6・1820年~ 魔界②
テオドールが死んで以来、フェリがさっぱり人界に出なくなったので、ヴァンドーム広場の高級アパルトマンは引き払っていた。
無感情ながらも結局なんやかんやとジェニーの面倒を見てくれ、家事も教えてくれるようになったエデと別れるのはつらかったけれど、アパルトマンの維持費を捻出するために『魄』を石にして切り売りするわけにはいかなかった。
テオドール亡き今、彼の影響を受けた若い画家たちが生みだす『魄』は、すべて『時越え』の研究に消える。
流行のドレスで華やかに装い、クルティザンヌよろしく艶やかな笑顔で花の都を闊歩していたフェリは、もういない。質素なドレスで着の身着のまま、毎日紙に向かってペンを走らせている。なにやら計算しながら髪をわしわし掻きむしり、ときおり血走った目を宙空に向けてぶつぶつつぶやいたりする。テオドールは狂人の絵もよく描いたから、今のフェリを見たら筆を走らせたくなったかもしれない。
そんなテオドールはもういない。
フェリの領地に、テオドールの『泉』はもう存在しない。
フェリが愛したテオドールの情熱の炎は、彼の病の進行とともに小さく萎み、消えた。
燃え跡に小さな赤い石をひとつ残して――。
フェリは炎が消えゆく瞬間を静かに見届け、岩の上にぽつんと残る赤い石をそっと拾い上げた。
ジェニーはそのときはじめて、フェリが泣くのを見た。
フェリは声を出さずただ一粒の涙をこぼしただけだったけれど、赤い石を握りしめた手を胸に置いて、何時間もずっとその場に立ちつくしていた。テオドールの情熱の証がなくなり、代わりに若い画家たちの情熱が燃え盛る岩場に――。
テオドールの情熱の炎は、彼が影響を与えた若い画家たちの炎に囲まれながら、最後の輝きを燃焼させた。おもいのほか早く枯れてしまったとはいえ、周囲に多くの『泉』を派生させたテオドールの『泉』は、いい『泉』だったと言える。
テオドールの死後、フェリはもうほかの『泉』なんかどうでもいいみたいだった。
とり憑かれたように『時越え』の研究に没頭して、『泉』を守る結界の維持を忘れる。泥棒悪魔がちょこちょこ入り込んでくるから、ジェニーは人界に長居することができなくなり、ウジェーヌとも疎遠になってしまった。
いや、疎遠とは言えないかもしれない。
テオドール・ジェリコーの『泉』が生んだ小さな『泉』の中で、一番の成長株はウジェーヌのものだった。赤々と燃え盛っていたテオドールの炎と対照的な、陽炎のようにゆらめく暗緑色の炎。
ジェニーは毎日、ウジェーヌの情熱の証である彼の炎を眺めている。
テオドールの炎は成長するときまさしく噴火のように大きく燃えあがったけれど、ウジェーヌの炎は安定した大きさを保ちながら、じわ、じわ、とゆっくり大きくなっていく印象だった。
ジェニーはウジェーヌの炎に「がんばってね」と毎日心の中で声援を送っている。
ジェニーが人界へ行かなくなった理由はもうひとつある。フェリがおかしくなっていたことが大きかった。
フェリは「だめ。これじゃだめ!」と叫び、計算を書き連ねた紙をびりびりと引き裂いては、箍が外れたように毎日ぼろぼろ泣いていた。そのたびにジェニーはフェリに寄り添って肩を抱く。
ジェニーの腕の中で、フェリはふるえながら泣き続ける。「たどりつけない。たどりつけない」とつぶやきながら……。
彼女が「たどりつきたい」と願う場所が、ジェニーには言われなくともよくわかった。
一八二二年。テオドールが落馬する前の時間に、フェリは行きたかったのだ。おそらく彼が馬に乗るのを止めるために……。
発作のようにむせび泣きながら、フェリは赤い石を握りしめる。
ジェニーはフェリの背中をさする。
天界に、神様はいない。けれどジェニーは思わずにはいられない。
神様、どうして、フェリからあの赤い情熱の炎を奪ってしまったのですか。
どうして、彼だったのですか。
彼にはまだ、やり残したことがたくさんあった。
なのに、なぜ彼を召されてしまったのですか。
どうして。なぜ。
人は、このような理不尽を、どうやって乗り越えていくのだろう。なぜ死にゆくのは彼なの。なぜ苦しむのは彼女なの。
答えはどこにもない。
どこにもないから、人はどこにも答えがない問いを、絵画に、彫刻に、落とし込みなぐさめを得るのかもしれない――。
「たどりつくわ。あたし、きっとたどりついてみせる――」
ひとしきり泣いたあと、フェリは立ち上がる。そして再び計算に向かい、フェリにだけ思い描ける『時の扉』を仮想し、目を細め宙を見据える。
一八二二年につながる『時の扉』が、フェリの力で開けばいい。
けれど……。
ジェニーはそっと目を伏せた。
フェリ様は――未来のフェリは言っていた。『時越え』で死んだ者を蘇らせるのは、大きな禁忌――もしそのような行為があったら、阻止するのが時の天使の役目――。
このフェリが、一八二二年に到達したら。
そこにはあのフェリ様が待ち構えているかもしれない。
フェリがテオドールを助けることを阻止するために……。
(フェリ様……)
あのフェリ様の指には、赤い石の指輪がはまっている。フェリは歳を重ねてもなお、テオドールを想ってる。けれど、責任ある第二階級フェリ様は、決してテオドールを蘇らせることを堕天使フェリに許さないだろう。過去の自分を阻止するだろう。
このフェリに、もうやめて無駄なのよと言いたかった。
でも、言えなかった。
そんなことを言ったら、テオドールを助けることだけを頼りに日々を送る、このフェリはどうなってしまうのか、ジェニーは考えるのがこわかった。