聖女は死んだ。
かなり重い雰囲気(当社比)となっていますのでご注意ください。
アイリーン・ノクリスという女性の話をしよう。
彼女は由緒ある侯爵家へ長女として生まれた。
年の離れた兄が一人と一歳年上の兄と二歳下の弟、それから三歳下の妹、五人兄妹の真ん中として上からは可愛がられ、下からは慕われてすくすくと育った。
妹を生んですぐ儚くなった美人だった母の面影をそっくりそのまま譲り受けた彼女はその心も美しく、まるで聖女のようだと幼少のころから言われていた。
そしてそんな評判に応えるように彼女は毎朝祈りを捧げ、月に一度教会へと赴き、領民のためにできうる限りのことをした。
干ばつによって領地の農業が不作と聞けば教会へ赴き雨を請い、獣害が増えたと聞けば教会で民の加護を祈った。
そんな彼女を人々はますます聖女だと褒めたたえた。
それは年頃になって美しく成長しても変わることはなく、社交デビューした年には同じ年頃の男性がこぞって彼女にアピールした。
そんな彼女の心を射止め、婚約者の座を手に入れたのはこの国の第一王子。
度重なる夜会で美男美女が並び立つ姿は多くの貴族の心をうっとりと魅了した。
聖女のようなお姫様とカッコいい王子様は物語となり、子供たちの間でも憧れの的となっていた。
国の誰もがこの幸せは末永き続き、この国の将来は安泰だと思っていた。
しかしそんな夢のような、物語のような彼女の人生はある日あっさりとひっくり返されたのだった。
もともと惚れっぽい気質の王子は彼女との婚約を結んだ後もめぼしい令嬢を見つけては手を付けていた。
それはほんの少しだけおしゃべりをするような軽いものから、何年もの間続くものまで。
王子の寵愛を受けた妙齢から年頃の令嬢がどんどんと増えていく。
この国の王族は王妃のほか側室や愛妾を設けることもでき、継承権も正妃腹が優先的に考えられることからそれほど問題視はされることはない。
王子の選ぶ相手がどの女性も王子の正妃としては身分の低い男爵家や子爵家、平民だったことも目こぼしの理由だった。
令嬢たちの間でそうした下位からの成り上がりストーリーが流行ってはいたが、現実はそんな簡単なものじゃないというのはみんなの知るところ。
愛妾になれれば幸運か、なんて程度の王子のお相手のほうも遊び程度としか考えていないものばかりだったのだ。
しかし、そんなある日のことだった。
王子がお遊びで参加した仮面舞踏会で相手をした令嬢が公爵家の娘だと判明してしまったのだ。
それはお世辞にも品のある舞踏会とは言えないものであり、どうしてそんなところに公爵家の令嬢がと疑問に思う暇もなく公爵家は王子へと事実の伺いをたてた。
さすがに公爵家の令嬢はまずいと王家も焦ったのだろう。
巷ではやさしくカッコいい王子として評判の王子が実は好色家であることは両親である国王夫妻も重々承知だ。
いつもの遊びだと言おうにも相手が最高位の爵位をもつ令嬢であればそういうわけにもいかないし、無かったことにしようにも相手側がもうすでに騒ぎそこそこの家には知れ渡ってしまっている。
噂の信ぴょう性は高いと判断されることだろう。
このままでは王子の評価も王家の心証もがた落ちだと、どうするつもりだと憤る国王夫妻に対し、王子はなんと素知らぬ顔で嘘をついた。
「彼女とは以前より愛し合っておりました。しかし王家は公爵家とは深く縁をつなぎすぎているということを考慮し、今まで縁のなかった侯爵家を選びました。けれど真実の愛とはそう簡単に枯れぬもの。頭では理解していようとも、心までは偽りきれませんでした……」
そう苦し気に語る王子に、国王夫妻は驚きつつも疑うことはしなかった。
我が子可愛さも当然あるが、何よりもそう思えるだけの心当たりもあったのだ。
その公爵家の令嬢はいわゆる王子の幼馴染というもので、それこそまだ稚い時代には無邪気に走り回って遊んでいたのだ。
バラ咲き乱れる庭園で結婚しようねと他愛もない約束をしていたこともあると護衛からも聞いたことがあった。
王子の言う通り政治的なバランスを鑑みての婚約ではあったが、二人が真に愛し合っているというのならば公爵家が相手であっても婚約は難しい話ではなかったのだ。
もっと早くにそうと言ってくれればと項垂れた国王も王妃も、この場にいる誰もが失念していた。
たしかに政治的な取り決めではあったけれども、もともとはどこぞのお茶会で垣間見たアイリーンを気に入ったという王子の一言から婚約の話が進んだということを。
悲しいことに王子と公爵令嬢の迫真に迫る名演技に、誰もそのことを思い出す人はいなかった。
そうして公爵令嬢が仮面舞踏会で王子と夜を共にした翌週から、令嬢は実らないと知りつつも愛を全うした乙女と祭り上げられた。
さらには令嬢には人々を癒す力もあるだとか、それに嫉妬した侯爵令嬢が横恋慕をしたとか、そのうえ令嬢を傷ものにしようとしただとか、ついには自分が聖女であると偽っただとかあることないことが面白おかしく徐々に付け足されていった。
彼女は決して自分から聖女だなんて触れ込まなかったというのに、これまで聖女だとアイリーン様をもてはやしてきた者たちはころりと手のひらを返して見せた。
とにもかくにも令嬢の対とするためのアイリーン様の悪い噂が広がるまで、その期間はなんと一か月にも満たない早さだった。
さまざまなことが、なんともタイミングの良すぎる時期に重なってしまっていたのに、誰も疑うことはしなかった。
高位貴族は自分の利益が大事だし、民衆は劇的な物語のほうが盛り上がる。
たとえノクリス家がどれだけ手を尽くそうとも侯爵家一つでは限界があり、噂は尾ひれを付けてめぐり続けてアイリーンの印象はどんどんと悪いものとなっていく。
そうした日々の中でついに王子は自身が主催する夜会でアイリーン様を断罪した。
噂の真相など確かめることなく。
もしかすると、そもそもの噂の出どころが彼自身かもしれない。
とにもかくにも王子はアイリーン様に罪を問うておきながら反論を許すこともなく糾弾し、婚約を破棄して悪女の汚名を着せたのだった。
言葉を挟むことも許されずただただ責め立てられたアイリーン様は放心状態のまま会場を追われ、侯爵家へと帰ってきた。
信じていた者に裏切られるというのはどれほどにつらいものか。
私にはそれを想像することもできやしないが、目の前にいるアイリーン様を見れば、彼女にとってそれがどれほどの衝撃だったのかを推し量ることはできる。
泣き腫らした目を冷やすため、毎朝冷水に手を浸すことになる私を含む侍女に彼女は毎日謝った。
自分の方がつらいだろうに、ごめんねと謝り続ける彼女に使用人たちは心を痛めていた。
そしてその日から、アイリーン様はふさぎ込んだ。
それに引きずられるかのように明るく笑い声が響いていた侯爵家には暗くどんよりとした空気が支配するようになっていた。
そんな日々が続いたある夜のこと。
それは本当に突然のことだった。
みんなが寝静まった時分にガシャンと大きな音と共に喚き散らすような声が屋敷中に響き渡った。
それは屋敷の西側の奥の部屋、この侯爵家においてもっとも労わるべき大事な令嬢の寝室。
つまりアイリーン様の部屋から聞こえた悲鳴にも聞こえる絶叫に家族も使用人も護衛も総出で駆けつけた。
もちろん私も。
そしてそこに見た光景に、私はこの世の理不尽を呪うことになった。
まるで赤子のような仕草で泣き喚くアイリーン様に侯爵は呆然とし、彼女を赤子から見てきた乳母は気を失いそうなほど血の気を引かせた。
長兄はなんとか我に返りすぐさまアイリーン様をなだめようとして、次兄は引きつった顔をしつつも怯えて泣く弟妹を抱きしめていた。
これがノクリス侯爵家がアイリーン様の心が壊れてしまったのだと知ってしまった瞬間だった。
侯爵も兄や弟妹もその日から数日は泣き暮らした。
人々を慈しみ優しくて誰からも愛された娘が、妹が、姉が、こんなことになってしまったことを嘆いていた。
とはいえそのままというわけにはいかない。
あの状態のまま生かしておくのは可哀そうだと言ったのは侯爵だったか、それとも長兄か。
それに否を唱えた弟妹が姉に会えなくなるのは嫌だと泣き、もうどっちみち会えないだろと次兄がひねくれて言ってみせた。
彼は決してアイリーン様が嫌いだからそう言うわけではなく、こうなるきっかけとなった王子への恨みとここまで追い詰められていることに気が付かなかった自分の至らなさに苛立っての暴言だった。
これは次兄だけではなく、侯爵と長兄も同じ思いだったのだろう。
皆一様に苦し気に唇を嚙んでいた。
ただ誠実に生きてきていただけだというのに娘が何をしたというんだと夜ごと酒を煽りながら独り言ちるのは侯爵で、留学中の伝手を使いなんとか妹を救い出そうと頑張っていた長兄は家に帰る日が減っていた。
誰もかれもがやるせなさに歯を食いしばって押し込めてきたこの数か月、アイリーン様の発狂が引き金となって漏れ出てしまったのだ。
「あの、よろしいでしょうか」
そうおずおずときり出したのは前の代より仕える老執事で、彼はすぐにでも決めるのではなくどこか静かな場所で静養させるのはどうかと提案した。
見る人が見ればそれはおかしくなった令嬢を隠して追いやっているようにも見えなくもないし、実際にその意図もあったのは誰も口にはしないが心の底にはあっただろう。
いくらここ数年目立った実績がないせいで政治的発言力のない家と言っても侯爵という地位を持つ貴族だ。
冤罪だとしても心証の悪い壊れた令嬢をいつまでも本邸に生かしておいておくのは侯爵家全体の今後にかかわってくる可能性もあった。
世間体、親心、同情心、良心の呵責、いろんなものがないまぜになりながらも、すぐになんて娘を手放せそうになかった侯爵はその言葉をありがたく受け入れることにした。
それからすぐにアイリーン様の静養地への移住準備が始まった。
住む場所は領地の端にある森を少し入ったところにある家を使うことになった。
貴族の家にしては小ぶりだとしても平民からすれば十分余裕のある家だ。
それから家具や食事、そういった生きていくのに必要なものが決まっていく中で難航したものがあった。
同行する使用人だ。
心を壊してからのアイリーン様は周りに対して気遣いなどできるはずもなく、気に入らないことはもちろん何もなくとも突然不機嫌になっては手当たり次第に当たり散らしていた。
癇癪をおこす幼子のように喚き散らすのは当たり前、手元に物があればそれを投げたりもして侍女が怪我をしたこともあった。
心を壊す前が模範的な淑女だったためにその落差は激しく、そのせいで同行しようという侍女はいなかったと言えるほど少なくて実質それに率先して手を挙げたのは私だけだった。
「本当にいいのかい?」
娘の状態を知っているがためにあまり無理強いはできないとわかっていた侯爵ははじめ月替わりの短期間交換制、もしくはアイリーン様の面倒を見る医療介護人の世話係として侍女を送るつもりだったようだが、私はそれを拒んだ。
私が仕えお世話をするのはアイリーン様ただ一人だ。
他の侍女がおざなりにするかもしれない期間をやきもきしながら待つのも、見ず知らずの人を世話するのもまっぴらごめんだ。
「もとよりわたくしはアイリーンお嬢様に拾っていただいた身。あの日あの方が私を拾ってくださらなければ死んでいました。あの日に私はもう一度生まれたのです。ほかならぬアイリーン様の手によって。だから、どうか旦那様、このちっぽけなわたくしめの願いを叶えてはいただけませんか?」
「そうか……拾われた。たったそれだけでも、お前はあの子のことをそれほど想ってくれるのか」
たったそれだけの理由。
けれど私にとっては何者にも代えがたい、絶対的な理由。
ただひたすらにアイリーン様のためだけに生きてきたのだ。
生まれたことに絶望し、世界を呪いながら生きてきた。
そこそこ人通りの多い通りの隅っこで今にも息絶えそうな私に、見るからに裕福そうな人はみんな見て見ぬふりをして通り過ぎた。
中には汚らしいと罵倒し蹴り上げたりする人もいた。
もう楽になりたいと生に執着することをあきらめた私に手を差し伸べてくれたのはアイリーン様ただ一人。
温かい手が顔を撫で、汚れることも厭わずに私を抱きしめて助けたいと必死に両親に訴えた。
そして手ずから看病をしただけにとどまらず、侍女として傍に仕えることを許してくれた。
それは弟ができて世話を焼きたい盛りの幼い少女のおせっかいだったのかもしれない。
けれど、私にとってその日々が人生の転機であり一番幸福な記憶だった。
私はあの日から、生涯をこのお方に捧げると決めていたのだ。
私の固い意志のこもった目を見た侯爵は私の希望を了承するとともに、片手で目を覆っていた。
ぽたりと書類に落ちる水滴と声は漏らされることはなくとも僅かに震えている肩を見た私はそっと執務室をあとにした。
それから数日としないうちにアイリーン様と私は静養地に移り住んだ。
侍女は私一人、二日に一度食材を運ぶ使用人が来て、ついでに入用がないかを聞いて帰っていく手はずになっている。
それで十分だ。
必要以上に物が置かれていないこざっぱりとした部屋について、早々に長旅に疲れたらしいアイリーン様は眠ってしまった。
その安らかな寝顔に私は少しだけほっと息をついた。
機嫌を損ねなかったからじゃない。
これでようやく静かな場所でアイリーン様の気が煩わされることなく過ごすことができると思ってだ。
侯爵家にいても大体の噂や外界の情報は断つことができる。
しかし、使用人だって人の子だ。
意図せぬところで余計なことを口にすることもあった。
正直アイリーン様に物を投げつけられた侍女は態度のいいものとはいえず、自業自得だったと私は思っている。
どうせ聞こえていてもわかりやしないだろうと陰口か裏切り者のことを話でもしたのだろう。
その証拠に、私を含む真に心配しているだろう家族や乳母、侍女頭や執事には彼女はとても従順な幼子でいた。
若く経験の浅い侍女の好奇心が彼女をさらに追い詰めていると気が付いて、そんな人たちから引き離すために私は一人での世話役を買って出たのだ。
「ずっと、一緒にいますからね」
少し痩せた頬にかかるブロンドを払いのけてやって、寒くないように上かけを引き上げる。
むずがるように身を縮こまらせたアイリーン様の背を優しくなでれば、気持ちよさそうに顔が緩んだ。
「ずっとずっと、ずーっと、お側に、お供致しますからね……」
アイリーン様が眠っていてよかったと思う。
涙声になった言葉を聞かれなくてすんだ。
この日を最後にすると誰にするでもなく言い訳をして、私は誰にもはばかることなく泣いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「何故そんな話をするのか、という顔をしていらっしゃいますね」
目の前に慇懃に座る男を目の前にして、私は憮然とした態度で彼を見据えた。
彼が尊き人であることは知っているし彼の側近たちも私の態度に眉をしかめていたが私は恐れることなく前を見据えていた。
訪問の許可を伺う先触れもなく突然押しかけてきて、先に無礼を働いたのはそちらだ。
しかも今日は日が悪いと断ったのにもかかわらず押し入るように入ってきた。
そんな男にどうして丁寧に対応できようか。
とはいえ何も聞かせないわけにも言わずに物語った私を彼らは止めはしなかったが、奇異な目で見てきた。
「ご自分たちの罪をご理解いただければと思いお話しましたが、どうやら無駄だったようですね」
「罪?」
何を言っているんだこいつは。
そんな言葉がありありと浮かんだ男を見て、元々ないに等しい好意は今やマイナスとなっている。
この胸の内に残るのは怒り、悔しさ、憎しみという負の感情ばかりで、すぐにでもその喉を引き裂いてしまいたい衝動を押しとどめていることを誰かに褒めてもらいたいくらいだった。
相手は腐っても王子、衝動に任せてそんなことをすれば途端に首を落とされる。
それではアイリーン様の世話をする人がいなくなるので耐えたまでだ。
そもそも、この人たちは何をしに来たのか。
その理由は玄関先で述べていたが、だから何だというのが私の気持ちだ。
アイリーン様が断罪されて社交界から姿を消してからしばらくは、王子も公爵令嬢もきらびやかな栄光を堪能していたらしい。
どこに行っても英雄視され、称えられるのはさぞかし気分がよかったことだろう。
しかし、その時にはもうすでに異変が起きていたという。
そもそもアイリーン様を裏切った時点で、じわじわと終わりへと向かい始めていたのだ。
まず初めに天候難が増えて作物が育ちづらくなった。
もともとこの国は農作に適した地ではなかったらしく、国が起きたときに傍に仕えていた後世に聖女と位置付けられた女性神官の祈りによって栄えるようになったと聞いた。
以降国の各地にある教会にて神官や歴代の聖女たちが祈りを捧げることでそれを維持していたというのに、どういうわけかある時期からその祈りむなしく収穫量は減る一方だという。
同時に害獣や害虫が増え始め、作物を荒らし始めたことも問題となった。
実ったばかりの作物からまだ植えたばかりの苗木まで、あらゆるものが被害にあった。
どれだけ警戒しても一瞬の隙をついて彼らは食いたいだけ食い散らかした。
そのせいもあって、さらに食材の供給が滞り国内に貧富の差が生まれた。
さらにそのせいで食うに困ったのか獰猛な獣が人を襲い始めた。
それまで山や森の奥深くで暮らしていたオオカミやクマ、サルなんかが人里まで下りてくるようになった。
いつ何時襲ってくるかもわからない猛獣を恐れた人々は自由に出かけることが減ったことで買い物で回る金銭が減り、経済までも滞った。
たったそれだけでも大きな打撃だった王家はどうにかそれらを回避しようと模索しつつも、損害を補填するために国庫は傾いた。
国民は下から順に疲弊していき、誰もが明日の朝日を見たいと我が身を憐れんだ。
殺伐としていく人々の心に生まれるのはもちろん、王家や貴族への不満だろう。
余裕をなくした心のままに治安の悪い地域が増えて、国は一気に弱体化していった。
そんな中で王家、というよりも王子は不安定ながらも気候や平穏を維持しているノクリス侯爵領に目を付けた。
かの領も被害を受けてはいるものの、領民の心は退れることなく一致団結して乗り切ろうとしていた。
それが国の求める根本ではあったが、きっと他に何か理由があるに違いないと考えた。
それはひとえに侯爵の頑張りと長兄の人脈によるものでもあったというのに、それだけだと言いくくるのは王家のプライドが許さなかったのだろう。
たかが侯爵家にできて王家にできないはずはないと。
それはとてつもないほどの高慢さと醜悪さの滲み出た考えだ。
そうして彼らは思いだしたのだ、かつて聖女と呼ばれた令嬢、アイリーンがいたことを。
どういう思考と口を持っていれば言えるのか、やはり彼女こそが聖女だといいだしたのは当時手のひらを返した王都の神官だった。
もしかすると言わされただけかもしれないが、面の皮が厚いことには変わりはない。
侯爵家は断罪からしばらくは沈黙を保ってきたが、一年ほど経つという時期にアイリーン様の訃報を世間に知らせてひっそりと葬儀を行った。
それは身内だけのものであったが懇意にしていた教会で行われたそれを遠巻きに見学していた者もおり、あの悪女の最期がどんなにも侘しいものだったのかと当時は酒の肴に話している者もいた。
それから一年喪に服し領地に引き上げた侯爵とともに、一家は社交界から一線を引いている。
それも不審に思う要素とみたのか、聖女を匿っているといいだしたのも件の王子だった。
恥知らずもいいところだ。
侯爵家もそれを否定したうえで侯爵領の屋敷はもちろん、領内のいたるところや手放した王都の屋敷に至るまで調べることを許した。
もっとも手放した王都の屋敷はすでに他人のものとなっており、そちらとひと悶着あったようだが。
とにもかくにもどれだけ調べようともアイリーン様の痕跡は一つも見つかりはしない。
それもそのはずだ。
アイリーン様の訃報を世間に知らせたころに私たちの住む家を往復する役目だった使用人はその役目を終え、私自ら町で衣食住を買い求めていたのだから。
今の私はアイリーン様の晩年を支え、死後もなお彼女の安らかなる眠りを祈る傷心の侍女という肩書だ。
働きもせず彼女の終の棲家となった静養地で侯爵家に養ってもらっているのは娘に最後まで忠義を果たし献身的に世話をしてくれた侍女への褒美ということになっている。
これは美談としてじわじわと領民から国内全土へと広まるように兄弟たちが密かに流し続けていたシナリオだった。
その噂が功をなしたのかいつまでも見つからない痕跡に墓まで掘り起こそうといいだす始末の王子を、さすがにそこまでしてはと国王夫妻が止めてくれたのは助かった。
この国の埋葬は基本土葬であり、空っぽの棺を見られればごまかしようもなかったからだ。
そんな感じで不完全燃焼だったのが仇となったか、王子は執念でもっていまだに聖女様を探し続けているらしい。
その姿を見て国民のために奔走していると更なる英雄視するものと、もともとの原因は真の聖女を手ひどく捨てた王子ではないかと眉を顰めるもので二分されて国政はさらに悪化しているようだった。
そもそもあれだけ崇め奉られていた公爵令嬢はどうしたのかと、揚々と語って見せる側近に口を挟めば王子を含めて全員が苦虫を嚙み潰したような顔になった。
なんとあれだけ長年の愛を貫いたと褒めたたえられた令嬢は国が傾き始めるや否やあっさりと王子を捨てて他国へと嫁いだらしい。
それも、政略による国益外交というもっともらしい理由を付けて。
それで納得する国民はいったいどれだけいるのだろうかと思えば、案の定国民の大多数は自分たちを見捨てた聖女を恨んでいるという。
しかも嫁ぎ先の国にもその声は届いているらしく、嫁家や社交界で針の筵となっていても当然この国に泣いて帰れるはずもないのが現状だった。
真実の愛を得たはずが見捨てられた王子と見捨てたはずが全てを失っていた公爵令嬢。
なんともお笑い種な話だと噴き出したのも、彼らの無礼な態度の理由の一つかもしれない。
とまあ、そんなこんなで気味の悪い執念で彼らはここまでたどり着いてしまった。
なんにせよ独断かどうかは知らないがたとえ王命であっても、もう二度とこんな奴らの言いようになんてさせるものか。
「もう言い訳は聞き飽きた。いいからさっさとアイリーンに会わせろ」
「ですから、ここには聖女様はおりません」
ずっと同じことの繰り返しで飽きないのだろうか。
もう何十回もしたようなやり取りに辟易している私を見透かすように、今までただ黙って成り行きを見守っていた側近の一人が発言を求めるように手を挙げた。
彼はたしかアイリーン様の幼馴染でもあった公爵家の嫡男だ。
「貴女は、アイリーン様が儚くなられたとはいわないのですね」
痛いところをついてきた。
さすが側近きっての頭脳派だと、つい口の中で舌打ちしそうになった。
たとえ嘘であってもアイリーン様が死んだと口にしたくない私の心理をうまくついて見せた。
それでも長年の侍女の務めの賜物か、表情を微塵も崩すことなく今一度いないと言おうとしたところで、奥の部屋から大きな音と声が聞こえてしまった。
ハッと時計に目をやれば彼らの訪問からもうすでに一時間以上すぎていて、この時間ならば昼寝をしているからと思って長々と相手をしてしまったことを後悔する。
聞く人が聞けば誰の声かなんてすぐにわかってしまっただろう。
案の定、声を聞きつけた王子は一瞬うろたえた私をあざ笑うように即座に椅子を蹴って歩き出した。
「ああやっぱりいるんだな!!」
「お待ちください!!」
私の制止する声など聞く耳も持たぬようにずかずかと部屋を進む男は無遠慮に大きな音を立てて扉を開けた。
元々広くもない家だ。
すぐにその視線は奥の部屋にいるアイリーン様を捉えたが、それはすぐに戸惑いの色を浮かべることとなった。
「なん、だ……これは……」
男の視線の先、窓辺にある肘掛椅子にたしかにアイリーン様はいた。
けれどその姿は彼の記憶する者とは程遠いものだったからだろう。
輝く様なプラチナブロンドはパサつき、元々肌は白い方だったが、今は青白いという表現が合うほどに白い。
固形物をちゃんと食べられないために皮と骨しかないように見える腕と、夜中でも突然起きて暴れるせいで目の下には隈がある。
ガンガンと先ほどから音がしていたのは、彼女の手に握られていた昼食用に置いてあったフォークだろう。
その先が幾度となく振り落とされているのは話し相手にと置いておいたぬいぐるみを突き抜けた先のテーブルだ。
その姿は社交界で完璧な淑女として咲き誇っていたアイリーン様とは比べ物にならないもの。
男はアイリーンの居場所について先に侯爵家にいっているはずだ。
彼が来る前に断り切れなかったと侯爵からの先触れがきていた。
本当に病気であると、疑うのならばその目で確かめてくればいいと半ばやけくそのように教えてしまったことを謝罪する手紙は、焦りか苛立ちか後悔か、ひどくゆがんでいた。
侯爵も相当疲れているのだろう。
侯爵家ではアイリーン様の処遇を闘病の末病死としているはずなので、ここまで来ているというのなら相当確信をもってしつこく居場所を聞いたのだろう。
きっと病死だというのも、今更聖女として娘を求める王家への不満からの出まかせだとでも思っていたのかもしれない。
侯爵はアイリーン様にはっきりとした病名を付けることも病症について口外することも嫌っていらっしゃったから、どんな病だと聞かれてもきっとはっきりと答えることはできなかっただろう。
それも王子にとっては疑う要素であり、仮に本当に病であったとしてもそれほど重いものではないとでも思ったのかもしれない。
それこそ嘘をつけばいいのに、変なところで生真面目なのだ、我が主のお父君は。
確かに死んだというのは彼らの推測通り嘘だった。
しかしアイリーン様の現状は彼らの思っていたよりも数倍、いや数百倍はひどいものだったのだろう。
こちらを馬鹿にしたような、高慢な態度はその部屋のドアを開けた瞬間に消えてなくなった。
果たしてここにいるアイリーン様は彼らの求める聖女と言えるのだろうか?
たとえ本当に彼らの言う通りアイリーン様が真の聖女だとして、彼らの求める聖女は死んでいると言っても間違いないのではないだろうか。
なぜなら奇跡でも起きない限り、彼女はもう、元になんて戻りはしないのだから。
「なんなんだこれは……あれは誰だ!?」
「誰、とは?そのお方こそアイリーン・ノクリス様でございます。正真正銘、あなた方が謂れなき罪で追い詰めておきながら、今更聖女と位置付けて、追い縋ろうとしている方でございます」
強調するように区切りつつ言っても彼らの耳には入っていないようだ。
世話をしているのが私だけなせいで少しばかり埃っぽい部屋の中、ただひたすらにフォークを振り下ろし続けるアイリーンを彼らは奇妙なものを見るように見ている。
その横を通り過ぎた私はガツンと机に当たるフォークが万が一にも彼女の手足を傷つけてしまわぬようにその枝のような手から抜き取り彼女の手の届かない場所へと放り投げた。
日がな一日寝ているか座っているかな彼女の足はとうの昔に衰えて、元居た場所から数歩歩いただけでも崩れ落ちるから少し遠くに投げてしまえば彼女の手に届くことはない。
フォークを取られたことで気を損ねたのか彼女は取り上げられなかったぬいぐるみを不満げに叩いていたと思いきや途端に笑い出してそれを抱きしめた。
その姿のどこにも、月のように微笑みながら弟妹を見守っていた令嬢の姿など見えはしないだろう。
それでも、たとえあの頃と比べ物にならない姿をしていようとも、彼女こそが私の敬愛すべきお嬢様であることに変わりはない。
「もうお判りでしょう?アイリーン・ノクリス様は見ての通りあの出来事がきっかけでご病気になられました。皆様がお求めになられる聖女の務めなど到底無理でございます」
だからどうかこのまますぐにでもここから立ち去ってくれとの思いのまま深く礼を取った視界に映る複数の足は、それでもなおこの部屋から出ていこうとはしなかった。
「そんな馬鹿な……アイリーンが?」
「あれが本当にアイリーン様なのか?あれはあまりにも……」
「それにこのまま聖女を連れ帰らないのも……」
ぼそぼそと密談するにもこの部屋は狭く、潜めた会話もほぼすべて聞こえる。
なお信じられないと、聖女を連れ行くという彼らに、ずっとくすぶり続けてきたものが一気に燃え上がるのを感じた。
ここまできて、自分たちがしでかしたことの顛末である現状を見てなおも自分たちのことばかりなのかこの男たちは!
「……ぃじょは死んだ」
「え?」
「っ聖女は死んだ!お前らが殺したんだ!心優しく、誰からも慕われ、何よりもこの国の平和を望んでいた聖女を、殺したのはお前らだ!」
もう、不敬だとかそんなものはどうでもいい。
アイリーン様が誰のせいでこうなったのか、どうしてこうなるまで追い詰められたのか、あれだけことの経緯の端々に忍ばせて訴えたというのに、そんなことも考えられないような男になおも敬を表する必要なんてない。
いいや最初からなかった。
私にとっての主はアイリーン様だけで、それはこれからも変わることなんてないのだから。
たとえここで不敬として処されるとしても、だったらその前に己らがどれほど罪深い生き物であるかを知らしめてやらなければ気が済まなかった。
「もう聖女はいない!世界を愛した彼女はいない!この国のために祈ることも叶わない!民の幸せを願うことも!家族との憩いに笑うことも!自身の幸せを噛みしめることも!何もかもできないようにしたのは誰だ!?聖女は死んだ!聖女アイリーンは!他でもなく!あんたたちに殺されたんだ!!」
泣きながらそう叫ぶそんな私のすぐそばにいながら、そんな光景など目に入っていないかのようにただ宙を見つめながら微笑み続けるアイリーン様を、王子たちは呆然と見比べていた。
兄たちの活躍を喜び、弟妹の成長をほほえましく見守って、そこにある幸せにふと涙するようなそんな女性だった。
身近な人が困っているのを放っておけないだけのお人好しな彼女は、ただ幸せな結婚と未来を望んでいた。
それが壊れたのは間違いなく、王子と関わるようになってからなのだ。
次期王妃という重責はとても重いものであったとしても、それが民の幸せにつながるのならばと健気にも耐えていた。
それを壊したのは間違いなく、王子とその周囲の人間なのだ。
「アイリーン様の心は、死んだんだ……あんたたちが、殺したんだ……それなのに、お嬢様は…お嬢様はあんたたちを責めるようなことは絶対に言わなかった……」
心優しく少し臆病で、困っている人を見ると手を貸さずにはいられない、そんな彼女はもういない。
みんなに慕われた聖女のようなアイリーン様は、あの日王子たちの手によって殺されてしまった。
誰よりも優しい彼女の心がもろく儚いものだと知っていたはずの王子たちの手によって、悪女というレッテルを張られて地の底に落とされた。
それなのにアイリーン様は彼らへの責め句を言わなかった。
明らかに彼らが悪いとわかることなのに、彼女は最後まで自分が至らぬせいだと自分を責め続けた。
責め続けた結果がこのなれの果てなのだと、そのことをようやく理解できたのか、それとも受け入れたくないだけなのか、王子は俯き頭を抱えていた。
ついに抑え切れなくなった私の嗚咽だけがこの部屋を包み込んでいた。
「あっ!」
どれくらいの時間がたったのだろう。
不意に、アイリーン様が声をあげたことで私たちは意識を彼女に向ける。
その場の重苦しい空気など全くわからないアイリーン様は先ほどまではただ宙を見つめていただけだというのに、今ははっきりと何かを捉えているようだった。
室内だというのに差し込んでいる不気味なほどに輝かしい光以外その場には何もないはずなのに、彼女ははっきりとナニかに向けて微笑んでいた。
そして私たちには見えないものへと彼女は手を伸ばした。
「ぁ、あー、あぁ、う……」
「っアイリーン!」
伸ばした手の先へ追いすがるように立ち上がったアイリーン様を引き留めようとした王子の腕を掴んだ私は、全体重をかけて出しうる限りの力でそれを阻止した。
「なにをする!離せ!」
「これ以上、アイリーン様から何を奪うというの?もう、いいじゃないか!もうっ……逝かせて、あげて…………」
「……っ」
私にも見えないのだからそれが何なのかわからない。
けれどあの日を境に、いや、それよりもずっと前、それこそ王子の婚約者となった日から浮かべるようになった作った微笑みとは比べ物にならない顔で今彼女は笑っていた。
その顔を崩す権利など、もうこの男には欠片も残っていないのだ。
もう自由にしてあげてほしい、そんな私の言葉の真意をわかっているはずの男はそれでも認めたくないのか、必死に私の手を振りほどこうとしていた。
男の側近はそれに加勢することもなく苦しげな顔で、何も言わずにただ立ち尽くしている。
しかし所詮男と女の力の差は歴然で、数秒もしないうちに私を振り払った男はすぐにアイリーン様へ体を向けて、その場で固まった。
そこには不自然な体勢で佇むアイリーン様がいたのだ。
私と男が押し問答を続けているうちにアイリーン様は目に見えぬ何かにしっかりと抱き着いていたのだろう。
ぎゅうと力いっぱい抱き着く彼女の体勢は不安定であるはずなのに、その身は何かに支えられているかのように倒れ込むことはない。
そこに目に見えぬ何かがいることは明白だった。
言葉なく、唖然とそれを見つめる男たち。
それを尻目に私は深くソレに頭を下げる。
目には見えないものではあってもあれほどアイリーン様が安心して体を預けているのだ、悪いものであるはずはない。
いや、そもそも過去に関わったこの男たちや社交界の化け物たちに勝る害悪などあるわけがない。
王子と婚約している時ですら、こんなにも安堵して幸せそうな顔を見せたことはなかった。
「マナ」
そうして数秒の間、何かに抱き着くような仕草をしたアイリーン様が不意に振り返り私を呼んだ。
私を捉えたその視線の強さに息を呑む。
「マナ、貴女がいたから私は絶望したままでこの世を去る事もなかった。あなたのおかげで、私は誰かを恨んだままでいなかった。ありがとう。ずっと一緒にいてくれると言ってくれたこと、嬉しかった。お世話ばかりかけたのに、あなたのもとへ戻れなくてごめんね。勝手なようだけど、あちらの世界で、あなたを待っているわ」
私の大好きな笑顔でそうはっきりと私に告げたアイリーン様に私がしっかりと頷いたことを見届けると彼女はそのまま崩れるように倒れこんだ。
まるで糸の切れた操り人形が床に落ちたように、ごとりと鈍い音を立てて崩れ落ちたのだ。
「アイ、リーン……?」
王子の震えた声が小さくその場に響く。
それに応える声などあるはずもなく、ただあるのは耳が痛くなるほどの静寂だった。
私は侍女らしく静かにアイリーン様へと近づいて、俯せていた体を抱き起す。
そして顔にかかった白髪交じりのブロンドをよけてやると、その表情に視界がぼやけてしまう。
「……ああ、なんて、幸せそうなお顔」
あの日から彼女の顔を彩るのは悲しい色だけだった。
そこに笑顔を取り戻そうとたくさんの手を尽くしたけれど、結局最後の時まで私の力ではそれは叶わなかった。
心を壊すまで自分を責め続け、心を壊してからも時折ふとした瞬間に正気へと戻り、その都度国の平和を祈っていた清らかな女性。
彼女をこの世で幸せにしてあげることができなかったのは残念だけれど、最期まで私のような使用人を気遣って言葉を残してくれた。
最後にその目で見つめたのが、一時愛した男よりも自分だったことに優越感を覚えた私をどうぞお許しください。
やさしくて、美しくて、誰よりも繊細な少女だったアイリーン様。
私の大好きなお嬢様。
先ほどまでアイリーン様を抱きとめていた光は、今もまだほんのりと熱を感じられる彼女の肢体を抱きしめる私の身にも注いでいる。
とても温かで、泣きそうなほど優しい気配のする光だ。
きっと、最初から彼女はこの世に生まれるべき存在ではなかったのだろう。
だからこそ、この光はアイリーン様を迎えに来たのだ。
そう納得した私の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
彼女のために涙を流したことは多々あったけれど、これほどまで満たされた気持ちで流したのは初めてだった。
そしてそれを拭うかのように一瞬だけ、何かが頬を撫ぜるように空気が揺らいだかと思えば、その光はキラキラと名残を残しながら散っていった。
「どうぞごゆっくり、お休みくださいませ……アイリーン様」
この日この世界を愛しこの国の安泰を祈り続けていた聖女は、死んだ。