いで新しい価値を創造したように、僕もルーベンスの意思を継いで新しい価値を生み出したい。そして……僕の後に生まれた誰かが、僕の意思を継いで美術の歴史をつないでくれたら……。そう願ってやまないんだ」
「ウジェーヌ……」
「美術の歴史が生む鎖に、僕の手で新しい輪を継ぎたい」
秋の日は落ちるのがはやく、もう夕暮れになっていた。
薄暗いアトリエの中で、ウジェーヌはもうジェニーを見ていなかった。
さっきまで抱きしめていたジェニーのことなど眼中になく、まるで『時の天使』であるかのように、その目は遠い遠い未来を見ていた。
「僕の手で新しい美を歴史に刻印したい」
ミケランジェロの模写が、ルーベンスの模写が、そして死んだ兄弟子テオドール・ジェリコーの遺した絵が。
夕暮れの光が差し込むアトリエで、ウジェーヌを見守っている。
我が子を見つめる両親のように、孫を見つめる祖父母のように、この若い画家を見守っている。
美術の血脈を継ぐに足る画家であるか、確かめるように見守っている。
「僕は、そのためだけに生きてるんだ」