5・1818年 友達③
マンガもアニメもゲームもない退屈な十九世紀で、ジェニーにとってウジェーヌの存在は心底ありがたかった。
ヴァンドーム広場の近くにはあの水彩画描きの友達が住んでいたから、友達を訪問がてら、彼はフェリのアパルトマンに立ち寄ってくれた。
ジェニーとウジェーヌが話す内容と言ったら……。
「どうよ。俺様が考えた地獄の第七層第三ブロック」
「おおーっ。怪物ゲリュオンカコイイ! でもいつも思うんだけど、ウェルギリウスはもっと若い美形に描いてください」
「えーっ。そんなの貫録ないよ」
「いいの。なくても。女子的にはここ絶対美形キャラの場所だから」
なんの話かと言うと、ダンテの『神曲〈地獄篇〉』の話である。
ダンテが敬愛する詩人ウェルギリウスの案内で地獄めぐりをし、ダンテ自身が「地獄に落ちちゃえばいいのに」と思っていた知り合いばっかりに会うという、私憤が御愛嬌なお話 (ちがうか)。
ウジェーヌは地獄とか殺戮とか戦闘シーンとかが大好きらしい。それでもって躍動する筋肉男がすさまじく上手いから、少年マンガ家になることをおすすめしたい。
(ここにないけどそんな職業。才能あるのに。残念無念)
でもたとえマンガ家って職業があったとしても、ウジェーヌはやりたがらないだろうなとも思った。生活のために大衆向けの風刺画を描くこともあるらしいけど、彼は「無教養な大衆向け」が嫌いだった。
貧乏なくせに貴族趣味なんである。お高くとまっているのである。
そこらへんちょっと友樹にも似ているので、友樹にさんざんバカ呼ばわりされていたジェニーは、ウジェーヌに「無教養」とののしられることくらい、気にもならない。ジェニーが気にしないので、ウジェーヌのほうも調子に乗ってずけずけ言ってくる。
こんなことがあった。
「今日はルーブルでなにを模写したの?」とジェニーがたずねたら、「言っても無教養な君にはわかんないだろうけど、『マリー・ド・メディシス』の中のひとつ。ルーベンスは一番好きなんだ」とウジェーヌは答えた。
ルーベンス。なんか聞き覚えがある……。
「あ―――!」
「わっ。なんだよ」
「ルーベンス! ネロが死に際に観た絵じゃないの!」
「ネロって誰?」
「ネロって言ったら『フランダースの犬』よ! ネロは絵描きを夢見る貧しい少年で、ルーベンスが大好きなの。愛犬パトラッシュといつも一緒で……」
ジェニーは『フランダースの犬』、伝説の最終二話を語った。おじいさんが死に、ひとりぼっちになってしまったネロ。たったひとつの希望だった絵のコンクールにも落ちてしまったネロ。風車小屋に放火した疑いをかけられてしまったネロ。村じゅうが敵になってしまい、吹雪の中絶望して村を出るネロ。ずっと一緒だったネロを追いかける愛犬パトラッシュ。コンクールの審査員のひとりが「ネロはルーベンスの後継者になれる。彼を引き取りたい」と村にやってくるが、時すでに遅し。家にネロの姿はなく――。
「ネロは大雪の中、やっとの思いで大聖堂にたどりつくの。大聖堂に向かう道すがら、笑い合うミサ帰りの家族たちとすれちがうの。でも、たったひとりの肉親だったおじいさんが死んでしまったネロには、もう笑い合う家族はいないの。家族も居場所もなく、画家になる夢も潰えてしまったと思い込んでいるの。なにもかもなくなってしまったと思って、心も体も凍えそうなネロ……ネロは倒れそうになりながらたどりついた大聖堂で、パトラッシュと一緒にルーベンスのキリストの絵を観るの。いつもはカーテンがかかってるんだけど、その日はクリスマスだったから、カーテンが開いていて……ついに観ることができたの。憧れてやまなかったルーベンスの絵を」
ジェニーはネロがルーベンスの絵を見てマリア様に感謝するところから、パトラッシュとともに死の眠りに落ち天に召されるまでのシーンを、セリフを交え身ぶりを交え、詳細に再現した。
そして締めとして「ア~ヴェマリ~ア~♪」と、ネロが天に召されるシーンに合わせて曲を歌った。
音程があやしかったせいだろうか。
途端に、涙目で遠くを見ていたウジェーヌが我に返った。
「――メロドラマじゃないか!」
「泣きそうなくせになに文句つけてんの」
ウジェーヌは袖でぐしぐし涙をぬぐった。
「ル、ルーベンスは、ミケランジェロから絵画の改革の意志を継いだんだ! 時代の本質を表明するために、主流からはずれることをおそれず新しい表現形式を創造する意志を! ネロみたいな無教養な村の子供に、ルーベンスの本当の価値なんてわかるわけないじゃないか。ふん!」
「なに言ってるかわかんないけど、超かんじわる~」
「無教養な大衆メロドラマが嫌いなんだよ!」
「泣いたくせに」
「うるさーい!」