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第89話 前座の終わり、試練の始まり

 姉は、変わってしまった。



 フラレテーナ家において、【灰騎士】を操る権利を持つのは次期当主に選ばれた者のみ。そして、グレイスの姉―――ヘーゼラこそが、本来の【灰騎士】の持ち主であった。


 ヘーゼラはグレイスにとって憧れだった。いや、彼女だけではない。その美貌は男だけではなく、多くの女すらも虜にし、魔術の才は一族の中の誰よりも長けていた。

 だからこそ、誰もが彼女が次期当主になることを疑わず、グレイスもそう思ってた。

 皆から尊敬される最高の姉。その妹に生まれてきたことが、グレイスにとっての誇り。

 そのはずだった。


 だが、それもある日を境に瓦解してしまう。

 ある日、唐突にヘーゼラは家に帰ってきた。

 彼女が家に帰ってきた理由。それは、魔術学校を退学になってしまったせい。その原因は、とある男子生徒との乱闘。


 そして、その男子生徒こそ、ステイン・ソウルウッドである。


 そもそも、何故乱闘になったかと言うと、ヘーゼラを含めた当時学校を牛耳っていた五つの派閥。それらに属する者たちが、ステイン・ソウルウッドの相棒をリンチしたため。

 その報復として、ステインは五つの派閥全てを相手にし、叩きのめした。


 その結果は凄まじく、死人こそ出なかったが、多くの怪我人や重傷者を出し、心の病を患った者も少なくない。

 そして、多くの者が退学処分となり、その中にヘーゼラも含まれていたのだった。


 元々、比翼大会の選抜戦において、ヘーゼラは【灰騎士】を使いながらも、ステインに負けてしまっていた。フラレテーナ家において、男に負けるということは、これ以上ない屈辱であり、致命的な汚点。加えて、乱闘騒ぎで退学処分になったせいで、ヘーゼラは今までの評価と地位を無くしてしまった。


 結果、彼女は家を追い出されることとなった。

 けれど、意外なことにヘーゼラはそれを簡単に承諾。その日の内に、家を出て行こうとしていた。そこには悲しみも絶望もない。次期当主の地位どころか、フラレテーナ家の名前すら取り上げられたというのに、むしろヘーゼラはどこか晴れやかな顔をしていたのだ。


 分からない。

 それが、あの時のヘーゼラを見た者全員の感想だろう。

 彼女は失ったはずだ。地位も、家柄も、名誉も、何もかもを。異名であり、武器であった【灰騎士】も取り上げられ、彼女には何も残っていない。

 だというのに、何故笑っていられるのか。


 理解できない。

 だからこそ、グレイスは姉に向かって問いただした。

 何故、姉様は平然としていられるのかと。

 その問いに対し、ヘーゼラは言い放つ。


『ああ。私はこの家を出て行くことに、何の後悔もない。むしろ、遅すぎたとすら思っている』


 何を言っているんだ、この人は。


『グレイス。私は一人の男に会った。そして気づかされた。自分の心の奥底にある疑念を。幼い頃からずっとずっと抱いていた気持ちを』


 何を言っているんだ、この人は。


『この家の在り方は間違っている。男だ女だなどと、そんな小さなことに囚われている。それが私には気持ちが悪くて仕方なかった』


 何を言っているんだ、この人は。


『強い者は強い。優しい人間は優しい。下劣な輩はどこまでも下劣で、卑怯な奴はいつも卑怯。それが人間と言う生き物だ。男女という性別はあっても、その有り方に性別など関係ない。そんな簡単なことも分からない者たちに私はどうしようもない怒りを感じていたんだ。あの男のおかげで、私はそれに気づくことができた』


 何を言っているんだ、この人は


『だから、私は今、晴れやかな気分だ。自分の気持ちにようやく正直に生きられる。


 何を言っているんだ、この人は。


『グレイス。お前がどんな道を生きるのか。それはお前の自由だ。だが、この家の在り方が正しいと、思考停止することはやめろ。でなければ、いつかお前は取り返しのつかない、大きな後悔をするハメになる』


 分からない。

 分からない。

 分からない。

 目の前の人が、何を言っているのか分からない。


 何故、自分たちの常識を疑うようなことを言うのか。

 何故、自分たちの在り方が正しくないなどと言うのか。


 それではまるで……自分たちが、間違っているようではないか。


 本当に目の前にいるのは、自分の姉なのか。そう疑ってしまうほど、ヘーゼラは変わってしまっていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか。


 原因は火を見るよりも明らか。

 ステイン・ソウルウッド。

 あの男さえいなければ、ヘーゼラが追い出されることはなかった。ずっと自分の理想の姉でい続けてくれたはずだった。


 だからこそ許せなかった。

 だからこそ負かすと決めていた。


 だというのに、だというのに、だというのに!!



(私が、私がっ、こんなところで―――!!)


 振り下ろされる木剣を前に、グレイスは何もできない。

 目の前にいる男は魔術も使えないただの弱者。無能。底辺を這いつくばるゴミ。

 そのはずだ。そのはずなのに。

 そんな男に、グレイスは今、まさに負けようとしていた。


(嫌だ―――)


 負けたくない。倒されたくない。終わりたくない。


 男に、それも自分が格下だと思っていた相手になすすべもなく敗北することは、グレイスの人生そのものを否定されるようなもの。


(嫌だ嫌だ嫌だ―――)


 つまるところ、それはグレイス・フラレテーナにとっては死と同義であった。


(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌―――)



















『―――ああ、全く。見るに堪えん』



 声がした。

 聞きなじみのない女の声がグレイスの頭の中に響き渡る。


『勝ちたいではなく、負けたくない。倒したいではなく、倒されたくない。挙句の果てに終わりたくないと嘆くばかり。全く、落ちぶれたとはいえ、あのフラレテーナ家の人間だというのに、この体たらく。もう少しは魅せてくれると思っていたが、ここまで落ちていたとは。やはり、魔術師というのはロクな奴がいない』


 落胆と侮蔑。それらが入り交じった言葉を前に、グレイスが脳裏に浮かんだ言葉は、ただ一つ。

 それ即ち、疑問。


(貴方、は、いった、い……)

『口を慎めよ、小娘。貴様如きが、妾に口をきくなど、万死に値する。まぁ、ここに顕現ずるきっかけを作った礼として、命までは取らないでやるが』


 言葉の端々から感じる殺気は目の前の木剣よりも恐怖を感じさせるものがあった。


『そういうわけだ。少し身体を寄越せ。気が向いたら返してやる』


 言い終わると同時。

 グレイスの意識は木剣が叩きつけられるその直前に暗闇へと落ちて行ったのであった。











 その瞬間、ルクアは即座に後ろへと跳躍した。


 あと一撃。たった一発。叩き込むだけで勝敗は決していた。それは誰の眼からみても明らかであり、ルクアも当然理解していた。


 だがダメだ。ダメなのだ。

 何がどうダメなのか。それはルクア自身も説明ができない。何せ、先ほどの一撃を入れる直前、ルクアの身体が勝手に後退していたのだから。

 そう。それはまるで、動物の防衛本能が働いたかのように。


「―――ふむ。攻撃を当てる前に後ろへ下がったか。意識してか、それとも無意識からのものか……何にしろ、勘が良いな」


 声が違う。いや、声だけではない。先ほどまでのグレイスとは明らかに纏っている雰囲気が異なっている。まるで、こちらを押しつぶすような圧倒的存在感。

 そして、違いは声や雰囲気だけではなくなった。


 グレイスらしき人物が指を鳴らすと同時、赤黒い液体に包まれる。


(まさかあれは―――血?)


 思わず疑問を浮かべてしまう。それも当然。

 どこからともなく湧き出てくる血の量は、ひと一人分を明らかに超えている。


 そしておびただしい血が無くなったと同時、出てきたのはもはやグレイスとは呼べない少女。


 背丈はさほど変わっていない。だが、赤い王女とも表現できた赤髪は闇のような漆黒へと変色しており、長い長い髪は何の装飾もつけることなく地面まで伸びていた。


 瞳もまた黒く半分のみ瞼が開かれている。だというのに、まるで世の中の者全てを侮蔑するかのような鋭い殺気のようなものを感じさせる代物であった。


「ふむ。とりあえず、こんなところだろう」


 渋々と言った表情を浮かべる少女。

 見てくれはどこからどう見てもただの絶世の美少女。確かに美しいことこの上ないが、しかしその骨格から体付き、どこをどう見てもか弱い女の子のそれ。


 だがしかし、だ。

 ルクアは確信していた。

 目の前の少女が、これまで出会ってきたどんな生き物よりも『危険』であるということを。


「……一体、何者ですか」


 当然にして自然な問いかけ。

 しかし、それは少女にとってあまり気分のよいものではなかったらしく、むっとした表情になりながら口を開く。


「全く。最近の若い者は礼儀がなっておらん。しかし、まぁよかろう。不躾な輩に作法を教えてやるのも先人の役目というもの」


 口にする言葉は若者に対しやれやれと言いたげな年長者のそれ。

 だが、纏う雰囲気、発する空気は常人のそれから遥かにかけ離れていた。



「では改めて―――我が名はアルカミラ。最も新しく、最も美しく、そして、正真正銘、最後の吸血鬼である」


 

 さてさて、これにて茶番は終了。

 哀れで滑稽、そしてどこまでも愚かな前座は退場し、本当の戦いが幕を開けるのであった。

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