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5・1818年 友達⑥


 ウジェーヌのアトリエを出ると、もう日が暮れかかっていた。

 モンパルナスの安下宿へ行って、『扉』を通って魔界の『泉』の様子を見てくるつもりだったけれど、明日にしようかどうしようかジェニーは迷っていた。

(フェリはまだベッドの中でうだうだしてんのかしらね……)

 まったく、あのフェリが。男にふられたくらいで。いつまでもうじうじと。

(一度ふられたくらいで寝込んでたら、わたしなんか寝たきりよ、寝たきり)

 そんなときはおもいっきり甘いものを食べるに限る。ジェニーはフェリにタルトでも買っていこうと、商店の並ぶ表通りのほうへ足を向けた。

「天使よ」

 ふいに背後から呼びかけられた。

 戦闘属性のこの自分が、なんの気配も感じなかった。

 ぞっとしてふりかえる。

 空き家の古びた石壁に寄り添うように、腕を組んで立つ金髪(ブロンド)の青年。

 忘れはしない。十九世紀に来てから、フェリ以外の天使はひとりしか見ていない。

 古代彫刻のように見事に均整のとれた体を、フロックコートでかっちりと包み込み、彼はまっすぐジェニーを見ていた。

 高貴で硬質な面差し。官展(サロン)に来ていた天使だ。名前はたしか……パルキス。

「……なんのご用でしょう」

 逃げ出そうかと思った。過去の天使と接触することは禁止されている。

 しかし、おそらく逃げられないだろう。鋭敏な戦闘属性のジェニーに気配をまったく悟らせなかった彼は、ジェニーよりずっと階位が上のはずだ。

「パリに使命で訪れている天使は全員把握している。しかしおまえは見ぬ顔だ。さては堕天使か」

「……」

「堕天使。官展(サロン)にいたな。美術家の熱情でも食らうつもりか」

「そんな、食らうだなんて……」

「『(はく)』を湧かせるような人間は、堕落者だ。『魄』を糧にする堕天使同様、堕落者だ」

 なにを言っているのだろう。ジェニーは眉をひそめた。

「『魄』を湧かせる熱情――歓喜――陶酔――狂騒。これらはすべて、人間の正しい歩みを邪魔する。人間が正しく生命を全うすることを阻害する。私は熱情が人間理性を妨げるものと判断し、熱情をあおる人間個体を排除することを、天界上層に提案するために調査している」

「排除……? なんのために」

「人間の文明を正しい方向へ導くために。『魄』で魔界を潤す熱情など、人間には不要。人間に必要なのは理性であり、人間は理性に準じた正しい生を全うし、『(こん)』を天界にもたらせばそれでよい」

「……つまり『(はく)』で魔界が豊かになってもらっちゃ困るってことですか」

「『魄』は麻薬のごとし。天使すら『魄』を求めて堕落する。おまえのように」

 わたしは堕天使じゃない。そう言い返そうと思ったが、言ったところで説得力はない。ジェニーはただただ、天使パルキスの仮面のように整い過ぎた顔を見つめた。

「天界にとって多少都合が悪くとも、人間にとってなにかを求める熱い気持ちは、大切なものだと思います……!」

「そうか? 熱情で身を滅ぼす人間のなんと多いことか。少々人界を見回せばわかることであろう。恋の陶酔に身を滅ぼす者、賭博の狂騒に身を滅ぼす者、覇権の欲望に身を滅ぼす者――。熱情に取りつかれた者は未熟な子供のように己しか見ぬ」

「でも……!」

「理性。ようやく人間は大々的に、理性の重要性に気付きはじめた。人界は欧州を皮切りに、理性的に、合理的に、整えられてゆく。理性の認識しうるものだけが現実に存在する権利を持つ。人間社会は過去何度も理性による改造の機会を得た。そしてその都度、熱情によりその正しい歩みを阻まれてきた。今度こそ邪魔立てはさせぬぞ、堕天使」

「わたしは堕天使じゃない!」

「人間の熱情を煽り『魄』を得ようとする存在を堕天使と言わずしてなんと言う?」

「わたしは……きゃっ!」

 ジェニーは咄嗟にしゃがみこんだ。頭の上にぱらぱらと石くずが落ちた。ふりかえらずとも、パルキスがジェニーの頭部を狙って放った破力が、背後の壁を破壊したのがわかった。なんの物音も立てずに……。

「排除……」

 パルキスが不穏につぶやく。

 ジェニーは路地裏を走った。

 背後を振り返らず、襲い来る破力の気配に全神経を集中させ、攻撃が来たら即座に避ける。今度はジェニーのかわりに止めてあった荷車が傾いた。

 破力を避ける訓練は未来の天界でさんざん受けてきた。フェリの指導のもと、真面目にきっちりこなしてきた。なんのためにこんな厳しい訓練するんだと、不思議に思いながら――。

(このためだったのか――――っ!)

 とにかく人通りの多い場所に出ようと思った。

 天界所属の天使なら、上層に無許可で人間を傷つけることはない。人間を巻き込みそうな大通りで殺戮などしないはずだ。

 しかし。

(どっち? どっち? どっちが大通り? わかんなくなっちゃったーっ!)

 迷路のようなパリの裏路地を、ときおり音もなく放たれる攻撃をかわしながら、あたふたと逃げまどう。ようやく路地の先に馬車の姿を見た。よかった、馬車が通れるくらい広い道なら――。

 希望が絶望に代わった。路地の先は大通りにつながっている。しかし行き交う馬車、通り過ぎる人々を背景に、路地を塞いで悠々とジェニーの前にパルキスが立っていた。

(この天使、『空間越え』もできるんだ)

 万事休す――と思うのはまだはやい。

 ジェニーは足を大きく開いて身構えた。

 武器はない。

 でも、やる。戦う。

 パルキスが悠然と微笑んだ。ジェニーの背に緊張が走る。

 来るならこい……!と思ったそのとき、突然背後から細い腕に抱きつかれ、足元の地面が消えた。


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