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駅にまつわる5つの怪異夜話  作者: 風吹(かざふ)流人(るじん)
1/5

鬼の顔

原則、怪談は短編であり、オムニバスである。


そして、メインディッシュは登場人物への共感ではなく、日常と異なった空間の共有である。


そんな原理原則に従った短編オムニバス集です。


どうぞしばしお付き合いください。

(1)

両手にまだ生暖かい肌の感覚が残っている。


・・・


妻は、今日気分が幾分マシなのか、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


呼吸のたびに隆起を繰り返す胸を眺めながら、こんな身体でも臓器は協力して人間を生かそうとするものなのだと感心をする。


妻が脳梗塞で倒れて、これで3年になる。

最新の医療は、血管が詰まって、酸素の搬入路が絶たれた妻の脳を、かろうじて壊死の危機から救ってくれた。しかし、その間破壊された脳の神経細胞はダメージから回復することはなかった。


妻はまだ70前にして、手足を自由に動かすことのできない完全介護が必要な身になった。私は、それから薄暗い部屋の一室に詰めて、妻につききりの生活を続けている。


残酷なのは、身体はまったく動かせないのに、意識はハッキリして、首から上の視覚も聴覚も味覚もまったく正常なことだ。ろれつは回らなかったが口もきけるので、言葉でなんとか意思疎通もできた。しかし、それはまるで、首から下をコンクリートに固められている肉体の牢獄だった。


私ももう若くない。人生の残りもわずかである。この間、1日1日を悔いなく送りたいと思いながら、24時間のほとんどをこの薄暗く薬の匂いのこもった部屋で妻に寄り添って過ごしている。

もはや、3年前はどうだったかすら思い出せない。人に交わり、楽しげに笑いあって過ごしていたのかも知れない。遠い日々の思い出が木々の緑や眩しい木漏れ日、小川のせせらぎとともに、天然色で行ったり来たりを繰りかえす。それに比べて今の私は、味気ない墨一色の毎日が、たださらさらと人生の砂時計から滑り落ちてゆく。


しかし、妻を置いてこの場所を立ち去ることはできなかった。周りは少しは気を紛らわした方が良いと言う。だが、妻は見るも哀れなほど心が弱くなった。少しでも私の姿が見えないと、大きな声を上げて呼ぶのだ。


「おおお、おおお、おおお」


ろれつの回らない口で、「おおお」と私を探す。それは、唯一の庇護者である私を必死でつなぎ止めておかないと、置き去りにされると恐れているようだった。身体の自由が全く効かない妻にとってそれは死の恐怖に等しい。かつての溌剌とした妻を知る私には、その姿に胸が潰れる思いがした。そして、私の心も妻に縛られて、ここにいる。


(2)

私は自分で自分の人生を誇って良いと思っている。仕事は公職だった。若い頃から地元の発展に尽くして、それなりの立場と信用も手に入れた。

私の最終キャリアを口にするとき、聞いた相手は誰もが驚きを顔にする。そばで目の当たりにした家族もまた誇らしい気持ちになった。自分で言うのはなんだが、申し分のない人生だったと思う。


まだ、親の決めた相手と見合いで結ばれる男女が多かった時代に、妻と私は恋愛の末結ばれた。私は独身男の気楽さで、仲間たちと毎晩のように飲み歩いていた。しかし、実はかなりの下戸で少しアルコールが入るとたちまち酔いが回り、大抵宵の口の一軒目で仲間たちのもとを離れた。そして、わずかなアルコールとつまみでは胃が落ち着かないので、決まったように下宿の近くの定食屋に飛び込んだ。時間はまだ夜の9時前だったが、すでに客の入りはまばらで、翌日の仕込みが忙しい両親に代わって、まだ若い娘が店番をしていた。彼女は美人とは言えなかったが、愛嬌のある顔立ちで店の常連の誰からも好かれていた。名前は「玖美くみ」と言う。

馴染み客の気やすさと他に客の目のない気楽さから、玖美は時々有り合わせの材料で賄いを食べさせてくれた。その時は、玖美も同じテーブルに座って、なんのかんのと私に世話を焼きながら一緒に食べるのである。もちろん、客と店の人間の間ではあってはならないことだったが、私たちの仲は玖美の両親も認めていたのでいつも黙認してくれた。


やがて彼女と結婚し、子供にも恵まれ、多少奮発して一軒家の主になった。それから40年、少しでもいい夫、いい父親になろうと頑張っているうちに夢のように時間が過ぎた。そして、年を重ねても私と妻は身体的に何不自由なことなく、思う存分悠々自適な老後を満喫していた。

そんなある日突然に、妻は肉体の牢獄の住人となり、私は玖美の心の虜囚となった。


そんな妻の寝顔を見ながら、ふとその首筋に両手を置いてみた。


細い、そして脆い、骸骨に皮をかぶった生き物がそこにいた。


(もし、このまま指に力をこめたら、妻はそのまま逝けるだろうか)


そう思ってしまった後は、もう止めようがなく、次から次といろいろな思いが心の中から噴き上げきた。


(3)

妻は何のために生かされているのか。これから、もとの身体に戻ることはありえない。毎日命が削られるように痩せ細ってゆく。それが目に見えて痛々しい。屍同然の肉体に囚われ、それでも必死に命の火を細々と燃やし続ける、それは肉体の牢獄である。そして、死へと続く暗く細い道である。


私が妻にしてやれる最大のことは、その暗い道を寄り添い歩くことか、あるいは、いっそこの牢獄から解放してやることなのか。


「玖美・・・」


私はそっと心の中で妻に呼びかけた。

そして、我知らず妻の首筋に当てた親指に力を込めた。するとたちまち彼女の眉間に縦皺が刻まれ、苦しそうな表情を作った。

私は戯れですぐにやめるつもりだった。本当に妻の命を奪わなくてはならないことになったら、それはどんな感覚なのかを試してみたかっただけなのだ。


だが、私の指は彼女の首から離れなかった。一度味わってしまった感覚のとりこになったように強く、そして深く彼女の喉元に指を突き入れた。


「グエッ」


蟾蜍ひきがえるを踏みつぶすような音をで妻が声を吐き出した。

そして、信頼して縋り付いていたパートナーの、突然の暴力に表情を引きつらせてカッとまなじりを裂いた。その眼の中に映っている私は果たしてどんな姿をしているのだろうか。


しかし、私は妻が一言も発することのないように、彼女の喉元を指で強く圧迫していた。声を出せば、その口から吐かれるのは、呪いの言葉か、あるいは哀願か。そのどちらも、私は聞きたくなかったのだ。

首を締められて、息ができなくなった妻の顔はたちまち真っ赤に膨れ上がり、醜い血管がこめかみを中心に何本も浮き上った。

妻の腕が不自由だったのは幸いだった。妻は私の暴力に抗うことも、腕に爪を立てることさえできなかった。


私は自分でもゾッとするほど冷静でいられた。妻のクビを絞めながら、抑揚のない声で語りかけた。


「なあ、お前、もういいだろう。十分苦しんだのだから、私が楽にしてやる。こんな不自由な身体はさっさと捨てて、新しい身体を手に入れるんだ」


妻の口から血の泡が吹き始めた。だが、それでも生を諦めきれないのか、血溜まりになった口の中で必死に舌を動かして言葉にしようとした。


そうなのだ。家や車ならば、古くなればさっさと新品に乗り換えることができる。

だが、人間の肉体はそうはいかない。それは、人間には「死」と言う名のなんともしようのない巨大な壁が存在するからである。この壁に誰一人立ち向かうことが出来ないから、必死に今の生にしがみつがざるを得ないのだ。それは老残の身で生をつないでいる私にも痛いほど分かる感情であった。だが、この老いと病と死の呪い、その象徴が妻であった。その妻から逃れたい一心でさらに両手に力を込めた。


私の両腕の血管は膨れ上がり、醜く手の甲から肘の付け根に向かって這い上がっていた。ただでさえ血圧の高い私は、血が頭に上って脳溢血で命を落とすかも知れなかった。


だが、その前に妻の目から光が失われた。その時、思わずふっと力の抜けた私の両腕にわずかに気道を確保した妻の口から言葉が漏れた。


「お・・・に・・・」


「鬼」


私には確かにそう聞こえた。


顔を赤く膨らませて、妻の命を断とうと必死で首を絞め続ける私の顔が、この世ならぬ異形の化け物に見えるのだろう。


「鬼」と呼ばれて、本物の鬼に変じたように、私は最後の力を振り絞って妻の喉元に両手の親指を深く突き入れた。


喉が破れたのか、妻は口から血を吐いて事切れた。ついに、私は成し遂げたのだ。この数年間、心に抱きながら、ついになし得なかったその行為を。


次にどんな過酷な運命が待ち受けるかと言う恐怖よりも、まずは妻の心の牢獄から解き放たれた満足感を味わいたかった。そして、私は妻の亡骸をそのままにして、ふらりと家の玄関から外の光の中に彷徨いでた。


(4)

妻を絞め殺し、久しぶりの自由を手に入れた私は、ひどく機嫌良く町中を歩き回った。

だが、日が落ちると同時にとても疲れて腰を下ろしたくなった。

しかし、とても家に帰る気にはなれなかった。家には妻がいる。もうこの世のものではないが、口から血の泡を吹き、恨めしげな眼で私を睨みつけた、彼女の生命の残滓が横たわっていた。私は絵本に怖い絵を見つけた子供のように、二度とそれを目にする気持ちにはなれなかった。

そして、とりあえず腰を下ろすところを求めて家から1キロほどの距離にある駅の待合まで、急勾配のコンクリートの階段を上がり始めた。

気分に任せて昼間歩き回った私の膝は悲鳴をあげていた。少し熱気にもやられたのか、顔がほてって頭も少し痛んだ。

少し足を引きずりながら、なんとか待合にたどり着いた私は、色の剥げかけた椅子に腰を下ろして、「さて、これからどうするか」と始めて現実的な思案をした。


(もう、あの家に帰るつもりはない。妻の死体が見つかるまでには、少しかかるに違いない。ならば、このまま電車に乗って遠くまで逃げ延びよう。幸いにして、銀行には自由に使える金がある。その金で、人里離れた山奥に潜むものよし、パスポートを取って遠く海外まで行くもよし。中国の山奥に潜んだら、きっともう誰も探せないに違いない)


そんな老残の冒険譚に思いを馳せる時、妻殺しの身なのに不謹慎にもワクワクした思いがこみ上げてきた。正直言って、妻には罪悪感も憐憫の気持ちも感じなかったのだ。むしろ、肉体の牢獄から解き放った達成感すら感じていた。


「お・・・に・・・」


あの断末魔の刹那に妻が口にした言葉が思い出された。そうか、私は妻を殺して鬼になったのか。


だが、それに微塵の懺悔も感じないように私の顔に薄い笑みがはかれた。


すると、突如、


「ひいっ」と金切り声が白い蛍光灯に照らされた待合に響いた。


驚いて目をあげると、改札を抜けて家路に向かっていると思しき老女が目を見開いて立ちすくんでいた。そして、私と目が合うともう一度「ひいっ」と叫んで、その場にそのまま尻餅をついた。


慌てて、数人の乗降客が数人駆け寄って彼女を助け起こした。


「大丈夫ですか」


そんな会話が聞こえてくる。


老女は何度も首を横に振りながら、それでも決して私の顔を見ようとはしなかった。


「一体どうしたんですか」


老女のあまりに怯えように周りが心配して声をかける。


「お、鬼が、あ、あそこに・・・」


老女はわななく声でやっとそれだけを口にした。


老女を助け起こした男性の一人が怪訝そうな顔で私の顔を見てくる。妻殺しの鬼畜の相が私の顔に現れているのか。私はいたたまれなくなってその場を後にした。


そして、どこかに逃げ出そうと試みたが、急に身体が重くなり、胃の中身が逆流してくる不快感に苛まれた。景色は暗くなり、顔には脂汗が浮かんだ。遠くなりかかる意識を「ここで病院にでも担ぎ込まれたら全て終わりだ」と励まして、思い足取りを引きずって何とか駅に設置されているトイレにたどり着いた。


頭を洗面台にふせてうずくまり、胸からこみ上げてくるものを吐き出した。だが、それはすっぱい胃液だけだった。肩でしばらく荒い息をしているうちに、だんだん落ち着いてきたので、初めてそこで私は顔を上げて、洗面台の上に設置されている鏡を凝視した。


あの老女を恐怖させた鬼畜の顔がどんなものかを確かめたかったのだ。

だが、そこに写っていたのは、想像していたものとはまるで違った。


そこには驚愕に醜く歪んだ私の顔と、


それを


後ろから覗き込んでいる


妻の顔。


そして、その顔は、


目を見開き、口から血の泡を吹いた、


怨恨に凝り固まった



そのものだった。


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