4・1818年 パリ④
南京虫だらけの安下宿と、最初に連れていかれた小汚い賄い食堂の様子から、フェリは人界にいるときは貧乏暮らしをしているのだと思った。
ところがどっこい、貧乏は仮の姿らしい。
『泉』を守るのに協力してもいいとジェニーが申し出たら、フェリは「だったらあたしの素敵なアパルトマンで、優雅に楽しくに暮らしましょ」と言って、モンパルナスではなくパリのど真ん中にジェニーを連れていった。
フェリの住まいがテュイルリー宮殿やらルーブル美術館やらがあるハイソな地区だと知り、ジェニーはたじろいだ。
今日も今日とてフェリはごきげんな様子で、花や鳥が刻まれたゴージャスな金縁の鏡に向かい、マシュマロみたいなパフを薔薇色に染めて、ポンポン頬紅をはたいている。フェリが行儀悪く組んだ足の先に、履き口を毛皮で縁取った華奢な部屋履きがゆれる。
「お金持ち(ブルジョワ)みたいな暮らししてるのに、どうして貧乏な格好でテオドールに会いに行くんですか?」
不思議に思ってジェニーは尋ねた。
「だって画家のモデルごときがブルジョワ風吹かせてたらおかしいじゃない。モデルは芸術家連中に近づくためにやってるだけ。モデルが一番画家の懐近くにもぐりこめるからね。モンパルナスの安下宿は、たまたまあの部屋に『扉』が開いたから借りただけ。さ~今日は観劇よ~ん。待っててオペラ座、今行くわ~」
「お金どうしてるんですか?」
「テオドールの『魄』をちょっとずつ石にして、人界にいる悪魔に売り飛ばして稼いでる」
「はあ!? 『魄』は研究のためにつかうんじゃないんですか!?」
「息抜き、息抜き」
あきれたジェニーがなにか言い返そうとすると、女中が来客を告げた。
寝室からいそいそと客間に向かう開いたドレスの背を見送りながら、ジェニーはフェリが絨毯にとっちらかしたショールやら手袋やらを拾い集めた。どれも毛皮や絹でできた上等な品だ。フェリ宛てに男性からしょっちゅう贈り物の箱が届くから、この服飾品も贈り物だろう。アパルトマンの門番も、女中のエデも、フェリのことを高級娼婦だと思っているようだ。無理もない。
今日のフェリのお相手は、アルベールだったかしらジョルジュだったかしらベルトランだったかしら……。
(まさかフェリ様、本当に娼婦のまねごとしてるんじゃないでしょうね……?)
ジェニーはなんだか心配になってきた。
寝室を抜けだして客間に忍び寄る。
しかし客間の前で、さあドアに耳をくっつけて中の話を盗み聞きしましょうという段になって、ジェニーはようやく「わたしなにやってんの……」と我に返った。娘の援助交際を疑う母親みたいだ。
十九世紀のフェリはどこか浮ついていて頼りないから、ついつい気にかけてしまう。二十世紀末でも上司フェリとマンションで一緒に暮らしているけれど、あちらではもっぱら自分が面倒をみてもらう立場だから、変なかんじだ。
ジェニーは自室に戻ろうとくるりと踵を返した。
その途端、客間のドアが開く。
ドアを開けたのは、最新流行のスーツで身を固め、喉元を絹のタイで飾った美青年だった。と言っても、フェリに会いにくる客はすべて流行の装いに流行の髪型で同じように完全武装した洒落者ばかりなので、アルベールだかジョルジュだかベルトランだか、正直言って思い出せない。
「ぼっ、ぼっ、ボンジュー」
「Bonjour」ではなく「盆銃」の発音で、ジェニーはアルベールだかジョルジュだかベルトランだかにあいさつした。アルベールだかジョルジュだかベルトランだかは、無関心で投げやりな笑顔をジェニーに返してよこした。
無関心で投げやりな笑顔。わかりやすく言うと、めんどくさそうな笑顔。
むか。
(わたしこの手の気取ったオシャレ男子苦手なのよ!)
二十世紀末の日本だったら、アルマーニ着て青山のデザイナーズマンションとかに住んでるタイプ……?とか思いつつアルベールだかジョルジュだかベルトランだかの無個性に整った顔をながめる。彼は美しいフェリには関心があっても、子供っぽくて洗練もされていないジェニーにはひとかけらも興味がないようで、フェリのためにドアを押さえ、フェリが出てくると騎士のように付き従い、ジェニーを無視して廊下を進んだ。
フェリだけがふりかえってジェニーに声をかける。
「じゃあジェニー、行ってくるわね」
完璧な化粧をほどこし見違えるほどエレガントに装ったフェリは、ヴァンドーム広場の優美なアパルトマンから、ぴかぴかの二輪馬車でダンディーと連れ立って出かけてしまった。
たまに庶民服でモデルの仕事に出かけていく以外は、観劇に音楽会に舞踏会にと、チャラチャラ遊び暮らしているようにしか見えない。
ジェニーは不安になってきた。「『時越え』の研究のため」なんて口実で、この時代のフェリは単に自堕落で享楽的な堕天使なのかもしれない……。
(堕天使の遊蕩のために絵を描く情熱を煽られてるなら、テオドールがかわいそうじゃないの。ぷんぷん!)