第8話『ロンボク島にて』
数ヶ月の期間が経過します。
天候は晴れ。辺りに樹木が鬱蒼と生い茂っていて、気温、湿度が共に高いため、ジメジメとしている。汗が良く吹き出る熱帯林。どこもかしこも緑一色。この場所は赤道に近い、つまり暑い。樹木の葉が太陽光を遮断しているため、この場所は少し薄暗い。
そんな中を誰かが歩いていました。深い森の中をまるで自分の農園のような軽快な足取りで、木々に身を隠しながら素早く移動しています。それは獣のような身のこなしでした。その人物は森に同化するために深緑の服装をしていて、素早く動けるように伸縮しやすい服になっている。その腰には鋭い切れ味を持つククリが引っかかっていました。身長の低いやせ型の少女です。
その少女が木々を縫って走っています。その頬を一本の矢が空を切って飛んできて、少女の頬をかすめていきました。頬に切り傷ができて血が垂れる。少女は動じず、木々を蹴って別の木の枝の上に乗る。そこから跳躍して別の木の枝に乗り移った。それは猿のような動きでした。人間ができるような動きではありません。そこを目掛けてどこからか数本の矢が飛んでいきました。全て避けられて別の木の幹に突き刺さる。少女は四肢を使って巨木をの頂上まで上りきった。そこで腰のククリを引き抜き構える。鋭い眼光で下を睨みつけます。そこからでは木々の葉しか見えないけれど、彼女には見えていました。その高性能な瞳で葉の僅かな隙間から一点を捉えます。そこには彼女と同じように、同化色をしたウィンドブレーカーを来ている一人の人間が弓に矢を番えて構えている。彼女は木々の枝の隙間を縫って勢い良く下りて跳躍する。そして地面に回転回避で着地。その勢いのまま立ち上がって走りました。直後、着地点に一本の矢が突き刺さった。少女はちょっとだけ苦い顔になり、樹木の奥地へと走り逃げました。
静かになった森の中、一人の人間は弓に矢を番えたまま、辺りを確認しながら慎重に少女の逃げた方向へと進み始めました。動物の鳴き声だけが聞こえています。直後、背後から草の騒めく音が聞こえ、弓を構えた人間が背後を振り向きます。その時にはすでに、ククリを構えている少女が目の前へと駆けていました。弓を構えても間に合わない。少女のククリが弓を持った人間を捉え、そして切り付けた!しかし、相手はギリギリ背後に飛び退いていたので、ククリの攻撃は服を切り裂いただけでした。少女は攻撃が避けられたのを認識すると、咄嗟に方向転換して木々に隠れました。
「…今の起点は危なかった…。なかなかの使い手だね。」
弓を持つ人間がそう呟いた。その声から察するに男。
その男は弓に矢を三本番えて構えます。そして慎重に進み始めました。先ほどの奇襲といい、この静けさが不気味でした。どこから襲撃してくるかは分からない。心臓がゆっくりと鼓動する音が響き、緊張して唾を飲み込む。汗が頬を伝って流れ落ちる。
慎重に進んでいた彼の背に、急に強い衝撃が走り、彼は地面に倒れ込んだ。その背の上にククリを構えた少女がのしかかった。そしてククリを男の首元に構えました。
「勘弁しなさい!あんたの負けよ!」
少女がそう言い放ちました。なぜか、男は笑顔で笑い始めました。少女が変な顔でその男を睨みます。
「あははははは!ははははは!…負けだよ、僕の負けだ。完敗さ。」
男は笑顔のまま、瞳を閉じました。心地よさそうな顔をしています。
少女が不思議そうに訊きます。
「あんた…一体何者なわけ?その弓技…ただものじゃないのは明白よ。その齢にしてその技がなせるって…。」
「僕はカイト。ツンドラ族の一人さ。この技は闘いのためには作られていない。元々は狩猟用なんだ。みんなを生かすために、食の幸を振るうための技なんだ。争いはあまりしたくない。」
少女が黙り込みました。カイトという人物は目を閉じたまま泥地に寝ています。しばらく無言のまま。それから少女が首元に構えていたククリを自分の腰にひっかけ、カイトの背中から退きました。カイトはちょっとだけ驚き目を丸くしています。
「あんたを殺しても何の得がないわね。さ、自由に好きな所へ行くと良いわ。私はもう、あんたを襲ったりしないから。」
そう言うと少女はどこかへと歩き出しました。
カイトは立ち上がり、体についた泥を叩き落としました。
「ありがと!君は一体何者?その身のこなし、野生動物にも劣らない素早さ、人間を超えている。普通じゃないね。」
少女が立ち止まり、こちらを振り向きました。
「私はとある軍勢に追い詰められて逃げてきた避難民、その末裔。昔、二つの対立する勢力がいた。彼らは自分たちの勢力を広げようと侵攻を進めた。そこで私達はこの熱帯林に逃げてきた。そう言う訳。生まれた時からここにいたから、この熱帯林での闘いが得意になったのよ。」
少女は少し悲しげに語りました。カイトは持っていた弓をウィンドブレーカーに隠し、少女に近寄って訊きます。
「あのさ…君はそれで良いの?」
少女は言いました。
「良いわけないでしょ!悔しいよ…故郷に戻りたいよ。でも…できるわけがない。敵は強大過ぎる。一人でなんて到底…。」
カイトは複雑な気持ちになる。ツンドラ族の敵軍によってたくさんの仲間を殺され、南極から逃げる事となったカイト。彼女の気持ちが痛いほど分かっていました。
「…今、仲間いる?君の悲しみを共有できるような仲間が…。」
少女は首を横に振ります。
「…そっかー…あのさ…いや、何でもない。」
カイトが迷った末に言い留まりました。
「何よ?言い止めないで言いなさいよ。」
「…あのさ、一緒に…旅しない?」
カイトはよそを見て、恥ずかしげに呟いきました。少女は数秒間黙り込んで考えました。
「うーん…確かに、私がいなくなって悲しむ人なんて…もういないし。…それに、ここもじきに乗っ取られちゃうしね。悪くはーないかな?けど…何で私なんかを?」
恥ずかしがっているカイトは背を向けて言ます。
「だからさ…君をほっとけないっていうか何というか…。」
少女は顔を赤くさせて叫ぶ。
「分かったような事言わないでよ!何にも知らないくせに!」
その声が静かな森に響きました。カイトはそんな少女の顔を見つめた。少女は涙目で睨みつけていました。カイトは少しため息を吐いて真剣な表情で言いました。
「そうだよ、全く知らないし…分かるはずがない。だって、僕は君じゃないから。」
「もう黙ってよ!私の事を理解してくれる人なんかこの世にはいないんだから!」
少女はそう捨て台詞を吐くと、その身体能力を活かして素早く森を抜けていきました。カイトは無言でそれを見つめていました。
《ロンボク島。オーストラリアの北西、小スンダ列島にある熱帯林の島。》