ゆきがさく
見渡す限りの、雪雪雪雪雪雪、雪雪雪雪雪雪。白い花の様に散り散りに舞う。
降りしきる雪に耐えかねて、バス停の屋根が膝を折り、斜め風でぶつかって来る吹雪に、もはや傘は意味を持たなかった。
私が団地街のバス停に到着し、三分と経たないうちに雪霧を散らす四角い物体が左方向から見えて来たので、今日は何だかツイてると感じた。
バス車内には運転手と男の子が一人、そして私。こんな大雪の日にわざわざ出かける珍妙な奴はそうそういないという事だろう。運転手さんも乗車客がいなければさっさと帰れるだろうに難儀な事だ。
バスに降りかかる雪は音を立てながら窓に当たる。まるで戦車が乱射を受けているような状況に思えた。
次のバス停もそのまた次のバス停も乗車客はおらず、雪で道が滞るもののバスは思ったよりすいすいと駅に向かっていった。
しかし、あと少し、あと駅前の十字路をまたぐだけというところで、バスは進まなくなってしまう。道路が小高くなっている十字路の手前で、タイヤが滑って回らなくなってしまったのだ。
「ああ、駄目だ。」という落胆の声を、それまで文句ひとつ言わず運転してくれていた青年がこぼす。
「お金は要らないので、ここから歩いてはくれませんか?」振り返り運転手の彼はそう言った。
先客の少年がラッキーと軽い声をあげたので、私は思わず笑ってしまった。
私達が運転手さんにお礼を言うと、尚も滑りやすいから気を付けてと気遣ってくれた。
確かに車一つ通らない道路は、昨夜一旦雪が豪雨に変わったこともあり、滑りやすくなっていた。
一緒に降りた男の子は青いダウンに青い長靴、といういでたちで歩きたてのペンギンのように、よたよた左右に揺れながら歩いていた。仕方なく彼に手を差し伸べ、二人で支え合いながら滑る雪道を渡った。少年はうわっ、とかおおとか滑る度にすっとんきょな声を出し、その度に私は笑いが止まらなかった。
そんな彼の方は、吹雪の日に丈膝上のプリーツの黒いスカートに、男物のジャケットを羽織った私に心底呆れていた。こんな日におしゃれして誰が見ているんだと、温かくしないと駄目じゃないかと、そう説教臭く言ってきた。私が和服に飽きたので、今日は洋服でおめかししてみたのだが、似合わなかったかと聞くと、彼は渋い顔で大変お似合いですがね、と続く言葉は濁し、そっぽを向いた。
「君、名前は?」
「田中明寿。明けるに寿で「あけとし」」明寿君成る少年は、十一歳の小学五年生だそうで、少し、疑り深げに私の顔を下から覗き込んでくる。名前を聞き返してきた彼は無表情で、もう齢一桁の子どもとは違い、私の見ながら幾多の推測を得ている事を感じさせた。
「私は、雪山 ひかる。豊岡中の二年だよ。」私の返答に彼は少し目を見開いて、緩く相槌した。私はこんな雪のさなかに駅まで出てきた理由を何とか取り繕うとしたが、その前に彼が応えてくれた。
「お姉さん暇そうだよね。」
気遣いのない言葉に、イラっとした。頭の右端の筋肉が軋むのを感じたが、ずっと年の離れた子どもにかっかする程大人気ないなんて思われたくはない。私はその場を取り敢えず笑い飛ばした。
「まぁ、そういう事にしといてあげるけど、そういう君はどうしてこんな雪の日に一人で駅まで来たの?」
「俺んち狭くてさ、妹が風邪ひいて、母さんがずっとイライラしてるんだ。だから一人で家を出てきちゃった。ねぇお姉さん暇だよね。チケット奢るから付き合ってよ。」殊更生意気さが目立つ発言だが、映画なんて数十年ぶりに観る。いや、見たことがあっただろうか。思いだそうとしても、私の記憶は白い雪景色に埋もれてしまう。
映画館へ着くと、そこはガランとしていて、ほとんど人がいなかった。こんな雪の中を歩いてきた私たちを見て、従業員は目を細めて微笑んでいた。映画館の内装はアニメキャラクターらしき動物のモニュメントが、映画の撮影らしき動作をしながらこちらを見下ろしている。薄暗い中に、点々とライトが光っていて、これが非日常の演出なのであろうことが捉えられた。そうして、内装を観察していると、明寿が大盛のポップコーンと二人分の水を持って私の前へ来た。多分余りにもお客がいないから大盛にしてくれたのであろうポップコーンはこんもりと入れ物からはみ出て弧を描いていた。明寿は特に何の感慨も持たず、白い塊を口に放り込んでいた。
私の方に紙の器を掲げる。ラーメン皿ほどの大きさの紙の器は映画館内のモニュメントと同じキャラクター達が走り回っていた。
「知らないの?雪の日にはね、ポップコーンを食べると風邪に効くんだよ。それも、スーパーのじゃダメでね、ちゃんと映画館のおっきい機械で作ったヤツが一番なんだ。塩とバターの香りが体を温めてくれるんだ。間違ってもキャラメルを食べちゃいけないよ。」
私は長いこと生きてきて初めて耳にした風邪予防法に耳を疑った。明寿の凹凸のない口調からは冗談で言っているのか、本気で言ってるのかは読み取れなかった。
そうこうしていると、観る予定の映画の開場の合図が放送される。
入ったシアターには、私と明寿しかいなかった。明寿は貸し切りだと喜んで声をあげ、雪の日もたまには良いもんだと一人頷いていた。
本編が始まる前の予告や宣伝の間も他に誰も入ってこなかったので、私は明寿に聴いてみた。
「ねぇ明寿、どうして雪は降るんだと思う?」
「雪はね、雨みたいにさっさと流れていかないだろう?冬は家にいて冬眠しないといけないから、ああやって僕らのことを塞き止めているんだよ。」
「じゃあ何故、みんな家でじっとしていないの?」と聞くと、明寿は、
「それはね、自然に逆らってでも、利益を上げないといけないからだよ」過労死が増えるわけですねと、ニュースの人みたいに淡々とコメントをした。
明寿の意見は理に適っていた。明寿と話すことは、頭でっかちな学者と話すより、ずっと高尚な氣がした。脳みその若さと、情報社会に振り回されない直観力を感じる。
実際に東洋医学では、冬という季節は、睡眠をとる事で、体力を温存し、血液をろ過しないとイケないとされている。今、現代人の花粉症が年々増えているのは、花粉の増加も理由にあるが、冬の睡眠不足による、血液の浄化不足も大きな要因だ。何たって花粉などへの「免疫力」は血液が作ってくれるのだから。
私は東洋医学について何も知らないはずの小学生が、自分なりの発想でほぼ正解に近い回答をしたことに、心から感動した。なのでそのことを含み、東洋医学について掻い摘んで話した。
しかし、褒めたつもりだったのに明寿は「色気のない話だな」と呆れ顔だった。
「あんまり知識をひけらかすと男に嫌われるよ。いいかい、お姉さん。顔もプロポーションもそれなりにだけど、いい方なんだから、今度男とデートする時はあんまり専門知識をベラベラしゃべっちゃ、いってぇ、、、」
「何で、人が誉めてんのに生意気な口きくのよ。」思わず、生意気なほっぺを指先でつまみ上げた。
「ええぇ、えへへ。ほら映画始まるよ。」明寿は悪気のなさそうな笑顔で話をそらした。私がほっぺを摘まんだことは特に気にも留めず、明寿が映画のスクリーンに向き直る。
映画の内容は温暖化をテーマにしたSFものだった。温暖化で住処を失った、南極の白熊達が民家を襲い、人間を捕食し、知恵を得て世界を征服していくという内容だった。ラストは人間の主人公が白熊の着ぐるみを着たまま、白熊とともに生きていく事を選択するというものだった。
映画の中で、知能を得た白熊が主人公に問いかけた。何故雪は白く冷たいのかと。 主人公は雪が水分の塊だからだと答えた。白熊はそれを訂正した。そしてこう語った。
『 雪が白いのは、全てを白紙に戻す為、そして冷たいのは怒りを冷ます為だ。しかし、今人間の貪欲な愚行により、雪が降らなくなった世界で、我々は今まで人間に受けてきた屈辱を白紙に戻すことも、怒りを冷ますこともしない。』と断言した。
上映が終わると明寿は面白かったと満足した様子だった。どこら辺が良かったか問うと、人間が食べられて血しぶきが出るシーンだと言う。食べられた人間というのが白熊が住まう山にゴミを散らしながら歩く程の輩で、まるで映画では当然の報いのように描かれていた。そういう人間が恐怖に声を上げて、食され、白熊の純白の体が赤く染まっていくのが爽快だったらしい。
その後気がついたが作品は12歳以上の年齢指定作品で、私を誘ったのは明寿一人だと入れない可能性が合ったからだと気がついた。気も頭も回る少年である。
「ねぇ、ひかるお姉ちゃん。チケットの半券でゲーセンで一回遊べるんだよ。」それは映画の告知でも流れていた。私は生まれてこの方クレーンゲームというものをしたことがなかったので、意図せず機会を得られて嬉々とした。
ゲーセンへ行くと、丁度新商品をゲージを開けて店員が並べ変えていた。私の目に従業員の手中にある、三毛猫のモコモコのぬいぐるみが飛び入ってきた。
従業員は途中ゲーム機の影に隠れていた私を捉え、また作業に向き直った。
四五分たって、新入荷を終えたクレーンゲームに近づくと、一匹の猫のぬいぐるみが不自然に首をクレーンの穴に寄りかからせていた。取ってくださいと言わんばかりのその姿勢。取らない理由はないだろう。
何となく恥じ入りながらカウンターへチケットの半券とコインを取り換えてもらいに行く。
人生初めてのクレーンゲームに挑戦する。しかし人生そうそう上手くいかないもので、従業員にお膳立てしていただいたにも関わらず、クレーンの先からするりとぬいぐるみの猫がすり抜けてしまい、穴に落とすことは出来なかった。中途半端に持ち上げられたぬいぐるみはクレーンの出入り口で仰向けにブリッジの態勢で私を見上げていた。
私の苦戦の始終を見ていた明寿が、徐にコインを投入する。明寿はクレーンをクルクル回し、仰向けになったぬいぐるみの正中線にクレーンの刃を忍ばせ、足元からぬいぐるみを掬い上げた。間延びした顔の猫のぬいぐるみは一回転して穴に落ちた。
「はい。」と言って明寿は私に渡してくれた。
「自分の好きなゲームをやらなくて良かったの?」
「趣味じゃない映画に付き合わせたから」私の問いに明寿はそっぽを向いて答えた。
その後再び映画館に行き、明寿は風邪をひいている妹の為、持ち帰り用にポップコーンを再び買った。
「妹さんにイライラしてたんじゃなかったの?」私は明寿の背中に問うた。
「俺はお兄様だから、アイツにこれを食わせて黙らせなきゃいけないんだ。」
振り返りながら説明する明寿は、映画館で私がほっぺをつねった時と同じように笑っていた。
(そうか明寿は照れている時にそのように皮肉を言い、そのように笑うのか。)
私は何故だかそう思ったとたん、自分の目もとにシワを寄せた。
「明寿、私とずっと一緒にいようよ。」、駅に戻る並木のある大きな遊歩道の途中、私は彼にそう告げた。
「ずっとって言うのはいつまで?」私の前を歩いていた明寿は振り返った。
私は「一生」と微笑んで答えた。私は宙に浮いて、その場で吹雪を起こして見せた。明寿は叫びながら走って逃げ出したが、3メートル走ったところで、足を滑らせる。
今、膝がつく。と、いうすんでのとこで雪にを巻き起こしその中に明寿を閉じ込めた。
明寿が妹のお土産に買ったポップコーンは腕にしっかり握られていた。きっと出来立てを妹に届けられるだろう。
私は自分の能力で雪の記憶を辿り、さっきまでいた遊歩道の雪から、明寿の住む団地の近くに降り積もった雪へ、瞬時に明寿の体を移動させた。
明寿は呆けた顔で立ちすくんで暫く立ちすくんでいたが、我に返ると駆け足で家に向かった。
雪女だと分かって明寿に嫌われてしまっただろうか?
しかし、可愛い子を脅かさずにいられないのは妖怪の性だ。
電柱の上から無事に明寿が帰宅したことを確認すると、私は手を挙げて北風小僧を呼んだ。
「何だ、一人でお帰りですかい?」
寒空の下電線に一羽腰かけていたハトが私に話しかけてきた。
「今日あった人々は凍りつけにして雪山に連れて行くにはどいつもこいつも心根が暖かい。一緒にいたら私が溶けてしまうだろう。暫らくは明寿が取ってくれたこの猫のぬいぐるみで退屈をしのげると思う。ので、誰かを連れて行くのは、また今度にしよう。」
「ふーん、あの子は明寿って言うんだね。」このハトも人間に興味があるようだ。
北風小僧が迎えに来て私は北に向かった。
もしかしたら、今回の事で、私は‘‘人ならざるモノの世界’’への縁を明寿につくらせてしまったかもしれない。ハトに明寿の名前を教えてしまった事が何となく気がかりでそう思った。