地の底からの
パラリ、と天井から埃とも塵とも知れぬものが降ってきた。
床が揺れ窓が鳴っている。ビリビリとした空気の震えは肌で感じられた。
体を突き抜けるほどの、濃く激しい瘴気。
「ナディア様。安全な場所へ」
神殿兵のギルベルトが、廊下を走り抜けてナディアの元へ駆けつける。アンゼルマに命じられて以来、ナディアの身辺に目を光らせてくれているのだ。今も、護衛としての任を果たそうとしているのがよく伝わってくる。
右手を左の肩にあてて、自分の体を抱くようにして神経を集中させていたナディアは、ギルベルトに視線を転じて、手短に命じた。
「私には『浄化』があります。そちらの二人はこの施療院の職員。持っていても『治癒』です。もしここに魔物が現れたとき、あなたが前線の兵士並に戦えるというのなら、身を守るすべを持たない者を守ってください。できれば二人とともに、負傷者のもとへ。身動き出来ぬ者もいるはず」
(捻じれを生むほどの猶予もなく、一気に空気が反転した。神殿を満たす清浄な空気が消えて、瘴気が漂いはじめている。これは魔物が発生する前触れ。神殿に……)
守られて、何不自由なく暮らしている聖女候補者とは何者か。
少なくとも「浄化」を持つナディアは一般の職員や神殿兵以上に、戦える。
「ナディア様。候補者ほどではないにせよ、私も異変が生じているのは知覚できます。ここはすでに危険区域だ。アンゼルマ様が動かれているはずです。ナディア様は後方へ退いて下さい」
ギルベルトは命令に承服していない様子。
有事の際、候補者を一箇所に集めないというのは神殿兵の常識。戦場などで不測の事態に直面したときに、候補者が全滅するのを防ぐためである。アンゼルマが対応に入っているなら、なるべく他の候補者は自らの安全確保に努めよ、というのは妥当な判断。
(わかります。でもこれは、そんなに悠長なことを言っている場合じゃない)
「戦力となる魔力の持ち主として、下がるわけにはいきません。被害が大きくなるだけです。どこで何が起きているのか、確認しに行きます」
「しかし、ナディア様を危険にさらすわけには」
「聞き分けてください。現実的に、私はいまこの神殿にいるほとんどのひとより『強い』んです。アンゼルマ姉さまが『何者か』に負けるとは考えていません。ですが、もしあと一歩で力及ばずという事態に直面したとき、私がそばにいれば必ず助けになります。今守るべきは、戦闘力の無い一般職員や、攻撃系ではないセレーネ姉さまです。私は行きますので、二人をお願いします」
時間が惜しい。
早口に言うと、ギルベルトは顔を強張らせたまま「そのようにいたします。ナディア様はくれぐれもお気をつけて」と軽く頭を下げてから、立ち尽くしている二人の元へ向かった。
それを見届けてから、ナディアは唾を飲み込み、嫌な気配を探る。
(息苦しい。暑くもないのに変な汗が出る。いまこの場に現れようとしているものは、間違いなく今までの私だったら怖くて避けるような相手。それこそ、私より戦いに向いていて、誰よりも強いアンゼルマ姉さまがどうにかしてくれるんじゃないかと。自分は聖女候補で、一緒に全滅するわけにはいかないと、それらしい理由をつけて、逃げようとしたかもしれない)
しかし、自分より強大だと信じてきた義姉のひとり、サンドラが候補者から下りてしまった、という。まだ本人に確認したわけではないが、事実であるならば。
義姉たちとの間に確かにあると信じてきた実力差。それはもしかすると、自分の卑屈さから勝手に幻視した「勝てない理由」でしかないのかもしれない。
(勝てない理由をたてに、守られようとするのは違う。「自分は姉さまたちより優れていないから」その思いを抱えてここまで来たのに、事実上今の時点でサンドラ姉さまを追い越した。サンドラ姉さまの脱落の理由が「自分より下の人間である私に負けそうだ」というその一点だけかはわからないにせよ、勝てない勝てないと言いながら、私は優れた候補者の一人を蹴落としたんだ。この上はもう、そんな言い訳や逃げ道を自分に許している場合じゃない)
「……東……奥庭? ギルベルト、他の方に会ったら私は奥庭へ向かったとお伝えください。指示は上官から出ると思いますが、被害を最小限にするために、一般職員の避難や保護を」
気になっていたいたことを念押しすると、ギルベルトは異論を挟むことなくしっかりと返事をする。目が合った女性二人に微笑みかけてから、ナディアは踵を返した。
時折、床が震える。地震というには妙な感覚。多数の生き物、もしくは大きな何かが地の底で出口を求めて猛烈に蠢いているような。それは、ひとたび出口を見つけたら一気に噴き出してくる。確信がある。
嫌な感覚に導かれるままに、ナディアは自分自身の勘の告げる場所へと急いだ。




