3 力の解放
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身体が少し軽くなって、冷たくなって、
ずっと狭いところにひとりぼっちなんて、いやだ。
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「死者蘇生学」の授業で、ゴースターが時折口から出す「アペアスポイル」という単語をたまに耳にしていたくせに、僕はすっかり忘れていた。
そういえば、僕は、知り合いにアペアスポイルで働いていたという人物がいたのだった。
『なんだ? クソガキ。オレのでけえ家がうらやましいか? 絶対に入れてやらねえぞ』
いくつのときだか忘れたが、恐らく、小学生になったばかりのころだったとは思う。我が家と、それからステイルおばさんの家の近くに、大きな屋敷が新しく建てられたのだ。友達との遊びから帰宅しようとすると、この間まではまだ出来上がっていなかったその屋敷がいつの間にか出来上がっていたので、汚れたサッカーボールを抱きかかえながら人生で初めてみる大きな屋敷というものに感動し、唖然としてそれを見上げたとこの、その屋敷の主が気がついたら後ろに立っていて、僕の背中にかけたのがさっきの台詞だ。
『あなたがここに引っ越してきたひと?』
僕がきくと、彼はめんどくさそうに顎を引き、
『ああ、そうだ。言っておくけどオレは近所づきあいなんてしないからな。バーベキューをやるときもオレのことを呼ぶなよ。呼ばれても行かねえが』
『バーベキューはたくさんひとがいたほうがたのしい』
『オレはひとりが好きなんだ』
『なぜ?』
『きくな。ぶちのめすぞ』
彼は恐らく父と同年代だった。
その時彼はジャージ姿だったので、僕は思わず彼にきいたのだった。『ほんとうにここの家のひと? お金持ちなの?』
『ああ、金は大量に持ってる。まあそのうち尽きるかもしんねーけどな。おら、クソガキは家に帰りな』
『なんでお金持ちなの?』
なんだかんだで僕を無視せずに会話の相手をしてくれるあたり彼は本質的にはいいひとに違いなかったし、それを当時の僕もわかっていたから、彼にしつこく話しかけたのだ。
彼はしゃがんで、僕と頭の位置を合わせ、僕の目を見て口を開いた。
『あのなあ、オレ、博士なんだよ。天才なの』
『博士?』
『そう。有名な会社で雇われて、いろんな研究をしていたんだ。事情があって会社からは抜けた。これからはひとりで静かーに研究をしようと思ってここに適当に家を建てた。だからなるべくここの家の前では静かにしてろよ。研究の妨げになる』
『ここらへんでは遊ばないから、だいじょうぶだよ……』
僕が小声で言うと、彼は納得してくれたようで、満足げに頷いてからすっと立ち上がった。
『お前、名前は?』
『ぼくはアルバート・レイノルズ。そこの青い屋根の家でお父さんとお母さんと三人で暮らしてる。あなたは?』
『オレは……リヴァー・アームストロング。オレのことを呼びたいときは、アームストロングさん、じゃなくて、アームストロング博士と呼んでくれ』
『よろしく、博士――アームストロング博士』
僕が手を差し伸べると、彼は一瞬苦そうな顔をしてみせたが、渋々ズボンのポケットから片手を出した。
『イタッ』
ふつうに握手してくれるのだと思い、喜んでいた矢先、彼に手をぎゅっと強く握られ、僕は思わず声を上げた。『最低!』
『お前、弱いんだなあ。軽く握っただけだぜ? 修行してやろうか』
『いいよ、別に……』
『あっそ……』
つまらないものを見るように目を細め、彼は背を向けて屋敷に戻りながら、手をひろひらと振った。
この人物が、唯一僕の周りにいたアペアスポイルの人間だ。
ゴースターが生徒たちから「変人」と呼ばれていたように、彼もまた、近隣の人々から「変人」と呼ばれていた。彼は本当に近隣住民とのバーベキューが行われても誘われても参加しなかったし、バーベキューじゃなくたって、そうだった。自分から周りに挨拶をしに行くことも一切なく、特に、主婦たちからは常識の無い男だとして嫌われていた。名前をきかれれば「オレはアームストロング博士だ」とやたら「博士」であることを自称し、彼とすれ違って声をかけてみれば彼の口から出てくる言葉は汚いものばかりだったので、ステイルおばさんは特に彼とは関わらないほうがいいとしかめ面をしながら僕に言うのだった。
ただ、なぜかうちの父とは仲よくなったようで、たまに父に家庭菜園を教えてもらっていた。彼があの屋敷で普段何をしているのかは知らないが――本当にあそこで研究をしていたのかもわからない――とにかく彼は基本あそこに引きこもっていたらしく、彼の姿を見るのは、父と屋敷の前で談笑していたり、ふたりで屋敷の庭で野菜や花を育てているときくらいだった。花に水やりをしているときの彼は比較的やわらかい表情をしていたので、父とも仲がいいし、「いいひとにちがいないんだけどな」と、まわりの人々が彼のことを悪く言うたびにそう思い、悲しい気分になっていたのは確かだ。僕には、彼が無理矢理周りから嫌われようとしているようにも見えたし、おそらく彼は不器用なのだった。それに父も気づいていたからこそ、彼と仲良くできていたのかもしれない。
彼は、父と僕には自ら話しかけることがあった。僕の姿を見かければ、「おい、ガキ、強くなるために修行するか?」と茶化してきたけれど、僕はそのたびに「またこんど」と答えていた。
結局、彼と「修行」をすることはなかった。僕が中学生の頃に、大きな屋敷をひとつ残して彼は消えたのだ。父にきいても、彼の行方はわからないという。彼はどうやら失踪してしまったらしかった。理由も、もちろんわからない。
彼の属していたその会社というのがアペアスポイルだったのだと知ったのは彼が失踪して数か月後に父からきいたためだ。その頃には勿論アペアスポイル社という大きな会社が大体どういうものなのか知っていた。
もし、あの死者蘇生学、それからアペアスポイルにこれから興味を持ったとしても、なにが情報を掴みたくて彼のもとを訪ねることはできない。もう居ないし、今、どこにいるのかもわからないのだから。
あれから、アデリアを家まで送り、自分も帰宅してから、ずいぶんと長く眠ったような気がする。
ベッドの上で瞼を上げ目を覚ましたとき、包帯の下に隠れている右手の甲の切り傷のちょっとした痛覚が蘇ったところで、昨日の出来事はやはり夢ではなかったのだと確認した。
上体を起こし、窓から差しこんでくる朝の陽光を浴びてしばらくっぼうっとするが、
「おい、今、何時だ?」
我に返って、一人で大声をあげた。ケータイを確認する。もうとっくに家を出なければならない時間は過ぎていた。寝過ごしてしまった。
「クソッ!」アラームをかけ忘れたんだ! 僕にしちゃあ、珍しい。
慌ててベッドから降りて、すぐに着替え、荷物などを用意する。
急げ! 他人に遅刻されるのには寛容だが、僕が自分の遅刻は許せないタチなんだ。
頭の中にはとにかく急げ、急げ、という言葉しか浮かばない。
身支度が終わって部屋の扉を勢いよく開け、階段を駆け下りようとする。
早く!
そのとき、僕が階段をおりるためにした動作は、足を一歩前に踏み出す、それだけだった。
身体が軽くなって、なくなったような――ジェットコースターで、高いところから一気に下へものすごいスピードで落ちてゆくときに身体全体で落下と速度を感じるのと似ている――そんな感覚が全身に走る。それはおそらく、わずか一秒もない。
叫ぶことも息をすることもないままに、気がつけばその感覚はあっと言う間に終わっていた。
グラウンドを何周も走ったみたいだ。
はあ、はあ、と大きく息をきらしながら膝に手をついて、目の前の光景に驚く。
「どういうことだ――?」
ここは、一階。数歩先には、リビング。甘ったるいかおりがする。父が果物のジャムを作っているのだろう。
僕は、階段を駆け下りていない。一歩踏み出しただけなのだ。一段しか足をつけていない。
ということは。
テレポートでもしたのか……?
(ついに頭がイかれたか? 目を覚ませ。寝ぼけるな)
左手で左頬に二回パンチを本気で打ち込むが、目は覚めない。
混乱したままリビングに行くと、息を切らして現れた僕の様子に驚いた父が目を丸くしながらキッチンから顔を出す。「まさか寝坊だったのか。てっきり、時間に余裕があって起きてこないのかと」
「うん、ふつうに、寝坊だ……」
「珍しいな。焦るんじゃない。そういうときこそゆっくり行くんだ」
額に手をやり、深呼吸をする。「ああ、そうだね。顔を洗って、すぐに家を出るよ……朝食はいいや」
そしてふらふらと、洗面所に向かう。もう今更急いだって遅刻は遅刻なのだ。父の言う通り、落ち着いて、ゆっくり行くのが吉だろう。
鏡に映る自分の顔を見ると、やたら青白いような気がした。そりゃそうだ。へんな光をみて、へんな夢のようなものを見て、あげくのはてにテレポートを体験すれば、顔色もこんなかんじになるさ。
冷水で顔をバシャバシャと洗い、タオルで乱雑に拭き上げ――
ああ、そんでもって、歯を磨こう――歯ブラシを手にとって――
す、と、歯ブラシを取ろうと手を前に出そうとしたときだった。
それまでは我慢していたけれど、僕は耐え切れず大きな声でワッと叫んだ。
なんだなんだと、父が洗面所のほうにやってきて、「今度はどうした?」と僕に声をかける。
父から目を反らし、歯ブラシをとろうとしていた手を父に見えないようにスウェットのポケットにしまいこみ、僕はすぐに口を開いた。「いや。シンクの上を通りすぎていったんだ。デカい虫がね。もうどっかに行っちゃったよ」
デカい虫だって? んな馬鹿な。僕はこれまで虫に驚いたことはない。
じゃあ僕がなにを見たかって、それは自分の手だ。
いや、正確に言うと、手が消えるところを見たんだ。
歯ブラシをとろうとした瞬間に、手の感覚が誰かに盗まれたかのようにふわりとなくなって、ぼんやりと薄く少ない白い煙をあげながら手がすっと消えるところを。
見つけ次第殺そう。害虫だったらな。
そう言いながら父が洗面所を去ったところで、僕はおそるおそる手をスウェットから出した。
もう、手はある。拳を作り、パッと開くのを繰りかえる。大丈夫だ。元に戻っている。
シンクに手をつき、数度、深呼吸を繰り返す。
鏡に映る顔色の悪い自分と目が合った。
「僕は一体、どうしたんだ……?」
思い当たる節がないわけではない。あるとすれば、あの光を見てから、僕はこういう風になってしまったのだ。心臓は、まるでなにかにカバーされているかのように熱くかんじる。身体は以前よりもどことなく軽くなったように感じ、指先、足先、そして頭の先が冷えているようにも感じる。
まずはポジティブにとらえよう。
これが夢ではないのだとしたら。僕はあの日から少し身体が特殊になったのだ。ちょっと瞬間移動をしたり。体の一部を消す(透けさせる?)ことができたり。
「すっげえ、クールじゃないか。そうだろ? アルバート」
家を出て、歩き始める前に、自分にそう言い聞かせてみる。
「なんも怖がる必要はない。僕はちょっと特別になっただけなんだ。夢なら夢で、楽しめばいい」
数歩歩く。ここは住宅街。
周りに人がいない。運がいい。
「試すぞ」
今日、朝っぱらから何度もした深呼吸を、ここでまた一度。
「さっきはなんて思ってた? 急げ、早く、って、思ってたはずだ」
独り言ぼそぼそ呟いて自分に話しかけているのは、そうでもしないと正直なところ不安と恐怖で押しつぶされそうだからだ。
酸素を細胞のすみずみまでに行き渡させるように、息を大きく吸う。そしてその酸素を細胞から一気に解放するように、こんどは息を大きく吐く。
早く!
(行け!)
身体を例の感覚が走り抜けた。
あたりを見渡すと、さっきいたところよりも数メートル前進していることがわかる。さっきまではうちの庭を隣にして立っていたのに、今ではうちの庭がもう視界から消えている。
もう身体が慣れてしまったのか、一発目の瞬間移動よりも疲労感がかなり薄れている。
成功した、とわかったとき、僕の脳で快楽物質が弾けたような気がした。
「やったぞ!」両手で拳を作り、歯を食いしばってガッツポーズ。「僕はできるんだ! もう、なんでもできる気がするぞ!」
嬉しくて、おかしくて、楽しくて、太陽の下でしばらく一人で笑う。
こうなった自分をこれからどうしようかなどとは、一切考えていなかった。
「もっといろいろ試そう。身体をもっともっと慣らすんだ!」
住宅街を抜けるまでに人が完全にいなかったのをいいことに、住宅街を抜けた通りまでの道を瞬間移動のようなその力を使って早々と抜けた。
もちろん、ふつうに歩くよりも有意義で、時間短縮にもなったし、スリリングな身体への感覚と速さによる頭にまではしるこのたとえにくい快感は、他のものやことから得るのは不可能だと思えた。




