断頭
グルジアの首都、トビリシ。隣国との戦闘が行われているとは思えないほど、この町の人々はいつも通りの生活を送っていた。ニュースでは盛んにアルメニアとアゼルバイジャンを非難する論調を展開していたが、大多数の国民はこの件に対してさほど関心を払っていないようだった──戦争など遠い所で起きている話。まるで自分たちには関係ないと言わんばかりに。グルジアは現在、"DEFCON2"の体制を取っており、町には武装した兵士が警戒にあたり、対空火器が配備されてはいるものの、実際に使用できるものは配置されている数の半分にも満たない状況で、まさしく張子の虎である。
グルジア 首都トビリシ 大統領府 5月26日 1341時
「一体、傭兵の奴らは何をやっているんだ。奴らは最初は軍の訓練を手助けすると言っていたんだ。だから、我が国は奴らに場所を提供していたんだ。だが何だ。勝手にアゼルバイジャンを攻撃して、次に建国すると抜かしおって!初めから我々を騙す気だったのは明々白々だ!軍の連中はどうしてる?何?離反する兵士が止まらないだと!何てことだ。奴らが勝手なことをするから、アゼルバイジャンとの戦闘に巻き込まれているんじゃないか!で、最初の攻撃の時はどうせ訓練の最終テストだとかいう名目を使っていたんだろ?そうだろ?いいか?ここまで戦争を拡大することは許さんぞ!今の我々の正規軍の戦力とアゼルバイジャンに集まった傭兵やPMCの戦力を比べて、冷静に見てみろ!まるでアリとゾウではないか!この件からは、政府としては手を引く!私はこの後、バクーに乗り込んで、ネフスキー大統領に停戦を申し出るつもりだ。いい加減にしろ!それから陸、海、空軍の全ての司令官。いいか、全てだ。全ての軍の司令官、参謀本部の連中は即刻クビだ!傭兵連中には今日付けで出国してもらう。以上だ」
グルジア共和国大統領、ゲンナジー・ルーコフは受話器を乱暴に叩きつけると、昼間にも関わらずグラスにウォッカを注ぎ、一気に飲み干して執務室にある黒い革張りの椅子にドシンと座った。大統領は怒り心頭で、顔を紅潮させ、ぜぇぜぇと息を荒げていた。これが漫画がアニメーションの世界ならば、全身から湯気が立ち上っていたであろう。側頭部の血管が浮き上がり、鼻も大きく膨らんでいる。
やがて、大統領は再び受話器を持ち上げると秘書に外務大臣を呼ぶように命令した。数分後、ドアをノックする音が聞こえ、イワン・ゴロフコ外務大臣が現れた。彼は、ここまで激怒する大統領の姿を見たことがなかったので、一瞬、たじろぎ、やや震えぎみの声で話しかけた。
「お呼びでしょうか、大統領」
「まあ、一杯飲んでくれ。今は昼間だがそんな事は気にしないでくれ話はそれからだ」
ルーコフは何度も大きく深呼吸してなんとか怒りを鎮め、ゴロフコにウォッカを勧めた。ゴロフコは初めは断ろうかと思ったが、大統領はよほど重要な話をするつもりだと感じとり、飲むことにした。
大統領は氷をグラスに入れ、酒を注ぎながら話を始めた。
「奴らの事ですね」
「そうだ。奴らを雇ったのは間違いだったようだ。今日付けで全員をクビにする。国防大臣にもそう言っておいた」
ルーコフはちびりちびり酒を飲んだ。
「これからどうすればいい?国際社会は我々を非難する一方だ。例の中央カフカス連邦に我々が加担していると、各国にある我々の大使館前では抗議デモが止まりまらない。このままでは我が国は孤立してしまう」
「まずは、我が国がこの戦闘に加担していないことを証明しなければなりません。そのためにはバクーに乗り込んで、臨時の首脳会談を開くのが一番良いでしょう」
「その通りだ。飛行機を早く手配しろ。私はすぐにネフスキーに臨時の会談を申し出る」ルーコフはアゼルバイジャン大統領府の電話番号を押した。しかし、全く応答が無い。
「わかりました。すぐに、飛行機の手配を・・・・・どうしました?」
「おかしい。電話線が切れたようだ」
ゴロフコの頭に悪い予感がよぎった。
「大統領、ここにいては危険です。すぐに出ましょう」
ゴロフコはグラスを置くと、護身用の小さな拳銃を手にし、執務室の外にいたボディーガードに合流した。
大統領府の電話線は既に全て切断されていた。庭には警備兵の死体が転がっている。侵入者は素早く門番や庭師を殺し、この建物を制圧しつつあった。脱出用のヘリは細工が施され、爆薬も仕掛けてあった。VALという銃身自体がサプレッサーになった自動小銃とPSSという特殊な消音弾を使う拳銃を装備している。見た目は黒いバラグラヴァ帽に黒い上下のジャンプスーツで、SASやデルタのような見た目だが、所属を表すような部隊章のようなものは服には一切付いていない。不審者は窓を開けて侵入すると、目に入った人間を手当たり次第殺し始めた。
ゴロフコと2人のボディーガードは拳銃を持ち、ルーコフを先導しながら慎重に進んだ。大統領は助けを呼べと命令したが、自分たちの居場所をさらけ出すようなものだとゴロフコが説明すると納得した。「ああ、なんてひどい」大統領は目の前の惨状に驚愕した。ここで働いていたスタッフが、男も女も、全員が銃撃で倒されていた。白い壁や立派なカーペットが敷かれた床には血や肉片、脳漿が飛び散り、銃弾の痕が無数に刻まれている。ゴロフコが通路の曲がり角の右側をそっと覗くとスタッフの一人が四つん這いで逃げているのが見えた。
「やめろ!やめてくれ!あああああ!!!」
悲鳴と同時にサプレッサーの付いた自動火器が連射される"プスプスプス"という音が鳴り、男が痙攣しながら絶命した。それを見ていたゴロフコは"声を出すな、その場で待て"合図した。敵はどうやら慎重に行動しているようだ。ドタドタと走り廻るような真似はせず、4人一組になり忍び足で歩いている。敵はどうやらこちらに気づかず、すぐ前の階段を上がっていった。ゴロフコは大統領の前に立ち塞がるボディガードに"付いてこい"と合図し、壁伝いに体を低くして前進を始めた。
大統領一行はそのまま敵に見つからずに進んだ。先頭を行くゴロフコは確かに閣僚ではあるが、元々は陸軍の空挺部隊に所属していたため、有事の場合の対処法は心得ている。そのため、彼の動きはSPのそれと遜色なかった。しかし、大きな問題がいくつかあった。彼我の火力の差が開いているのと、こちらは襲撃に対して一切、心の準備ができていなかったのだ。奴らはここまで最初から計画していたのだろうか?それとも、どの段階からかはわからないが、こちらを見限って我々を抹殺する計画に移ったのだろうか?奴らは建国すると言った。それが気がかりだった。一体、どうやって建国するのだろうか?確かに、近年はモーリタニアやガイアナといった小国の政府が国家では無い「武装集団」や「テロリスト」に政府を破壊され、国民が完全にそういった奴らの支配下に置かれている例がある。蜂起しようにも、彼我の戦力は圧倒的な差で、しかも「新政府」によって統治されている「一般国民」の海外への出国が一切禁止されているため、傭兵やPMC、国連に助けを求めることができない状況下にすらあるのだ。国連が動いてはいるものの、まともな対策ができていないのが現状だ。ゴロフコは脱出用の「秘密の通路」のある壁を見つけ、静かに押した。しかし、その裏に仕掛けられていた金属球が埋め込まれた15kgのプラスチック爆薬が炸裂し、その場にいた全員を吹き飛ばした。内通者が仕掛けたものだった。その音を聞きつけて確認しに来た敵兵はターゲットが死んだのを確認したが、念には念を入れて全員の頭と心臓に2発ずつ7.62×39mm弾を撃ち込んだ。
大統領府だけではなく、議会、最高裁判所、各種省庁の建物や役所も襲撃を受けた。市街戦となり、何も知らずに通りを歩いていた市民が突然銃撃され、建物が爆破された。
トビリシ市街地 5月26日 1401時
T-62、T-72戦車部隊がトビリシへと入ってきた。元々はグルジア陸軍のものだったが、今はテロリスト部隊のものだ。125ミリ砲が火を吹き、警察署を破壊する。慌てて外へ避難した警察官は機関銃や自動小銃の弾丸の餌食となった。小さな農村部を除き、都市部は規模の大小に関わらず、敵の攻撃を受け、壊滅した。正規兵や民兵、警察官のほとんどが殺害されるか捕虜となり、テロリストの軍政が敷かれることになった。




