車輪の下
(1)
「あなた・・・」
帰宅のチャイムで玄関先まで出迎えた妻は、俺の顔を見るなり絶句した。
俺は朦朧とした足取りで家の中に入ると、腰が抜けたように上がり框に座り込んでしまった。
「ねえ・・・、何かあったの?」
心配のあまりそう問いかけずにおれない妻の言葉を、どこか遠い声のように聞きながら、俺は頭を抱えてうずくまった。
そのまましばらく時間経ったころ、妻は俺の靴を脱がせると、ゆっくりと立たせて寝室へと連れて行った。
妻は俺の背広とスラックスを脱がせ、ベッドに横たえて、布団をかけた。
そこで、俺の意識は完全に途切れてしまった。
翌日は、休日であった。
俺は朝の光の中、心地よいまどろみの中から目を開けた。
新たな一日の始まりを告げる清浄な光は、昨日の記憶に混じる薄気味悪さを洗い流していた。
うん、と腕を伸ばして伸びをして、布団から身を起こすと、普段着に着替えて寝室からリビングに顔を出した。
ダイニングと部屋続きになっているリビングには妻が淹れたコーヒーの匂いがいっぱいに満ちていた。
「おはよう」
声をかけた私に、妻は安堵した顔で、
「おはよう、今日はもういいの?」と聞いた。
「今日はって、ゆうべ、俺、そんなだったか?」
妻は、コーヒーを中程まで満たしたグラスのポットで、カップに茶色の液体を注ぎながら、
「ほんと、昨日は死んだ人みたいな顔だったわよ」と言った。
「そうか・・・」
「どうしたの?」
「え・・・、いや、どうもはっきり覚えていないんだ」
俺には昨日のハッキリとした記憶がなかった。
「お酒の匂いがしたから、どこかで飲んできたんでしょう」
「うん、そんな気持ちもするが、もし、酒を飲んだとしたら、少し飲みすぎたのかもしれない」
「そうね、幸い会社もお休みだから、ゆっくりしていたらいいんじゃない」
「ああ、そうする」
そうして、妻と一緒に朝食を取り、ソファに腰掛けてニュース番組を見ながら何となく午前中を過ごした。
妻は、朝の片付けを終えると、ハンガーに吊るしてある俺のスーツの内懐を探って中のものを取り出し始めた。
妻にすれば、中のものをそのままにしておくと、スーツがシワになるくらいの軽い気持ちだったろう。そして、携帯を取り出すと、側面のアラームランプに気がついた。
「ねえ、あなた、これ着信よね」と声をかけて妻が携帯を手渡す。俺はなんの気なしに立ち上げて、そこに表示されているものを見て驚いた。
会社の上司からの着信履歴が20件以上たまっていたのだ。
(2)
電話の相手は、上司の倉科部長だった。プライベートまで電話で追いかけられることはかつてなかったことだ。しかも、昨日の夜から今日の朝にかけて20件も着信をしていた。
俺はギュッと胃を掴まれるような重い雰囲気を感じながら、上司の最後の着信にコールを返した。
やがて、電話口から部長の声が聞こえてきた。
「おお、北元君、どうしていたんだ」
部長の声からはただならぬ様子が感じられた。
「も、申し訳ありません、部長。どうやら体調を崩してしまったようで」
「そうか、もういいのかい」
「はい、一晩寝たらかなり落ち着きました」
「ああ、それはよかった。今から話すことは病んだ体にはきついからな」
「え・・・」
そして、電話口の向こうから、部長の息を吸い込む音が聞こえた。
「あの、よく落ち着いて聞いて欲しい。実は室井のことなんだが・・・」
室井とは同期入社で、同じ部では特に中のよかった男である。
「室井が何か?」
「ああ、実は昨晩死んだ」
その時、髪を掴まれて、頭を後ろに引っ張られるような感覚を覚えた。
「昨晩死んだ」
その無造作な言い方が、今の自分の気持ちに一番ぴったりあっている気がした。同じフロアで何年も一緒に働いてきた仲間である。その仲間に急に死なれて、目の前に暗い穴が急に口を開けたような感覚だった。そこには、無味乾燥な死という現実があるだけだった。
「北元・・・大丈夫か?」
「は、はい。ちゃんと聞こえています」
「今晩がお通夜、明日が葬式だそうだ。せっかく休みのところ済まんが、細君が一人で心細いだろうから、手伝いに行ってくれんか」
室井は俺と同じで子供がいない。妻との2人暮らしだった。その配偶者に急に先立たれた彼女の嘆きは想像にあまりあった。
「わ、分かりました。すぐに向かいます」
訃報のもたらした、身体を侵食してくる暗い雰囲気を振り払うように、俺は身支度を済ますと早々に家を後にした。
(3)
俺は葬送の気持ちを込めて暗めの色の服を選んで、室井の家を訪ねた。
白い壁に醒めた茶色のドアが一つ。飾り気のない玄関が何事もなかったように午前のひだまりの中俺を出迎えてくれた。
ドアの脇には室井の妻が植えたのか、いくつかの鉢が小さな花を咲かせて置かれていた。
少しサビ色の入った呼び鈴を押すと、「はい」とも返らずにいきなりドアがガチャリと内開きに開いた。
「あの・・・、室井はいま居ませんわ」
室井の妻は、ひどく濃い影の顔を向けながら淡々と口にした。
「いえ、この度は、なんと言ったらいいか・・・」
室井の家は何度も訪ねている。彼の妻も知らない仲ではなかった。
だが、まるで知らない人間を見るように無表情で、その淡々とした口調に気圧されて、口ごもりながらやっとそれだけを口にした。
「はああ・・・」
彼女は胸の奥底に溜まっていた息を全て吐き出すように深くため息ついた。
「すみません、とうぞ中にお入りになって」
彼女はそれだけ口にすると俺を中に招き入れた。
その家の中は嫌になるほど日常だった。ついさっきまで室井が生きていた時間がそこかしこに貼りついていた。
室井の妻は、崩れ落ちるようにソファに身を預けて、すこしだけこちらに顔を傾けて言った。
「うちの主人ね、聞いてらっしゃる?」
「え・・・?」
「ご存知ないのね。昨日の夜ね、駅で電車に轢かれたの。そう、ホームに落ちたところを、ちょうど入ってきた電車に踏み潰されたのよ・・・」
「踏み潰された」の一言に、俺の脳裏に小動物を踏み殺した時の光景がよぎった。真っ赤な体液と肉が混ざり合って、もとの原型を少しも留めない。
「あの、ご主人は・・・」
「そう、手も足もバラバラにちぎれて飛んで集めるのに苦労したそうよ。とりあえず、棺に入れるのに体裁を整えようって、今病院で縫い合わせているの」
室井の妻はそのおぞましい描写を、淡々とこともなげに語った。彼女は突然の身内の死に感情が死んでしまったのかも知れない。
そして、憐憫の情に引きずられるように、思わず彼女の暗い瞳の中を覗き込んだ。もちろん、その虚な瞳には何も映っていなかった。だが、その奥に一瞬彼女が目にしたと思われる悲惨な光景が映った。
暗い霊安室の中、
警察官が指差す先には、冷たい鉄の台があり、そこに室井の体が置かれていた。
室井の遺体には白い布がかぶせられていたが、その起伏の小ささにぎょっとした。1メートルもなかったのだ。それを訝る間もなく、覆いの一部が取り除けられた。そして、そこからは、紛れもなく室井の頭部が現れた。
それは引き潰された身体に不似合いなきれいな顔だった。頬に数カ所擦り傷はあるものの、まるで生きて昨日まで会話していた彼そのものだった。
(4)
一瞬の白昼夢のように、俺の頭には室井の妻が目にした光景が流れてこんできた。
週末には決まって、室井と馴染みの飲み屋で会社や上司の不満をネタに、できもしない反逆の気勢を上げていた。だが、どう言うわけか昨日のことを思い出そうとすると、何か生臭い壁のようなものが記憶の中に立ち塞がっていた。
「し、失礼・・・」
その時、急に襲ってきた背筋を走る悪寒と、胸の奥から突き上げてくる吐き気に、たまらずその場を立ち上がった。
そして、部屋をでて玄関脇の洗面所に駆けこんだ。
「う・・・」
胸の奥の塊を吐き出すことで少しでも楽になろうとするのだが、口の中にすっばい味が広がるだけで何ももどすことできなかった。
そのうち、頭の中でピシリと音を立ててひびが入る感覚が襲った。
封じ込められた記憶が解放されようとしているのだと感じた。
昨日の夜、室井と一緒に過ごしたかも知れない記憶。室井がまさにひきつぶされた瞬間に立ち会ったかも知れない記憶。
その死に様の凄惨さよりも、もっと俺を恐怖させたものとは一体何なのだろう。それは、きっと見てはいけなかったものに違いない。だから、心が封じ込めたがっているに違いなかった。
だが、それを抱えながら、知らぬふりをして、そして、それに怯えながら生き続けることはたまらなく恐ろしかった。その記憶の深淵を覗き込まずにおれなかった。
その記憶の色は赤と黒だった。
それは夜の暗闇の黒、そして、その下に敷き詰められた赤。それは、電車に無残に轢き潰された室井の血溜まり。
記憶の深淵が口を開けて、昨日の夜の光景を吐きだし始めた。それは夜の電車のホーム。
赤ら顔の室井。妙に上機嫌でホームの端でおどけてみせた。
「おい、やめろ、電車が来たらどうするんだ」
同じように顔を赤くしながらも、多少分別の残っていた俺は室井を懸命に嗜めていた。
「ばあか、落ちたりするもんか。それにこんな高さ、すぐに這い上がれるに決まってるだろお」
そう言って身体を傾けた瞬間、
「お・・・」と小さく叫んで彼の身体はホームの下に消えた。
「お、おい」と声をかけつつ駆け寄ると、パァンの鋭い警笛の音とともに白い光が俺たちを包んだ。
「お、おい、早くひっぱり上げてくれ!」
銀色の鉄の塊が迫っていた。思いも寄らなかった窮迫に、室井は片手をホームにかけて、必死の叫びを上げた。
電車も室井に気付いて、ガクンガクンと全身を揺すりながら、ギーーーと重い金属音をさせて止まろうと試みた。
だが、次に目にしたのは、ホームにかけた室井の腕を電車が遠くまで運んでゆく場面だった。それは、なんとも後味の悪い嫌な光景だった。
俺の前を通り過ぎる重い電車の横腹にピッと一本の赤い筋が引かれていた。その先頭に室井の掌が、まるでおいでおいでをするように上下にひらひらと揺れていた。
そして、ギーと一際きしむ音を立てて電車はホームの中程で止まった。その時の俺は、なぜだか分からないけれど、室井の手に招かれるようにフラフラと電車の先頭まで歩いていった。
「きゃあ!!」
ホームで待っていた女性客の鋭い声が凍った空気を切り裂いた。そして、ザワザワと騒ぎ始める声が周りを包んだ。
そして、近づいて見た室井の腕は、その付け根から先が存在していなかった。電車の前面にはベットリと血のりが刷かれ、その下は血の海が広がっていた。その凄惨な光景に俺は頭が真っ白になり、その場にヘナヘナと座り込みそうになった。
だが、俺の心が本当に消し去りたかったのは、そんな血塗れの記憶ではなかった。
本当の恐怖は次に訪れた。
その血の海に、ゴロリと転がり出たものがある。それは、身体から切り飛ばされた室井の頭だった。そして、その顔は事故の凄惨さとは裏腹にほとんど生きているままの形を保っていた。
ゴロリと転がった首は、カッと目を開いていた。そして、それはまるで俺をさっきまでそうしていたように俺を見ていた。
やがて、室井の首は、
口角を上げて、
明らかに、
にい
といやらしい笑いを浮かべたのである。
そこから、俺の記憶は途切れていた。




