第17話『事実と偽り』
前方に騒めく荒い海が見えていました。後方には白がかった草の平地。猛烈な風が吹き込み、鬱蒼と生え渡る平地の草を騒めかせています。天気は曇り空。曇天の灰色がどこまでも続いています。そのため、この場所の気温は通常時と比べてより低い。そこに三人の人影が立っていました。子供が二人と大人が一人。皆、寒さ対策のウィンドブレーカーを着ています。
「…荒れに荒れまくってるが…こんな荒海の中、ボート一つで越えるつもりか?」
大人の男が苦笑いして言いました。
「さすがに僕もこれには乗らないな。ルマ、悪いけど…今日はこの場所で野宿だ。」
少年はそう言いました。
ルマと呼ばれた女の子は少し不安気に、そして嫌そうな顔をしたけれど、少年の案に反論はしませんでした。
三人は前方の海を背にし、平地を歩き始めます。どこか風避けになる場所を探しているのです。この地では気温が氷点下を下回っているため、風避けの場所で野宿しなければいけません。そうでないと、凍傷にかかる可能性があるからです。それはなかなかの厄介でした。だから、まだ日の落ちない内に風避けを探しに行ったのでした。
本当なら、彼らはあのまま航海に入るつもりでした。しかし、今日の海は波が高く、彼らのボートでは乗り切れない。つまり足止めを食らっているわけです。
「…カイト、本当にこんな平地の中、風を凌ぐものなんてあるの?」
ルマは少年にそう訊きます。
「…分からないけど、あるにはあるんじゃない?最悪、地面を掘って死角を作る。」
カイトという少年はそう言ったのを聞いて、ルマは苦い顔になりました。女の子はあまり体を汚したくはないもの。氷河の時は雪を掘っていました。あれは雪でしたが、今回は土。体に付いたら汚れは簡単に取れません。
「…穴を掘るのは氷雪地帯だけだろ。こんなとこで、そんな策が通用するのか?それに相当な労力が必要だ。俺はともかく、お前ら子供の力で足りるのか?」
大人の男は気だるそうに訊きます。
「大丈夫、いざとなればヘルメス一人で掘ってもらうからさ。」
「冗談きついぞ、カイト。」
ヘルメスと呼ばれた男はため息を吐きました。
その日の夜。彼らは日中に平地を探索して、見つけた岩場の穴の中で風を凌いでいました。中では焚き火が揺らめいていて、穴の中を暖色で照らしています。カイトは外の景色を眺めていて、ルマは炎の横でグッスリと眠り込んでいました。ヘルメスが奥の壁に寄りかかって座り込んでいます。三人共、別々の場所で休憩していました。
「…カイト。」
「何?」
穴の奥からヘルメスの声がして、カイトは振り向かずに反応します。
「前から訊きたかったことなんだが…お前、何で北極なんかを目指してる?そんな遠くに来てまで何がしたいんだ?確かに、俺たちツンドラ族は暖かさには弱い。だからと言って、ここまで苦労して来る必要なんかあるのか?」
カイトはしばらく黙り込み、考えていました。それから振り向いて呟きます。
「僕は…未だに引きずってるみたいだ。」
「引きずってる?」
「そう…。覚えてる?僕らがまだ南極にいた頃の事。」
「…あぁ。」
ヘルメスは苦い顔付きでそれだけ言いました。
「…僕には、僕らには家族がいた…。母さんは僕がまだ赤ちゃんだった頃に死んじゃったけど…。父さんも…ヘルメス、君が殺したんだよ。」
ヘルメスは何も言わずにずっと俯いていました。
「…幼なじみのルマも母さんがいた。そして父さんもいた。だけど、ルマの父さんは狩りの最中に雪崩に飲み込まれて死んだ。ルマは唯一、母さんだけが支えだった。でも、ルマの母さんもヘルメスに殺された。」
ヘルメスはずっと無言で黙り込んでいました。
「僕もルマも…家族は一人だけだったんだ。…でも、もうそんなものはないんだ。…ヘルメス、僕は君の事を一ミリ足りとも恨んじゃいないよ。悪いのは…何にもできなかった僕なんだからさ。…そんな自分に嫌気が差した。変わりたいんだ、僕は。父さんは死ぬ前に僕にある伝言をした。…北極に行けって。…僕は罪から逃れたいから、南極から逃げてきたんだよ。北極まで行きたいのは…幼なじみのルマを…絶望させたくなかったから。」
ヘルメスはそれを黙って聞いていました。
「…僕も、ルマも…天涯孤独なんだよ。だから、僕は思ったんだ。もう死んじゃっても良いかなって。南極を出たあとからずっと考えてた。今もね。このまま生き続けても何も良い事がない気がしてたんだ。」
カイトは中途半端なところで話を切り、そのまま岩穴の外へと出て行きました。
「…ちげぇよ、馬鹿。カイト、お前が悪いはずないだろ。悪いのはどう考えたって俺の方なのに…お前…何で俺を殺さない。」
ヘルメスはカイトに聞こえてないのを分かっていて独り言を呟きました。そして黙ったまま座った状態で眠りに就きました。
「…カイト…そんなことって…。」
静かな空間の中、ルマの静かな声がしました。ルマは先ほどからずっと起きていて、話を聞いていたのです。カイトから母親が死んだ事を聞いていなかったルマ。カイトは悲しませたくないために嘘を吐いたのです。その嘘が今、発覚してしまった。ルマは静かに涙を流していました。
真っ暗な外の世界。朝は曇天だったが強風が雲を流し、今夜は快晴の夜空でした。数多の星が煌く中、カイトは岩の上に座り込んで無言で眺めていました。まったく眠れる気がしなかったからです。それに一人になりたかったのです。
「ねぇ、カイト。」
背後からルマの声がして、カイトは首だけ振り返ります。そこに悲しげな顔をしたルマが立っていました。ルマはカイトの横に座ると、空を見上げながら呟きました。
「…カイト、もしさ…もし、弟がいるとしての話で…自分は一人っ子だと思ってたある時、急に自分の弟が現れたらさ…どうする?」
急に奇抜な質問をしてきたルマに、カイトは変な顔付きで考え込みました。それから、
「えっと…僕が弟を守ってあげるかな。二度と離れないようにさ。でも、急に何で?」
ルマは首を横に振りました。
「そっか…。じゃあ、逆に質問。…もし、ルマの…ごめん、何でもない。」
「…言って。気になるよ。」
「えー…でも…。」
「大丈夫だよ、カイト。」
ルマはカイトを見つめてそう言いました。その表情は悲しげだったけど、どことなく優しい顔でした。
「傷ついちゃうかもしれないけど…もしさ、ルマの母さんが死んじゃったらどうする?ルマは生きていけるの?」
ルマは首肯します。
「そっか…。」
「…カイトは父親が死んじゃったんだよね。何か…ごめんね。」
カイトは驚きと疑問の表情でルマを見つめました。ルマはずっと夜空を見上げていました。
「…ごめんね、本当に。私なんか、何で私なんか…。」
ルマは独り言のように呟いています。
「ルマ?」
「カイト、本当にごめんね。」
「何が?」
「私なんかのためにさ、ここまで来てくれて。だけど、もう良いよ。私、北極なんか目指す意味ないもの。カイト、お父さんに言われたんだよね?『北極を目指せ』って。」
「…聞いてたんだ…父さんが死んだ時の…。」
カイトは神妙な顔付きでした。
「確かに北極は安全だし、仲間もいると思うけど…私なんかいたら足でまといでしょ?」
「そんな!そんなことないよ!」
カイトは全力で否定します。それを見て、ルマはクスクスと笑いました。
「…そんなに否定しなくても…。でも、事実だよ。私なんか、何の役にも立ってない。そろそろ、言い時だと思ってたんだ。私は必要ないって。」
「馬鹿言うなよ。僕はルマがいたからここまで来れたんだよ。ヘルメスと二人きりじゃ萎えちゃうよ。」
その言葉に二人は笑います。
「ルマ、もし君が別の場所へ行きたいというなら、僕がついてあげる。北極へ行きたくないならやめるよ。僕と君は幼なじみでしょ。」
「そうだね…カイト、おやすみ。」
「うん…おやすみ、ルマ。」
ルマは立ち上がり、下の穴の中へと戻っていきました。一方のカイトは眠らずにずっと岩の上で空を見上げていました。
翌日、天気は晴れ。太陽の光が照りつけ、風は穏やか。清々しい朝でした。カイトはずっと眠らず岩の上に座っていました。そんな時、穴の中からヘルメスが寝ぼけ眼で出てきたのが見えました。岩の上に座っているカイトを見上げてヘルメスは訊きます。
「…カイト、お前寝てねぇよな。」
「うん。」
「まぁ良いか。…それよりな、カイト。ルマの奴はどこ行った?トイレか?」
「え?…いないの?」
「見てねぇけど。」
カイトは急に岩から飛び降ります。焦り気味で。穴の中を隅々まで調べるカイト。その様子をヘルメスはあくびを吐きながら見ていました。
「いない!…もしかして、ルマ…。」
カイトの脳裏に非常にマズいビジョンが浮かんでいました。ルマは一人でどこかへと消えました。昨夜の会話から推測するに、ルマは自分の不甲斐なさに耐え切れず、役に立たない自分を二人の前から抹消した。ルマは一人で旅立ってしまったのです。それが昨夜のいつ頃かは分かりません。非常にマズい事態です。この広大な平地の中からルマ一人を見つけ出すということがどういうことか。それは砂漠の中に落ちてる落し物を探すぐらいに匹敵することでしょう。
「何で…一緒に行くって言ったのに…。」
カイトは悩み込み、その場に座り込みます。この状況、良い策が思いつくはずがない。どう考えようとも、ルマを見つけることは不可能に等しかった。
そんなカイトにヘルメスは言います。
「カイト、先へ進まないか?」
「ルマを置いてくつもり?」
「あいつが望んでそうした事だ。わざわざ俺達が連れ戻す必要なんかない。」
「同じ仲間じゃないか!仲間を置いて行けるわけがない!」
「仲間?…あいつはもう仲間なんかじゃねぇよ。」
カイトはその言葉に反応し、瞬間的に弓を構えました。狙いをヘルメスに絞って。
「仲間じゃないって?違う!ルマはいつだって僕の仲間だ!」
ヘルメスは馬鹿にするように嘲笑しました。
「そういうのを自己満足って言うんだよ、覚えとけ。」
直後、ヘルメスの頬を一本の矢が掠めました。カイトが威嚇射撃で放った矢です。ヘルメスは飛び退いて弓を構えます。二人は弓を構え睨み合っていました。
「そっちがその気なら、俺も本気で挑ませてもらう。」
「僕は、ヘルメスがどうなろうと知った事じゃない。」
「それがお前の本性ってやつか。所詮は綺麗事だけの人形といったところか。」
キィンッ!
空中で矢と矢の衝突音が響きました。カイトの放った矢にヘルメスが矢を当てて弾いたのです。二人はすかさず矢を番えます。タイミングはまったく同じ。
「お前がルマを連れて来た。ルマは嫌がってるんだよ、お前の事を。いい加減気づけ。」
「うるさい!ルマが僕を嫌おうと、僕はルマを助ける!」
「そういうのを…自己満足と言うんだ!」
ヘルメスは矢を放ちます!カイトはそれを見切って避け、体勢を直さない状態で矢を放ちました!ヘルメスは回転回避でそれを避けます。再び、弓を構え合っての睨み合いになりました。
「自己満足でも良い!僕はルマを―――」
「分からず屋だな。良いか、お前の本性を教えてやろう。お前は独善的で人を見下し、良い男ぶった演技ばかりしていて、人間関係もさほど上手くない、たまたま父の弓のセンスを受け継いだだけの、変態クソガキ弓使いだ、バァアカァッ!」
「ヴアァァッ!」
カイトは怒りに任せて矢を放ちます。それはあっさりとヘルメスに弾かれ、岩場の方へ。
「ふぁ~…あれ?二人共、何して―――」
ドスッ!
まさかのタイミングでルマが現れました!実はルマ、普通に岩の裏で休憩していただけでした。それに気づかなかっただけの二人。弾いた矢がルマを目掛けて飛んでいき、刺さりました。
「「ルマ?!」」
「へ?…え、え?」
矢は紙一重でルマには当たらず、背後の岩に突き刺さりました。ルマはいきなりの攻撃に反応できず、恐怖で体が硬直しています。
「ルマ!どこ行ってたんだよ?!」
「…え?あ、その…向こうの岩に座って休んでたんだ。そしたら何か叫び声が聞こえるから来てみれば…二人共、朝から実戦演習?張り切ってるのは良いけど、今、私に刺さりそうだったよ。本当に驚いたんだから。」
「「はは…あははは…。」」
笑うしかない二人。首を傾げるルマ。変な空気が流れていました。