存在しない駅
午前六時四十三分。
東京駅のホームに、電車が滑り込んできた。
眠そうな会社員。
イヤホンをした学生。
片手にコーヒーを持った観光客。
いつも通りの朝だった。
誰も、ホームの端に立っている男を見ていなかった。
黒瀬玲は、スマートフォンの画面を見ながら、その男を横目で追っていた。
男は三十代くらい。
スーツ姿。
片手に黒い革の鞄。
特に変わったところはない。
ただ一つ。
駅の監視カメラには、男が映っていない。
玲は画面を閉じた。
「……またか」
小さく呟いて、男を見る。
男は何事もなかったように電車へ乗り込んだ。
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
玲も歩き出した。
駅を出て、駅前の古い喫茶店へ向かう。
店の奥には、玲が借りている小さな事務所がある。
看板には、
《黒瀬調査室》
とだけ書いてある。
探偵ではない。
法律関係の仕事でもない。
表向きは、企業や個人から依頼を受けて「記録上の矛盾」を調べる仕事。
だが、そんな肩書きを信じる人間はほとんどいない。
玲自身も、自分が何屋なのかよく分かっていなかった。
事務所に戻ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。
差出人はない。
玲は封を切った。
中には、写真が三枚。
一枚目。
東京駅。
二枚目。
昨日付けのニュース記事。
三枚目。
見覚えのない少女の写真。
玲の手が止まった。
少女は、十歳くらい。
白いワンピース。
肩まで伸びた黒髪。
笑っている。
その顔だけが、玲の記憶を強烈に叩いた。
玲は椅子に座った。
写真を裏返す。
そこには手書きで一文だけ書かれていた。
――『この少女を知っていますか?』
玲は写真を見つめた。
知っている。
なのに、名前が出てこない。
胸の奥が妙にざわつく。
そこでスマートフォンが鳴った。
画面には、非通知。
玲はしばらく眺めてから通話ボタンを押した。
玲:「黒瀬です」
??:「その写真、見た?」
玲:「誰だ」
??:「質問に答えて」
玲:「見た」
??:「じゃあ、次の質問」
玲:「何だ」
??:「昨日まで東京に存在していた駅を、知ってる?」
玲は黙った。
玲:「……駅?」
??:「そう」
玲:「駅名は」
??:「覚えてない」
玲:「ふざけてるのか」
??:「君も覚えてないはずだよ」
玲は窓の外を見る。
道路。
信号。
コンビニ。
何も変わらない朝の街。
??:「昨日まで、東京にはもう一つ駅があった」
玲:「何を言ってる」
??:「検索してみて」
通話が切れた。
玲はすぐにパソコンを開いた。
検索エンジンに、いくつかの駅名を入力する。
どれも知っている名前。
だが、その中に一つ。
どうしても思い出せない。
玲は東京の鉄道路線図を表示した。
路線を一本ずつ追う。
駅を一つずつ確認する。
そして――
地図上に、不自然な空白があった。
駅と駅の間。
本来なら、もう一つ駅が存在していてもおかしくない距離。
玲は古い路線図を探した。
すると、見つかった。
十年前の路線図。
そこには確かに、一つの駅がある。
駅名は――
《神代》
玲は眉をひそめた。
玲:「……神代?」
知らない。
聞いたこともない。
それなのに、なぜか胸が締めつけられる。
玲はネット上の古い掲示板を漁った。
神代駅。
利用者数。
周辺施設。
駅前の商店街。
写真。
大量の情報が残っている。
なのに、
現在の地図には存在しない。
削除されたのではない。
廃駅になった記録もない。
そもそも、
「神代駅が存在した」という記録そのものが消え始めている。
玲は保存されていた古い新聞記事を見つけた。
十年前。
神代駅で大規模な事故が起きた。
記事の見出しは、
《神代駅、一時閉鎖》
そこまでしか読めない。
次の瞬間。
画面が真っ白になった。
玲は顔をしかめる。
再読み込み。
記事は消えていた。
もう一度検索する。
何も出てこない。
さっきまで存在していた情報が、最初から存在しなかったように消えている。
玲:「……嘘だろ」
玲は机の引き出しを開けた。
その中には、十年前の写真が大量に入っている。
家族写真。
学校行事。
旅行。
玲自身の少年時代。
その一枚を取り出した。
家族四人で写っている写真。
父。
母。
玲。
そして――
その隣に、空白があった。
まるで最初から誰も立っていなかったように。
玲は息を止めた。
玲:「……なんだ、これ」
裏返す。
写真の裏には日付が書かれていた。
十年前。
その下に、小さな文字。
――『神代駅にて』
玲の指が震えた。
すると、事務所のドアが三回叩かれた。
コン。
コン。
コン。
玲は写真を隠す。
玲:「どうぞ」
ドアが開く。
一人の女性が立っていた。
二十代後半。
黒いコート。
長い髪。
手には、銀色のケース。
女性:「黒瀬玲さんですね」
玲:「そうです」
女性:「私は国立現実整合局の白石真琴」
聞いたことのない組織名だった。
玲:「……現実整合局?」
白石:「正式には、国家現実整合管理委員会(National Reality Consistency Management Committee )通称R.C.C。現場ではそう呼んでます」
玲:「随分と胡散臭い名前ですね」
白石:「あなたの仕事も、似たようなものでしょう」
白石は椅子に座った。
銀色のケースを机の上に置く。
そしてケースから、一枚の透明な板を取り出した。
普通のガラスに見える。
だが、そこには無数の数字と文字が浮かんでいた。
玲:「……それは?」
白石:「現実の整合性を確認する装置C.V.Dです」
玲:「現実の……何?」
白石:「整合性」
玲は黙って白石を見る。
白石:「あなた、さっきから神代駅を調べていますね」
玲:「なんで知ってる」
白石:「あなたは調べる必要がない」
玲:「どういう意味です?」
白石は一枚の写真を取り出した。
玲の事務所を撮影した写真だった。
その写真には、
机。
パソコン。
本棚。
椅子。
窓。
そして、
壁に飾られた家族写真。
玲は写真を見て凍りついた。
そこには四人が写っている。
父。
母。
玲。
そして――
一人の少女。
さっき封筒に入っていた少女と同じ顔。
白石:「この子は誰ですか?」
玲の喉が動いた。
答えが出てこない。
なのに、
知っている。
ずっと知っていた。
名前も。
声も。
好きだったものも。
笑い方も。
全部。
なのに、口から出てこない。
白石:「黒瀬さん」
白石の声が低くなる。
白石:「あなたの記憶には、この子がいる」
白石:「でも、この世界の記録には、この子がいない」
玲は写真を握りしめた。
玲:「……妹だ」
その言葉だけが、ようやく出てきた。
瞬間。
部屋の蛍光灯が一度だけ消えた。
真っ暗になる。
そして、
机の上に置かれていた透明な板が真っ赤に染まった。
白石が立ち上がる。
白石:「……まずい」
玲:「何が?」
白石:「今、誰かがこの部屋の現実を清算した」
玲:「は?」
窓の外から、
電車の走る音が聞こえた。
玲は無意識に窓を見た。
遠くにあるはずの線路。
そこを走る電車。
そして、その電車の側面に一瞬だけ文字が浮かんだ。
――神代。
玲の背筋が冷たくなる。
次の瞬間。
電車が消えた。
いや。
正確には、
**「そこに電車が走っていた」という事実だけが消えた。**
道路を走る車も、
通行人も、
誰一人として気づいていない。
白石だけが、青ざめた顔で窓を見ていた。
白石:「黒瀬さん」
玲:「……何ですか」
白石:「あなたの妹は、十年前に消えたんじゃない」
白石は玲を見る。
白石:「十年前に、存在そのものを清算されたんです」
玲は写真を見る。
少女が笑っている。
そしてその写真の隅に、
見覚えのない黒い文字が浮かび上がっていた。
――《欠番 001》
その瞬間、
玲のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前は、
**「妹」**
だった。




