6・1820年~ 魔界①
近頃、フェリはあまり人界へ行かない。
魔界の自分の領地に居座って、テオドールの『泉』の赤い炎をぼんやり眺めて暮らしている。
テオドールの『泉』は、ジェニーがはじめて見たときよりふたまわりほど大きくなった。
その上、小さな『泉』がテオドールの『泉』を囲むように点在するようになっていた。彼が古い画壇を打ち破ろうとする情熱は、自由な表現を求める若い画家たちに順調に伝染している。
岩場に腰を下ろしたフェリは、大きくあくびした。
「ひまなら『時越え』の研究に打ち込めばいいじゃないですか」
日頃のフェリのだらけっぷりに業を煮やしているジェニーは、とげとげしく言った。
フェリは『時越え』開発の第一人者になるはずなのに、いつまで経ってもその気配が見えない。人界では過剰なほどお洒落するのに、魔界では髪も結わずにだらしない格好で、岩場の片隅のほったて小屋でうだうだ寝てるか炎を眺めてぼんやりしてるかだ。傍で見ていてイライラする。
「気分じゃない」
「だったら人界でも行って、ちっちゃい『泉』の主でも励ましてきたら?」
「あんたが行けば? なかよしでしょ、ウジェーヌと」
小さな『泉』の中にはウジェーヌの炎もある。暗い緑にちらちら赤が混ざる地味な炎だ。ウジェーヌらしい炎だなあと、ジェニーはなんだかほほえましく思う。
「ウジェーヌは今パリにいないんです。田舎のお兄さんの家に行っていて……。あ、もしかしてフェリも、テオドールが今パリにいないから人界行く気がしないんじゃ?」
フェリはじろりとジェニーをにらんだ。図星らしい。
恋人の場所には座らせてもらえずにいるけれど、フェリはまだテオドールをあきらめていない。案外一途なのだなあと感心する。
好意的に考えれば、フェリがアルベールだのジョルジュだのベルトランだのと遊んでいたのは、はっきりしないテオドールの態度に対する憂さ晴らしだったのかもしれない。
テオドールにきっぱりふられてから、フェリはすべての男性関係を解消してしまったから、なにかふっ切ったことは確かなのだろうと思う。
ジェニーがはじめてアトリエを訪れたとき、テオドールがその構想を活火山のごとく熱く語っていた「メデュース号の筏」は、官展でセンセーションを巻き起こした。
神話や古典や歴史上の英雄、そんな穏当な画題が当たり前とされている画壇に、まだ人々の記憶に新しい事件の絵をぶちこんだのだから、そりゃ話題にもなる。フランス海軍船の沈没と、筏で漂流した乗員の悲惨な死。政治的かけひきで地位を得た艦長の無能が引き起こした人災を、彼は卓越した想像力と圧倒的な画力でもって、生と死のドラマとしてなまなましく描き出した。
けれど「メデュース号の筏」はサロンで話題をかっさらいながらも、政府買い上げの名誉を授からなかった。画題が画題だけに「フランス政府に楯突こうってのかコラ」と思われたらしい。
それに怒った火山テオドール・ジェリコーは「メデュース号の筏」をひっさげて、今イギリスに行っている。政治的しがらみのないイギリスでは大好評らしい。その行動力たるや、やはり熱い人だ。
フェリがまたあくびした。
「『時越え』の研究はともかく、わたしが通ってきた『扉』を開く努力は? 『魄』ならだいぶ溜まったじゃないですか」
「ああ。あれ、ムリ」
「はあ!?」
「自然消滅じゃなかったみたい。なんでかしらないけど、超強力に封印されちゃってる。第三階級以上が封印した可能性アリね。あんた日本でどんな使命受けてたのよ?」
「……くわしくはしらされてないんです。わたしが思うに、上層からの命令じゃなくて上司の個人的な企みに参加させられてたんじゃないかと」
「ひー。ヤな上司。どんなやつよ?」
あんただよ!
もうこっちのフェリにあっちのフェリ様のことを言っちゃってもいいんじゃないかと迷っていたら、フェリがらしくもなく深いため息をついた。
「どうしたんです?」
「……天才ってさー、ひとりでどんどん行っちゃうのね。あたしなんかの愛もいらなきゃ、励ましすら必要ないのね……」
天才の炎に照らされたフェリの横顔は、なんだかとてもさみしそうだった。
けれど火山のごとき天才は、結局どこにも行けなかった。
落馬事故が原因で脊椎カリエスを悪化させたテオドールは、一八二四年一月、三十三歳の若さで骨と皮のようになって死んだ。
「まだ、なにもしていない」と言い残して。
フェリが『時越え』の研究にのめりこむようになったのは、それからだった。