前編
ゴールデンウィーク中にアップする予定だったけど間に合わなかった作品です。
前編、後編の二本立て。
ゴールデンウィーク真っ只中の五月四日、港区の市街地に建つ『早水エンパイアビル』の二十五階に七人の高校生が集まった。
このビルの二十五階は、たった一つのエリアで占められている。早水グループが運営する会員制サロンだ。普段は早水グループに属する企業の幹部クラスや、一握りの顧客しか入場することを許されないその場所は、今は七人の高校生のためだけに解放されていた。
サロンのマネージャーを務める四十半ばの男は、リビングルームで七人の世話役を担当している。彼はまるで一介のウェイターのように、一際目立つ雰囲気を醸し出す一人の少女に対し恭しく接していた。
日本経済の柱とも呼べる早水グループの現会長たる早水十三の孫娘、皐月だ。
皐月は、ここに集まった七人が通う西楼院高校において最も注目を集める存在ともいえる少女だ。
腰まで伸ばした長い黒髪。甘く柔らかな瞳。瑞々しい肌。モデルのような長身。勉強、スポーツ、芸術などあらゆる分野で他社の追随を許さない秀でた才能。物語に登場する貴公子のように凛々しく、生まれや能力に自信を持ちながらも決して高慢に振る舞わない。端的に言えば、早水皐月は完璧な人間だった。
そんな絶対的な強者である少女とともに、テーブルを囲むのは五人の少年。
新堂電工の現社長の長男、新堂拓真。
高名な外科医を擁する病院の院長の孫、成海修平。
作曲家の父親と女優の母親の子として生まれた指宿征四郎。
弁護士の父親を持つ相田稔。
西楼院高校理事長の三男、小宮涼。
彼ら五人は、学校内で皐月に最も近いと呼ばれる男子生徒だ。いずれも実家が財力と権力を持ち、高い発言力を持つ。加えて、五人とも眉目秀麗だった。彼らが甘い言葉の一つでも囁けば、年頃の少女などあっという間に恋に落ちるだろう。そのような彼らが揃って皐月という強者の傍に固まっている光景は、日常の一部であった。その様子を、ある生徒は騎士が可憐な姫に侍っているようだと表現した。
五人の少年は皆、皐月の虜になっていた。容姿、頭脳、性格、家柄。どこをとっても非の打ちどころ一つない彼女の心を手に入れたいと願った。彼らは互いを自らのライバルと認識していた。表向きは和やかに交流しているが、水面下では警戒し、相手が先走る真似をしないか監視し合う毎日だった。
そうして密かに争う彼らの元に、皐月との仲を深める機会が巡ってきた。それが今回の集まりだ。
限られた人間のみが集う会員制サロンを祖父に頼んで一日借り受けた皐月は、学校でできた新しい友人たちをその場へ招待した。
その理由は、彼らとともにある会を発足するためであった。
「では、私の手番だな」
皐月は二つのダイスを手の中で転がすと、テーブルの上に放り投げた。
「八か。そうだな……中庭へ」
皐月はテーブルの上に広がるボードの上にある自身の駒を動かす。
「マスタードが、ピストルで、中庭で」
「出そう」
皐月の低く気高そうな声が宣言すると、左手前に座る拓真が一枚のカードをテーブルの上に滑らせた。皐月はカードを受け取ると、他の者には見えないようにめくる。
「ありがとう」
皐月は微笑みながらカードを拓真に返す。拓真は若干頬を染めながら応じた。
それを見ていた隣の修平が顔を顰めながら、早くダイスを振るように肘で小突いて促した。
「ええと、じゃあガレージかな。グリーンが、短剣で、ガレージで」
「持ってる」
修平がカードを差し出す。
征四郎、稔、涼は、彼らのやり取りをじっと観察していた。
この日、サロンに集まった少年少女は、手がかりを集めて答えを推理するボードゲームで対決していた。ゲームは主催者の皐月が持ってきたものだ。ゲームが始まって十五分、少年たちは静かに熱中し、頭脳を働かせていた。皐月は彼らの様子をにこにこしながら眺めている。
皐月が六人の少年を集めた理由。それはこの七人で《探偵クラブ》を創設したかったからだ。
早水皐月という人間は、大のミステリー好きであった。小説、ドラマ、漫画、アニメ、ゲーム。媒体を問わず古今東西のミステリー作品に手を伸ばし、日々謎解きを楽しんでいる。また、科学捜査や法律の知識など、ミステリーに関わる知識を進んで学ぶ意欲もあった。彼女の優秀な頭脳はミステリーのこととなれば最大限に発揮される傾向にあった。
皐月がこれほどミステリーに惹かれる姿に、同級生たちは当初困惑した。しかし、彼女の生い立ちを知ると、その困惑は納得に変化した。
早水家に生まれた父親は、早水グループの企業に入らず警察官の道を歩んだ。現在は警視庁捜査一課長を務める。母親は法医学者だ。どちらも司法に関わる職業であり、それが皐月を犯罪捜査へ興味を抱かせる切っ掛けになったと考えられた。
さらにもう一つ、真偽不確かな噂があった。親が早水グループと関連がある企業に勤めていて、皐月を小学校の頃から知っている生徒からもたらされた情報だ。数年前、早水家が主催したパーティで殺人事件が起きたことがあった。一時期メディアで騒がれた事件だ。その事件は速やかに解決へと至ったが、その事件を解決したのが偶然現場に居合わせた探偵であったというのだ。そして、パーティに出席していた皐月は、探偵が事件を解決する様を目にしたらしい。
その探偵について一切が明らかとなっていない。男か、女か、若いのか、歳をとっているのか。そもそもそんな探偵が実在するのかさえ定かではない。ただ一つ確かなのは、皐月がその事件以降、探偵への強い憧れを抱くようになったということだ。皐月がミステリーに嵌まり出したのはこの時期からだ。
ミステリーをこよなく愛する性格と、騎士に侍られる姫のような立場。
この二つから、皐月は同級生から“探偵姫”という異名をつけられている。
皐月は西楼院高校に入学して以降、同級生の中から自分の趣味を理解してくれる友人を求めた。
これに応えたのが五人の少年だった。皐月が放つ太陽のような眩しさに目を焼かれた彼らは、すぐに名乗り出た。彼らは自分の頭脳が優秀であると自負していて、皐月を満足させられると確信していた。皐月は快く彼らを友人として迎え入れた。こうして彼らは皐月の騎士として名を馳せるようになったのだ。
皐月はゴールデンウィークに一度皆で集まり、《探偵クラブ》の創設とそれを祝うささやかなパーティを開催することを提案した。五人は喜んで了承し、今日この場へ集まった。
五人は今、学校で皐月と話すときよりもずっと充実した時間を過ごしていた。限定された空間で、皐月と時間を共有する。彼女を狙うライバルも一緒だが、そんなデメリットがささいなものと思えるくらいだ。彼らはミステリーを通じて自分の魅力を伝えるチャンスを逃がす気はなかった。ここでいかに相手よりリードするか。それが今後の関係を決定づけることもありえると彼らは考えていた。
「いやあ、白熱してるねー。皆頑張ってー」
五人の間に走る緊迫した空気を霧散させるかのように、呑気な声が響いた。
皐月の右斜め後方のガラス窓前に立つ一人の少年が、ドーナツを片手に笑っている。
ゲームに参加せず一人趨勢を見守っていた彼こそ、《探偵クラブ》に集められた六人目の客、真砂昴だった。
五人は一人気儘な様子の昴に、若干毒気を抜かれた。
昴は彼らと関わりの薄い同級生だ。中肉中背。健康的で溌剌としている。瞳はくりっとしていて小動物のようであり、童顔だ。
学校では仲の良い同級生と漫画、アニメ、ゲームの話題に興じている姿がよく見られる。性格は浮世離れしていて、その上こだわりが強い性格。一度興味を持ったことはとことん追究したがる性質を持ち、時折突拍子もない言動をしては周囲を驚かせることがあった。一言でいえば変わり者だ。
正直なところ、五人の少年は何故昴がこの場に呼ばれたのか理由が分からなかった。皐月と昴の関係は別段変わったところはない。彼が皐月に認められるような実績を持っているという話も聞いたことがない。ただ、皐月が呼んだ以上は口を挟むのもどうかと思い、深く追及する気は誰にもなかった。何より昴は彼らにとってライバルにはなりえない。ごく普通の中流家庭の生まれで、特別なところは何一つとしてない少年だ。そう考えれば邪険にする必要はどこにもなかった。今は皐月にアピールすることの方が大事だ。
やがて、ゲームに決着がついた。
「グリーンが、鉛のパイプで、ゲームルームで……誰も持っていないか? よし!」
皐月が勝利の笑みを浮かべる。敗北した拓真はこの笑顔を間近で観られただけで十分お釣りが返ってくると思った。
「凄いよ皐月さん! 流石だねー」
「ありがとう。今回は勝利の女神が微笑んでくれたようだ」
「皐月さんはどんなにカッコつけた言葉を使っても似合うね。僕も一度でいいから使ってみたいなー」
昴が称賛の言葉をかけながら、皐月に近づいた。皐月の笑顔を真正面から向けられた昴に、征四郎が露骨に不機嫌そうな表情を浮かべる。
「いやあ、頭を使うのは疲れるけど楽しいな。少し休憩したらもう一度やりたいな」と、修平が眼鏡を触りながら言った。
「勝負するのはいいけどさー、どうせなら他のゲームがしたいよね」
涼があどけない調子で皐月の顔を見上げる。男たちの中で一番背が低く、下手すれば小学生に間違われかねない彼は、こうして子どもじみた振舞いで皐月に接することがよくあった。
「ふふ、やる気に満ちているのはいいことだ。私も用意した甲斐がある」
皐月は少年たちの顔を見回した。
「では、いい具合に温まってきたところで“本命”を出すとしよう」
「本命?」と、拓真が不思議そうに目を開いた。
「この《探偵クラブ》の初回に相応しい謎解きを用意してきた」
「へえ、推理クイズかい?」
稔が好奇心に満ちた様子で訊ねた。
「いや、クイズではない。これから披露するのは実際に起きた事件にまつわる話だ」
誰かが息を呑む音がした。
「実際の事件だって?」と、拓真が訝しそうにする。
皐月は頷いた。
「あれを見てほしい」
皐月がリビングルームの壁にかけてある一枚の絵画を指差した。鈍色の空を背景に寂寥感のある街並みが描かれている。
「あの絵は、あるアーティストが手がけた作品だ。若い女性で、才能溢れ将来に満ちていると云われていた。そのアーティストが無残に殺害されるという事件が今から十五年前に起きた。未だに解決していない事件だ」
「未解決事件」と、修平が小さく呟いた。
「皆も知っての通り、私の父は警察官だ。この事件は父の友人が捜査に携わっていて、その縁でその事件をよく知る人と知り合う機会に恵まれた。その人物は事件について私に語ってくれて、ミステリーが好きであるならこの事件の真相を考察してみないかと提案したのだ。そこでこの事件の謎解きをここにいる皆でやってみようと思い立ったわけだ」
皐月は席を立つと、離れた場所に置かれていた茶色の封筒を手に取る。戻ってきた彼女は、封筒の中身をテーブルの上に広げた。
「その関係者から聞きとった証言、写真、当時の新聞記事など粗方の情報は揃えている。これを基に事件の真相を考えてみよう。そして、最後に皆の推理を発表してほしい。どうだろうか?」
少年たちは考えた。ここで皆をあっと驚かせる見事な推理を披露すれば、皐月の気を惹き他の者より先んじることができるのではないか。恐らく他の連中も同じことを考えているに違いない。ならば、ここで退く理由はない。
「勿論。僕の知恵でよければ喜んで貸そう」と、拓真が真っ先に名乗りを上げた。
他の四人もそれに続く。
「医学の知識は多少は持っているつもりだ。もしかすると役に立つかもしれない」
「皐月がやるって言ってるのに断るわけないだろ?」
「僕も法律家を目指す身として興味があるな」
「皐月ちゃんと一緒に考えるなら楽しいに決まってるもん!」
皐月は昴へと視線を向けた。彼は微かに微笑んで無言で頷いた。
「よろしい。では、《探偵クラブ》一同、未知の旅へ踏み出すとしようか」
「まずは、あの絵の作者について説明するとしよう。名前は加西いろり。事件当時は三十二歳。生まれは台東区で、家族とともに東京で育った」
「加西いろり」
涼が首を傾げた。
「あれ、この名前聞き覚えあるな。どこで聞いたんだっけ?」
「聞き覚えがあるのは当然だ。西楼院高校のエントランスホールにも彼女の絵が展示している」
「ああ、そうだそうだ。お母さんから教えてもらったことがあったんだ。昔の卒業生の作品だって」
「加西いろりは西楼院高校のOGだった。本名は小原莉奈という」
皐月が提示したのは、卒業アルバムから抜き出したと思われる写真だ。写真の中の少女は小顔で目が小さく、すっきりとした顔立ちをしている。
「小原莉奈は小さい頃から芸術に関心を示し、暇さえあれば絵を描いていたという。ただ、美術部に在籍していた記録はない。在学中の彼女は、専ら友人との交流に終始していたらしい」
「絵を描いていることは誰も知らなかったのか?」
征四郎が訊くと、皐月は「ああ」と答えた。
「絵を描いていることはひた隠しにしていたらしい。自分の中の昏い感情を知られるのを恐れたからだという」
「昏い感情?」
「彼女は幼少期に母親を事故で亡くしている。そのせいで辛い思いをしたらしい。幸いにも小原家には財産があったから、父親の小原道郎は母親代わりの家政婦を雇って世話をさせていた」
「小原家は金持ちだったのか?」と、修平が訊いた。
「彼は株式投資で富を築いたのだ。金稼ぎにかけては中々の手腕の持ち主だったという。そうですね?」
皐月はリビングルームの入口付近の壁際に佇んでいるサロンのマネージャーに語りかけた。
マネージャーは頷いて、答えた。
「ええ、その通りです」
「貴方は小原氏をご存じなのですか?」
拓真が訊ねた。
「はい。小原氏も生前このサロンに出入りしていたお客様でありました。尤も、その頃私はまだここのマネージャーではありませんでしたが、彼とは何度か面識があります。資産運用の才能があったと言えるのでしょうね。理知的で、頭の回転が速く、そしてとても狡猾な人間でした」
「狡猾というのは褒め言葉ではありませんよね」
稔が指摘した。
「既に亡くなっている方のことを悪く言うのは忍びないのですが……率直に申し上げるならば、小原氏は道徳的にはあまりよい人間ではありませんでした。金に飽かせて酒や女遊びに耽るところがあり、高慢でした。そのせいで問題を起こしたこともあったようですが、金の力で解決したと噂されています」
「悪い野郎だ」と、征四郎が吐き捨てるように言った。
「莉奈はそんな父親のことを苦々しく思っていたのか、親子仲はぎくしゃくしていた。父親の方は性格こそ悪いが娘には存外甘く、彼女の機嫌をとろうと苦心していたと知人の証言がある。娘の方はそうではなかったみたいだがな。彼女の作品は、ほの暗く、退廃的な世界を描いたものが多い。それは彼女の心象を表していたのかもしれない」
皐月は壁の絵を見つめた。
「だが、その一方で誰かに認められたいという欲求もあったのだろう。ついに二十歳になってから加西いろりとして本格的に活動を始めた。彼女の作品は、絵画とウォールアートが中心だった。この頃になると父親との関係は多少改善の兆しを見せていた。小原氏は娘がアーティストとして活動を開始してからしばらく経って、土地を購入してそこに自宅を兼ねたアトリエを建てさせた。莉奈はそこに移り住んで作品制作に没頭した」
皐月が白い建物の写真を見せた。写真の下には『加西いろり・自宅兼アトリエ』と書かれた付箋が貼られている。写真の中の家は、ただ住むことだけを目的として設計されたような無個性さがあった。
「アトリエには黒田明沙という助手の女と一緒に住んでいた。助手というが、実際は家の掃除や買い物など雑用を任せる使用人のような扱いだったらしい。莉奈自身はずっと家政婦に身の回りを世話されていて、自分でやるのが苦手だった。それを代わりにさせるために雇ったのが明沙だ。彼女は小原氏の亡き妻の友人の娘で、彼を経由して引き合わされた。年齢も莉奈の一つ下で、ちょうどいいと考えたのだろう。莉奈がアトリエに移り住むのと同時に雇われ、住居部分の一室に住み込みで働いていた。
小原氏は娘のために随分と手を回した。娘の作品が評価されるよう知人に美術関係の職業に就いている人間を紹介してもらい、作品の宣伝をした。そうして出逢ったのが画廊の経営者、芹沢晴人だった。
芹沢は美術館オーナーの息子で、彼もまたアーティストを志した人間だった。残念ながら彼は志半ばで夢を諦めることになったが、せめて美術関係の仕事に就きたいと願って画廊を開いたのだ。彼にとって加西いろりとの邂逅は運命だったと言える。彼は一目で彼女の作品に魅了された。その後、加西いろりの作品の委託販売と宣伝を一手に引き受けるようになった。これが加西いろりのアーティストとしてのキャリアの始まりだった」
「芹沢は芸術品を好む富裕層にコネがありまして、彼らに加西いろりの作品を売りつけました」と、マネージャーが口を挟んだ。
「芹沢はどういう客が加西の作品を好むかを熟知していたのです。それに――口達者で、口上を聞いているうちに気がつけば買う気になっていた、なんて云われていたそうです。このサロンにあの絵を売ったのも芹沢ですよ」
皐月がくすくすと笑った。
「加西いろりの活動は、芹沢との二人三脚体制で進められた。加西がアトリエに籠って作品制作に打ち込み、芹沢が作品を売る。芹沢の助力を得てからは、急速に評価されるようになった。評論家からも認められ、加西の作品は雑誌にも取り上げられるようになった。本人はあまりメディアに露出したくなかったそうだが、芹沢が仲介していくつかの取材に応じたという」
資料の中から、雑誌の記事のコピーが一枚取り出された。見出しは『加西いろり・美しき暗黒』だった。写真の中の女は、癖のついた長い髪を下ろし、濃いアイシャドウで彩られた瞳をカメラに向けていた。
「きっついメイクだな」
征四郎が不快感を示した。
「加西いろりとしての顔だ。この名前で人前に出る時は、いつもこのメイクをしていた。アーティストになってからの彼女は今まで抑え込んできた感情を遠慮なく露わにするかのように奇抜なファッションを好んだそうだ」
涼が記事のコピーを手に取り、ひらひらとさせた。
「お父さんはこんな格好することに何も言わなかったの?」
「多少は思うところがあったそうです。ですが、可能な限り娘の好きなようにさせたいと仰っていました」
マネージャーが、涼に回答した。
「加西は美術界の人間との接点を一切持たなかった。唯一の窓口は芹沢だけ。後は父親経由で話を通せるくらいだ。本来の莉奈としてあちこちに出ることはあったが、加西として顔を出すのは芹沢の画廊ばかりだった。週に一度か二度は会いに行き、作品制作の進捗や作品の売れ行きについて語り合っていたそうだ。だから、加西にアポを取るのは至難の業だった。芹沢が本当に必要なものだけ選んで、ようやくといったところだ」
「面倒くさい人だったんだね」と、涼が苦笑いした。
「そうして十年の時が流れた。加西が三十歳の時、小原氏は病でこの世を去った。父親の死後、加西は遺品の整理を済ませてからすぐに実家の邸を売却した。この頃から、彼女がアトリエに籠っている時間が増えるようになった。以前よりも制作にのめり込むようになり、作品の切れ味も良くなった。まるで父親の死が彼女の昏い感情をより昇華させたかのようだった」
皐月は一度息を整えた。
「ここからが本題だ。小原氏が死んでから間もなく、加西を取り巻く環境に変化があった。彼女と同居する助手の黒田明沙が不穏な行動をとりだしたのだ。
ここで一度、黒田明沙についても説明しておこう。明沙は元々母親と二人暮らしだった。父親は彼女が生まれる前に何らかの理由で別れたらしく、母親の手一つで育てられてきた。金に余裕はあり生活はできていたそうだが、父親がいないことを学校でからかわれることがあり友人はいなかった。一時期はひきこもりになっていたそうだ。だが、自分のために働く母親の姿を見て思い直し、どうにか学校に復帰して高校卒業まで漕ぎつけた。これは母親の元同僚の証言だが、娘が再び学校に通うようになって随分喜んでいたらしい。
だが、高校を卒業した直後に母親が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。途方に暮れた明沙の前に現れたのが、母親の知人だった小原氏だ。彼は娘の世話をする代わりに、明沙の生活を保障すると言い、彼女はその提案を受け入れた。母親の代わりに料理や洗濯をすることがあり元から慣れているというのもあったし、顔を合わせるのは基本的に加西一人だけだったから比較的気が楽だったのだろう。こうして明沙は加西のアトリエで暮らすようになった。
当初の明沙は真面目に働いていた。言われた通り家事やそれ以外の雑務を処理し、小原氏の覚えも良かった。近隣住民によると明沙はたどたどしくも挨拶をするような人間で、悪い印象はなかったそうだ。だが、小原氏が亡くなってから一変した。彼女はどこで知り合ったのか繁華街で評判の悪い男たちとつるむようになったのだ。これには誰もが驚いた。地味で口数が少なく、一見無害そうな明沙に限ってそんなことは、と思った。しかし、実際に繁華街で男たちと並んで歩く明沙が目撃されると否定のしようがなくなった」
「そうなったのは、子供の頃から不遇な境遇で抑圧されていたせいだろうな」修平が言った。
「生活が安定して、心に余裕ができたところで欲望が顔を出したんだ。小原氏が死んだことで、口出しする奴がいなくなったと思ったのかもしれない」
「加西は何も言わなかったのかよ?」
「ほとんど無視していたそうだ。画廊の芹沢は早期に解決することを加西に進言したが、聞き入れてはもらえなかった」
征四郎の問いに、皐月が答えた。
「じゃあ、分かっていて放置したわけか」
「芹沢は“このまま放っておけば不味いことになる”と再三忠告したが、結果は同じだった。そして残念なことに、彼の懸念は現実のものとなった。明沙の悪評は少しずつ広まっていき、やがて彼女が加西いろりの助手であることが知られるようになった」
「画廊の得意客の中にも苦言を呈する者が現れました。そのせいもあって、加西いろりの活動に支障が出ることを恐れていたのです」
マネージャーは、当時の記憶を振り返るように苦々しい表情を浮かべた。
「ここに至ってようやく加西も明沙に干渉するようになった。悪い男たちと手を切り、真っ当に生きるよう命じたらしい。
これに関してアトリエの隣に住んでいた住民の証言がある。ある晩、アトリエから女性二人の言い争いが聞こえてきた。その住民が耳にした内容で正確に憶えていたのはほんの一部分だけだ。まず、明沙と思わしき方が“何故好きに生きては駄目なのか。私は今まで我慢した分の人生を取り戻したいだけ”と叫んだ。その後に、加西が“貴女は私の助けがなければ生きていけないことを理解しているの”と言い返したという。どうやら加西は生活を改めなければ解雇することをほのめかしたようだ。ただ、これ以降も明沙は変わることなはなかったという。結局、加西も明沙を追い出さず、そのまま同居を続けた。唯一の変化は、二人の関係性が冷え切ったことだ」
「だんだん雲行きが怪しくなってきたね」
拓真が呟くと、他の皆も同意するように頷いた。
皐月は言った。
「ここまでが加西いろりの歩んできた道程と、彼女を取り巻く人間関係のすべてだ。そして、ついに事件が起きた。十五年前の、十二月十日の出来事だ。
この日、午後六時三十分頃に加西いろりは芹沢の画廊を訪れた。この時の彼女はとても穏やかな表情をしていたらしい。芹沢が理由を訊ねると、頭を悩ませていた問題を解決する目途がようやく立ったと答えた。芹沢は明沙の問題に片がつくのだと考え、喜んだ。それから二人はしばらく話して、午後七時に加西は店を出た。この後、人と会う約束をしていると彼女は言い残したという。
だが、一時間後の午後八時に芹沢に電話がかかってきて、衝撃的な報告を受けた。加西のアトリエで火事が起きたのだ。
駆けつけた消防隊によって消火活動が行われたが、アトリエは全焼した。この時、アトリエにいたのは明沙一人だけ。明沙は二階の自室で寝ていたが、火に気づいて慌てて起き、窓から飛び下りて助かった。彼女は多少煙を吸っていたそうで、すぐに病院へと搬送された。
芹沢はすぐに加西に連絡をとった。だが、何度かけても出ない。心配になって警察に相談し、すぐに捜索が行われた」
皐月はここで一度言葉を切ると、聞き手の顔を見回した。
「加西いろりは翌朝、遺体となって発見された。場所は、とある公園の池だ。朝になって池に何かが浮いているのを散歩していた男性が発見した。不審に思って目を凝らして見てみると、それが人の体であると分かり、すぐに警察へ通報した。遺体を引き上げて調べたところ、死因は溺死ではなく、ナイフで胸を刺されたことによる失血死で、ナイフは胸に刺さったままだった」
「あの事件の報せを聞いた時、本当にショックでした」マネージャーが悲しそうに言葉を零した。
「まだ若く、これからだという時に……どうしてあんなことに。理不尽に憤りを覚えるしかありませんでした」
「警察は殺人事件とみて捜査を開始した。当然のことながら前夜に起きたアトリエの火事についても詳しく調べることになった。火事と殺人が同時に発生するなど偶然とは思えないからな。
調べたところ出火元はアトリエの中で、コンセントから出火したと判明した。プラグに埃が溜まっていて、トラッキング現象が起きたのだ。出火した後は、近くに置いてあった資料の本や紙類など燃えやすい物に引火して、燃え広がったと考えられる。油が撒かれた形跡はなかった。一見すると単なる火事にしか思えず、警察は一先ず置いておくことにした。
次に、加西と明沙の間に起きたトラブルについて調べ上げられた。明沙の素行がどういったものか警察が綿密に裏付けをとった。そうして警察は明沙に疑いの目を向けた。芹沢や隣家の住民の証言を得てから、疑惑はさらに深まった。明沙は加西から振舞いを咎められ、止めなければ解雇すると警告されていた。そのことを逆怨みして殺害を決意した、という筋書きだ」
「誰だってそう思うでしょ。普通に考えたらそれが一番ありえるよ」
涼の言葉に、皐月は首肯した。
「殺人事件が起きた時、最も疑わしいのは被害者にもっと身近な人間だ。オーソドックスな考えであり、実際に殺人の動機があった。火事は何らかの証拠を隠滅する目的で火を放ったことによるものではと推測がなされた。だが、ここで大きな問題が立ち塞がった。明沙には鉄壁のアリバイがあったのだ」
「アリバイ? 誰かが黒田明沙のアリバイを証言したのかい?」
皐月は拓真に皮肉そうな笑みを返した。
「誰かもなにも警察自身がアリバイの証人なのだ。いいか? 事件当夜の午後八時前にアトリエで火事が起きた。その後、明沙は病院へ搬送され、ずっと病院のベッドの上にいたのだ。医者だけでなく、聞き取りのため病院を訪れた警官も彼女と話をしている。つまり、火事が起きてから明沙がどこで何をしていたのかはっきりしているというわけだ。
では、被害者の加西いろりはどうだろうか? 彼女は午後七時に画廊を出て、その後現場の公園へ向かい、そこで殺害されたと思われる。問題となるのは現場の公園までの距離だ。公園は画廊から車で四十分ほどの場所にある。一方、アトリエがあるのは画廊から公園とは正反対の方向に車で二十五分ほどの場所だ。被害者が画廊を出て真っ直ぐ現場へ向かったとしても、犯行時刻は早くて七時四十分。遺体を素早く池に捨てても公園を出たのは七時五十分頃だろう。だが、明沙はその頃にはもうアトリエで火事に巻き込まれている最中なのだ」
「成程な。そりゃあ完璧なアリバイだ」
征四郎は感心したように口笛を鳴らした。
「警察はどうにかしてアリバイを崩す方法がないか知恵を巡らせた。タクシー、バス、電車、徒歩を利用して、時間を間に合わせることはできないか? だが、そんな方法は見つからなかった。最有力容疑者の無実が証明されてしまい、捜査は行き詰まった」
「それから?」と、稔が先を促すと、皐月は首を横に振った。
「明沙のアリバイが成立した次は、芹沢に焦点が当たった。被害者が七時に店を出たというのも、人と会う約束をしていたというのも、彼の証言が基礎となっているからな。画廊の防犯カメラを確認すると、確かに加西は七時に店を出ていることが分かった。芹沢は店の奥の事務室に籠って作業をしていて、カメラには映っていない。しかし、八時に火事の報せを受けた後、すぐにアトリエに駆けつけているのでアリバイは成立した。
それから先は様々な可能性を探ったが、状況がひっくり返るような新事実が明らかになることもなく、ただただ時間が過ぎるだけだった。一時は“新進気鋭のアーティストの悲劇的な死”と世間に騒がれたが、やがて過去の話の中に埋もれていった。
事件の後、黒田明沙は人目を避けるようにしてひっそりと東京を去ったという。アトリエがあった場所には、今はもう別の家が建っている」
長話を終えた皐月は、大きく息を吐いた。
「事件のあらましは以上だ。ここからが私たちの出番となる。最初に言ったように、この事件の情報は事件をよく知る人からもたらされた。長い時間が経過した今、もう一度事件を振り返ってみたら、前は気づけなかった何かを見つけられるかもしれないという期待を込めて。私はその申し出を受けた。探偵に憧れる人間として、提示された謎を前に退くことはしない。そして、君たちにもその手伝いをしてほしい。殺人者は黒田明沙なのか? 彼女であればどうやって犯行を可能にしたのか? 犯人が他にいるのであれば、それは一体誰なのか? 事件の資料はまだ見せていない物が沢山ある。何か気になったことがあれば遠慮なく訊いてほしい」