7・1827年 パリ⑥
官展会場の入り口近くに来たとき、画学生風の二人連れが「ドラクロワの絵は……」とウジェーヌの絵を話題にしているのを耳にし、ジェニーは我が事のようにどきどきしてしまった。ほめているのだろうか、けなしているのだろうか。
首をめぐらせて二人の会話を追いかけようとするも、距離が開いてしまって聞き取れない。残念に思っていたら、別の誰かが「本人はおとなしいのに、なぜあんな不道徳な……」と言うのが聞こえ、ウジェーヌのことではないかとはらはらする。
なんだか合格発表を見に行く受験生のような心境だった。ジェニーは思わず、会場の手前で立ち止まってしまった。
「なに止まってんのよ。いくよ」
「フェリ、わたしこわい……」
「なにが?」
「みんながウジェーヌの絵をなんて言ってるか、聞くのがこわい」
「あらん。そんなにウジェーヌの評判が気になるの? ジェニー、もう観念しなさいよ。それって恋よ、恋」
「ちがいますってば! フェリはしらないのよ。わたしが右も左もわからないこの国で、ウジェーヌにどれだけ救われたか。ウジェーヌは詩や小説を絵にするのが好きだったからフランス語がよく読めないわたしも彼の絵を見て楽しめたし、一緒に散歩して好みのあばら家や廃墟を探すのも楽しかったし……。わたしは彼みたいに物知りじゃないけど、彼の好みはわたしも好きだったんです。趣味が似てたんです。ちょっとおどろおどろしかったり、激しかったり、不思議だったり、そんなものが好きなところがよく似てるの、わたしたち」
「そんなに気が合うなら、さっさとくっついちゃえばいいのに」
「そ~じゃなくってぇ……。もういいですよ……」
ジェニーはため息をついた。
この色ボケ堕天使は、なにがなんでも恋に結び付けたいらしい。天使のくせになんでそんなに色恋が好きなんだか――。
まあ、自分も人のことは言えないかと、ジェニーは天を仰いだ。
友樹に夢中になっていたことを思い出す。
「恋」の文化は人界から天界にもたらされたもの。人界の文化が好きな天使は、恋に憧れを持っているのだ。
しかし上層のえらい天使たちは、その傾向をあまりよく思っていないらしい。なぜなら、「恋」なんてものに目覚めてしまったら、上層の都合のいいように天使たちを娶せることができなくなってしまうから。現にフェリは、上層が決めた相手を嫌って逃げ出したわけだし。
「ウジェーヌもまんざらじゃなく見えたけどねえ」
コイバナ大好きな堕天使は、なおもしつこく話を続けた。
「は? なにがですか」
「あんたのこと。髪さわられてドキドキしてんのが、おもいっきり顔に出てたけど。あんた気付いてないの?」
「……いちいち気にして見てないですよ。髪さわるくらいよくやってたし」
「よくやってたの? あっら~ん。いつごろから?」
「彼がエリザベスに失恋したときに、よしよしってしてあげて……。それから癖になったっていうか。小動物っぽくてカワイかったから、昔のウジェーヌって」
「あんたも罪つくりな女ねえ。失恋なぐさめてくれた相手になびくって、よくあるパターンじゃないの。なのに無自覚によしよし? 最強!」
「いいかげんその話から離れてくれません?」
「いいじゃないべつに。あとでじっくり追及してあげるわ。ま、とりあえずサロンね。うちの『泉』の主たちがどれくらい進歩したか見届けないと――――っと!」
サロン会場に入った途端、フェリは勢いよくくるりと回れ右した。
「どうしたんですか?」
「帰る」
「えっ!? なんで……」
ジェニーはあわあわと、出品作の並ぶ会場とすたすた離れていくフェリを交互に見た。
そしてグレーのフロックコートにかっちり身を包んだ美青年を見つけ、ようやくフェリの態度急変に納得した。
――パルキス。
フェリの「元許婚」、天界保守派のパルキスがいる。
人界では美術評論家として名を成しているらしいから、サロンにいても不思議はないのだ。
人間の中に混じったパルキスは、天使の気配を消している。フェリも含め、霊力に長けた天使は自分の気配を操作するのが上手い。
しかし霊力のないジェニーは天使の気配がダダ漏れだ。ジェニーがここにいることは、おそらく彼に気付かれている。
どうしようと思った。脅しとはいえ、殺されるかと思った路地裏での経験から、あの天使とは顔を合わせたくない。でも、それ以上にウジェーヌの絵が見たかった。どうしても見たかった。
どんなに酷評されていようとも、自分はきっと彼の絵を気に入ると思う。
気に入ったら、それをウジェーヌに伝えたかった。無教養な自分の感想なんて画家にとって無価値かもしれないけれど、友人としてなら価値があるかもしれない。
だって、ウジェーヌはいつだって、ジェニーが「上手い! カコイイ! ど迫力!」と言って絵をほめると、うれしそうなニヤニヤ笑いが止まらなかったから。
彼のあのニヤニヤ顔が見たい……。
ジェニーはサロン会場に歩を進めた。
パルキスがこちらに視線を向けるのがわかった。
かまうものか。この場で破力攻撃なんてされやしない。きっとあの天使は、ウジェーヌの絵の前で彼の絵をけなしまくったに違いない。保守派天使の理想主義と、ウジェーヌの表現したい人間感情の発露は、真っ向から対立するものだから。そしてそれはそのまま、画壇における古典派とロマン派の対立でもあった。
(あたしが守るわ。ウジェーヌの描きたいものがサロンから不当に排除されないように、あたしが守る……)
どうやってとは考えなかった。
とにかく彼の絵の前に行こうと思った。
すべてはそれから――。
人だかりの向こうに、赤っぽい絵が見えた。
赤い――。
古典派の絵が済んだ透明な空気の中に描かれているとするならば、ウジェーヌの絵は空気にいつも色がある。陰鬱な紫、おどろおどろしい暗緑、不安を誘う黄昏の黄色……。
そして激情の赤。
絵の中で、宝飾品を身につけた裸の女が屈強な男たちに殺されている。何人も殺されている。事切れて寝台に突っ伏す女もいれば、今まさに刃にかけられんとしている女もいる。逃れようと身をよじる女もいれば、絶望に満ちたうつろな視線を宙に投げる女もいる。王の白い馬も、赤い頭巾をかぶった地獄の使者のような男に殺されようとしている。虐殺の場には、きらびやかな宝物が散乱している。画面全体が赤い炎で燃え盛るようなのに、王様だけが冷ややかに、この残虐な光景を眺めている。
(こういうの――)
こういうの、最後に観たのいつだっけ――。殺戮。殲滅。阿鼻叫喚。画面全体、主人公の激情を表す不穏な色で覆われ、カメラワークはせわしなく飛び、声優は絶叫して、音楽は美しく、表現ぜんぶがひとつになって、胸に手を突っ込んで心臓を鷲づかみにしてくるような、そんな劇的な――。
あれはアニメだった。
現実にはない光景。
人の手による表現の中にしかない、劇的で鮮烈な架空の光景。
現実にはなくとも、画面の中に、表現の中に、確かに存在する強い強い光景。
人の心の中の世界。
(わたし、こういうのが好きだったの)
二十世紀末の人間界で。漫画で。アニメで。ゲームで。
人の心の中にしかない、強い強い光景を観るのが、好きだったの――。
それは人の心の不思議。天使のジェニーが惹かれてやまない、人の心の美。おそろしいもの、醜いものの中にさえ、天啓のように入り込む美の奇跡。
どうして天使は、天使なのに人を愛することがあるのかしら。
それはきっと、人の心は天使の想像がつかない美の世界を映し出すことがあるから。
ひとりひとりが心のうちに、自分だけの美の世界を持っているから。
目を閉じて。
世界を精神の目でみて。
いつだったか、ウジェーヌは、ジェニーに言ったことがある。
「精神が必要とする糧は、ときに肉体に必要な糧より大切だったりしないかい?」
(よくわかるわ、ウジェーヌ。わたし、漫画もアニメもない十九世紀では、なかなか精神の糧を見つけることができなかったの。ウジェーヌが導いてくれたから、この時代のこの国で、精神の糧を見つけることができるようになったの。そして今、あなたの描く絵そのものが、わたしの精神の糧になったの)
ジェニーはウジェーヌの赤い絵の前から、離れることができなくなった。
心が求めるままに、赤い殺戮の絵を眺め続ける。赤い殺戮の絵に魅入られ続ける。
紀元前七世紀のアッシリアを描いた、赤い殺戮の絵――。
題名は、『サルダナパールの死』。