7・1827年 パリ③
「どういうことなんですか~」
「『時越え』研究の副作用かな……。魔界の領地、時空が歪んじゃってるのかも」
「あの岩場、時間の進みが遅くなっちゃってるんですか……。そんなことが」
「起こり得ないとは言いきれない」
「あうう……」
とりあえず、かつて住み慣れた一区に『空間越え』で跳んできた。貴族的な大邸宅に囲まれたヴァンドーム広場、にょっきりとそびえ立つ戦勝記念柱。ひさしぶりに心躍らせるつもりで来た人界だけれど、ジェーンはなつかしい広場の風景にわくわくするどころではなくなってしまった。
「魔界の領地と人界の時の流れが、違っちゃったっていうことですか? まさか、これからずっと……?」
「一次的なことで済めばいいんだけど……。調べてみないとわかんない。どうなるか」
「……」
「とりあえず今日、どこ泊る? 下宿無理だし、ホテルでもとって……」
「下宿……あっ! フェリ大変! 『扉』、ほったらかしてきちゃいましたよ! 新しい下宿人の人が魔界に落ちたら――」
「あー! 忘れてたあ! やばい、ちょっと戻って封印してくる。ジェニーはそこらへんで待ってて。ついでに、またあの部屋借りられるように交渉してくる。金の力でなんとか捩じ伏せてやるわ」
フェリはそう言い残すと、広場から街道のほうへ走って行った。人目のある広場で『空間越え』するわけにはいかないから、どこか物陰から跳ぶのだろう。
フェリの後ろ姿が路地へ消えるのを見届けて、ジェニーはあらためて広場を見回した。
ヴァンドーム広場は四方を石造りの建物で囲まれているため、あまり広さを感じない。息苦しいと言えば息苦しい。テオドールが敵視していた、古典派の絵画のように息苦しい。芸術作品を買い上げるセレブの住む界隈がこんなふうにできているんだから、画壇の主流が堅苦しい絵なのも仕方ないのかなあとも思う。
ジェニーは官展で見た、神話や歴史ばかりを描いた生真面目な絵画群を思い出した。つるつるしたリアルCGみたいな仕上げの、きれいだけど迫力のない絵。
火山ジェリコーが倒そうとして果たせなかった、理性主義の厚い壁。
時代の主流はまだああいうリアルCG風味なのかしらん……。
(ウジェーヌどうしてるかなあ……)
テオドールの意思を継ぎ、ウジェーヌは古典派が幅をきかせるフランス画壇で独自路線を切り開いて、個性派としてなかなか勇敢に戦っていたのである。
ウジェーヌははじめて入選した官展で、政府買い上げの栄誉を受けている。なんでも画壇の大御所に「第二のルーベンス」と激賞されたらしい。
ネロの夢を叶えちゃったんですよ。あの弱気なウジェーヌが。
エリザベスに告白もできないまま、友達にかっさらわれたウジェーヌが。
エリザベスをかっさらっていったのは、あの水彩画描きの友達らしい。ウジェーヌはショックでへろへろになっていた。
青春だったなあ。
あのときはなぐさめるのが大変だったわ……。
「もう恋なんてしない」なんて青色吐息だったけど、その後恋人くらいできたかしら。
(まあ、できたでしょうね。だってもう二十代も終わりじゃないの。恋人のひとりもいなかったらヤバイわ。でもああいうタイプは女になかなか縁がないから……ううーん)
なんで自分はウジェーヌの恋の心配をしてるんだと我に返る。
年の離れたお兄さんとお姉さんがいる末っ子だからか、ウジェーヌはどこかカワイイというか、母性本能くすぐり系で困る。世話を焼きたくなってしまう。
(フェリが戻ってきたら、ウジェーヌを探しにいこう。会いにいこう)
ジェニーはそう決めて、昔住んでいたなつかしい高級アパルトマンを見上げた。
あの部屋に住んでいたころは、夢みたいに贅沢な暮らしをしていた。毎日きれいなドレスを着て、ゴージャスなインテリアに囲まれて、家事はぜんぶメイド任せ。二十世紀にいた頃、憧れてやまなかったお嬢様みたいな暮らし。
けれど、ジェニーは思う。
そんな暮らしも、ウジェーヌに出会えなかったらきっと退屈だった。
(彼に会えてよかった。友情は時代を越えるのね。うふふ)
はやくフェリ帰ってこないかなあと思い、ジェニーは通りに目をやった。そしてそのときようやく、アパルトマンのおなじ窓を見上げている青年に気付いた。
くせのある黒髪。やさしげな雰囲気。流行を追わない、配色に気を配ったさりげなくオシャレな着こなし。
あの人は……。彼は……。
「ウジェーヌ!」
ジェニーのよく通る高い声に、青年がびくりとこちらを向く。
しばらく会わないうちにずいぶん大人びた。いっぱしの立派な紳士に見える。
なのに彼はあわあわと口を開けたり閉じたり、態度がちっともしまらない。
あいかわらずね。
ジェニーはうれしくなって満面の笑みを浮かべた。そしてはきはきした大きな声で「会いたかったわ!」と言いながら、はずむ足取りでウジェーヌに駆け寄った。
「ジェニー……」
ジェニーとは対照的にささやくように言う彼は、なんだか少し泣きそうに見えた。
「ひさしぶりね! ずいぶん大人っぽくなったのね、ウジェーヌ」
「ひさしぶりって……ひさしぶりって……今までどこに行ってたのさ? 探したんだよ、君のこと……。急にいなくなるから心配してたんだよ、ずっと」
「ごめんね。フェリシテが神経衰弱になってたから、一緒に田舎で静養してたの」
「どこに行くかくらい教えてくれたってよかったじゃないか。こんな長いことパリをあとにするのなら」
「こんなに長く行ってるとは、わたしも思わなかったのよー。ごめんね。それより、がんばってるみたいね、ウジェーヌ。画壇のくわしい動向はしらないんだけど、順調そうじゃないの!」
「……順調なんかじゃないよ」
「えっ、そお? 最初に出したサロンですっごくほめられてから、快進撃なんじゃないの?」
日に日に大きくなってゆくウジェーヌの『泉』を見ているかぎり、彼の成長ぶりに陰りはないように思えた。
もっとも、『泉』は情熱の度合いを示すもので、出世の度合いを示すものではない。
けれど世の中に認められることなくして、情熱を燃やし続けるのはむずかしいのではないかと思う。
「快進撃どころか悪評でボッコボコだよ……」
「悪評があったのは最初っからじゃないの。注目作に悪評なんて付きものでしょ」
ジェニーは絵の評価なんてさっぱりわからない。
ウジェーヌの作品は「なんじゃこら! ダメだろ!」という保守派の批評に「いやいや、新しさ満載ですよ」という新しもの好きの批評がぶつかって、勝手に有名になってゆくということだけはしっていた。大多数になまぬるく「いい」と評価されるより、そのほうが尖っていてカッコイイと思う。
ウジェーヌのサロン入選作を観たとき、ジェニーは笑ってしまった。
ウジェーヌのデビュー作「ダンテの小舟~冥界の川スティクスを渡るダンテとウェルギリウス~」は、「どうよ俺様の考えた地獄絵図?」を堂々とサロン向けに描いた作品だったのである。
ダンテの『神曲』の中にはないシーンだし(つまり二次創作?)、しかも冥界の亡者たちが亡者のくせに全員筋肉マッチョ。そりゃ笑えるってものだ。
「悪評なんかにめげちゃだめ! あんたネロがなれなかったルーベンスの後継者なんだから!」
「そう言うなよ……。僕を『第二のルーベンス』って評してくれたグロー男爵に、その次のサロン作品を『絵画の虐殺』ってボロッカスに言われたよ。手のひら返された……」
「『絵画の虐殺』! デストローイ! カッコイイわよ逆に。なんかパンクよ、パンク!」
「……あいかわらず君はなに言ってんだかわからない」
「あははー。ごめんねー」
「でも、君のなに言ってんだかわからないなぐさめが聞きたかったんだ。今すごく、聞きたかったんだ。僕も会えてうれしい……ありがと」
ウジェーヌはなつかしさと安堵が入り混じった、せつなげな瞳をジェニーに向けた。
ジェニーはしんみりしてしまった。
彼は、絵画のことなどなにもしらない自分のなぐさめを必要としてくれていたのだ。
そこまで必要とされているとは思わなかった。
なにも告げずに姿を消して、わるかったと思った。
「ウジェーヌ……。突然いなくなっちゃって、ごめんね」
「うん。でもまた会えたから、いいよ。ジェニーはぜんぜん変わらないね」
「ガッカリした? 大人っぽくならなくて」
「ううん。変わってなくて、うれしい」
ウジェーヌは照れたように頬を掻きつつ、はにかんだ笑顔になった。やさしげな雰囲気は昔と変わらなかったけれど、どことなく以前より頼もしさと余裕があった。
あなたは結構変わったわ――。
うさぎさんみたいにかわいかったのに、なんだか精悍になったわ。
そう言おうと思ったのに、なぜか言葉が出なかった。
ウジェーヌ――素敵になったわ。